今日は、二十五年前に自殺した父・二村孝の誕生日です。
ふつう、「亡父を追想する日」 といえば命日のことかもしれません。
が、父の遺体の第一発見者になり、夜中に裸電球一個の地下車庫で血の海の後始末も
一人でした私にとっては、その日は何か記憶の飛んだ空白の日であり、麻痺感覚しかあ
りません。
代わりに、父の誕生月である七月、誕生日の七月二十四日が、普段にもまして父を思う
月・日なのです。
今月初め、古い中公新書の一冊を書架から引っ張り出し再読するうち、いてもたってもい
られない思いに駆られ、著者と担当編集者の方宛に、出版社気付で以下のような手紙を
書いて出しました。三十三年も前の本なので、ご存命かどうかも定かではないけど、もし
ご健在だったら、お二人が播いて下さった種を、ここにこんな風に胸に宿して育てている
者がおりますよと、御礼かたがたご挨拶がしたくて。
拝啓
初めてお便りいたします。 1977年3月に出版された 『おやじの国史 むすこの日本史』
をこのほど十年ぶりくらいにか再読、胸衝かれる思いがありペンをとりました。
なかでも162頁の、「ほとんどの青少年達は、敗戦後、百八十度の価値の転換の中で、
自分の再出発をはかった。(....) それまで正しいとされてきたものが、ある日突然
まちがいであったとされ、今まで悪であったものが善に変わった。転換できないで滅んで
いく友人達をわたしは数多く見た。」というくだり。
福田様とわずか一年違い、昭和4年7月24日生まれの父・二村孝を思わずにはおれませ
ん。
父は、25年前の1985年に56歳で自殺しました。戦後四十年たっての死ですが、狷介孤独
で友人もほとんどなく、家族にも疎まれて、ひたすら本と筆と釣り竿と碁盤・碁石を友とし
ていた人生の果てのその幕引きに、「転換できないで滅んでいく友人達」というフレーズが
私の中では重なります。
父も、戦争体験を自分からは語りませんでした。ただ、ふだんは家長としてんぞりかえって
家の中では横のものを縦にもしない人が、半年に一度くらい、日曜の昼にむっくり思い立
って、すいとんを作り出すのです。その日のお昼は、おかずのないすいとん一椀のみ。
そして、「戦時中はこんなものしか食べられなかったんだ。いや、今日のは卵なんか入っ
てるからまだ贅沢だ」とつぶやく。 これがわが家の戦争体験伝承でした。
「世のおやじさんたちが、自己の真の戦争体験を高校生のむすこにかたろうとするなら、
自分の敗戦体験と、その後に続く自己の再発見の道をこそ語るべきだ」
「が、じつのところ、このような一人の人間の精神史を家庭の中で語るということは、いう
のはやさしいが、実際には不可能なことであろう」(163頁)
いや、まったくそのとおりです。 本好きで、「人間は教養が大切だ」とつねづね言ってい
た好学の人ではあるけれど、戦時中の旧制中学までしか教育を受けられず、戦後はゼネ
コンの営業マンとしてはたらいてきた平凡な市井人である父には、過大な要求です。
私はむしろ、22歳になりたてで父と死別してから、心の中で父と親しく交わるようになりま
した。ちちと生年の近い方の書かれた本を読むと、同世代の生活感情と意見ということで、
赤の他人である方の文章の中にも、無意識のうちに父を捜してしまいます。父もこんなこ
とを言いたかったんだろうか、父もこれに似た体験をしたのだろうかと。
福田様の本書も、そういう気持ちで読みました。
「あの戦争体験って何だったの?」
父からは十分に聞き出せなかった分、代わりに福田様からお聞きする思いで。
本書が出たのは、私が中2の時です。当時の私の目に写った大人達の姿は、まず第一に、
声高に「戦争体験の風化を許すな」「この教訓を子供達に伝えよう」と叫ぶ、新聞やインテリ
さんたち、いわゆる「意識の高い人たち」、声の大きな人たち。
次に、「今の若い者は愛国心がない」と憂える旧時代のお年寄り達。
数から言ったら圧倒的に多い、黙々と働いて言葉少なだった普通の市井人の姿はどうし
ても後景に追いやられ気味だったのは、私が学校優等生だったからでしょうか。
出版当時に本書に出会えていたら(実際に出会ったのは十年近く前、古本屋でです)、
福田様のように知的素養が高く かつ なまの体験談を語って下さるコミュニケーション
能力の高い人生の先輩(話し相手、先達)に飢えていた早熟な中学生だった私は、意を
決して今回のように手紙を差し上げ、文通などお願いしていたかもしれません。
その時期に信頼できる年長者と出会えていたら、私の人生も違っていたのではないかと
夢想してしまいます。46にもなって、今更詮無いことですが(笑)。
さて、次は宮様へ。三十三年遅れの御礼ですが、このような本を世に出していただき、
本当にありがとうございました。 父のことが、読む前よりぐっと、分かったような気が致
します。
その後私は、「侵略→進出」騒ぎの教科書問題が起こった1982年に札幌西高を卒業、
単身上京して都立大(現・首都大)人文学部に入学しました。 そして、「地の塩」という
言葉に憧れ、「教育の仕事に就いて、日本の民主主義を少しでも前進させよう」という
いささか生硬な、青年らしい意気に燃えて教育学研究室に進みました。
ところがそこは、80年代にしてなお学生・院生の9割が民青・共産党員という 「日教組
サティアン」 で、そのあまりに硬直した教条主義に辟易し、ドロップアウトを余儀なくさ
れてしまいました。その後は独学で歴史教育について考えております。
父・祖父の世代が 「あの戦争は何だったのか」 という思いを抱えて生きてきたように、
日教組の左翼イデオロギー教育に巻き込まれて育った私は、
「あの戦争反省・平和教育は何だったのか」
という思いを抱えてこの年まで生きて参りました。
戦後三十二年目に本書が世に問われ、そこからさらに三十三年たちました。
国際情勢も日本社会も日本人の心も、 戦前戦中→戦後 の、天地がひっくり返るほ
どの激烈さには及ばぬものの、やはり激変しました。
46歳になった今、福田様の「むすめ」世代である私は、70年代の小・中・高時代、「お
やじ」たちの戦争体験談をどのように聞き、取捨選択し消化吸収し是々非々の仕分け
を試み、自らの人生を生きるよすがとしてきたか (中略) 自分が生まれ育って教育
を受けた昭和後期という時代の語り部として、どこかの党派の公式見解ではない私
個人の 「おやじたちの戦争体験談」の体験談 を語っていこうと奮闘努力しております。
(以下略)
歴史教育というテーマは私のライフワークで、あふれる思いがありすぎて、どこから語
っていいかわかりません。 ちょうど奇しくも今日は亡父の誕生日だったので、こんな話
から始めてみました。