九谷焼百話

吉田屋、宮本屋、松山、明治の名人たち……そして、扱いが難しいですが古九谷。多彩で奥が深い、九谷の魅力を見つめたいと思います。

全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全31ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

九谷と有田の上絵窯跡周辺から出た色絵陶片は、
第一三一話で紹介した加賀藩邸跡や大聖寺藩邸跡の
出土品のような、わかりやすいものではありません。
しかし双方とも、“奇跡の五色”らしき痕跡は見て取れます。

イメージ 1
九谷A遺跡出土 (出光美術館「古九谷」 より)

九谷A遺跡で言うと、まず印象的なのは濃い緑。
それから左下の陶片にわずかに見える紺青にも
注目したいです。これこそ祥瑞手では見られない
古九谷五彩ならではの青だと思います。

画像の三片は、いずれも化学分析で
九谷素地と判明しているのも重要なことです。

どのくらいの量を生産できたかはさておき、
九谷素地に“奇跡の五色”で絵付けした陶磁器が
間違いなく存在することを示すからです。

この事実はなぜか伊万里論者に黙殺されがちです。

一方の山辺田遺跡はどうでしょうか。

イメージ 2
山辺田遺跡出土 (「陶説」第759号 より)

色の着いた陶片だけで百点近く出たと言うのですが、
その中からピックアップされているのが上の画像です。

右上や左下を五彩手と呼んでいるのですから、
そんなにわかりやすい五彩手はないのでしょう。
とは言え、
右下は青手で間違いはないと思います。
青手陶片は画像以外にも確認されているとのことです。

これらの色絵陶片は、九谷、有田、どちらの地でも
色絵古九谷は作りえたことを物語っていると、
私は思います。

この記事に

開く コメント(5)[NEW]

開く トラックバック(0)

イメージ 1
(登窯展示館 石川県小松市)

一般的に窯というと、このように斜面に作られて
素地を焼く登り窯が連想されるでしょう。上絵窯は、
それとは規模も構造も焼く温度も、全く異なります。

色絵磁器を作るには、1300度の登り窯で焼いた
素地の上に、800度前後の低温でガラス質の絵具を
焼き付ける工程が必要になります。

そこで錦窯とか赤絵窯と呼ばれる、下の画像のような
専用の小型の上絵窯が使われるのです。
火が直にあたるときれいに出来上がらないので、
二重構造で熱だけ伝えます。

イメージ 2
(松雲堂 石川県小松市)

これは20世紀に九谷焼で使われていた上絵窯。
上絵窯の跡は残りにくく、古九谷の時代のものが
見つかったのは、つい最近のことです。

2000年に九谷古窯のそばの九谷A遺跡で、
2013年には有田の山辺田窯そばの山辺田遺跡で、
それぞれ確認されました。

いずれも設置されていたのは、山の斜面の登り窯から
50〜100mほど離れた平場でした。
そして両方の周辺から、
色絵具で絵付けされた陶片が複数出てきました。

この記事に

開く コメント(2)

開く トラックバック(0)

古九谷論争は、一般的には1990年代初頭に
伊万里説で決着したと言われています。
しかしその後も研究や発掘は進み、有田でも九谷でも
次々と新しい事実が判明しています。

一番重要なのは、2000年代に入ってから双方で
上絵窯の跡が発見されたことです。それまでは、
素地を焼く登り窯しか見つかっていませんでした。

いま古九谷を考えるならば、
そうした最新の成果を踏まえなければなりません。
しかし研究者ならともかく、
一般レベルでは1990年ごろの古い前提のまま
「古九谷は全部伊万里なんでしょ?」
で済ませているのが現状ではないでしょうか。

この稿では“奇跡の五色”がどこで生まれ、
使われたのかを考えています。

実はその観点から言うと、
80年代以前の議論はあまり参考になりません。
もっぱら素地論に終始していて、
「色」は関係ないからです。
登り窯しか発掘されていなかったのだから
当然のことです。

当時なぜか色絵の付いた陶片も、少し見つかりました。
特に山辺田窯の青手陶片は「色絵古九谷も全て伊万里」
の決定的証拠のように言われました。

イメージ 1
図録「古九谷」2004年 出光美術館 より

一部で批判されている通り、
これは色絵と無関係な登り窯で見つかっている上、
「表面採集品」です。埋まっていたのではなく、
地表に散らばっていました。
同窯の調査報告書に明記されています。

本来は物証として扱えるものではありません。
しかし見た目の分かりやすさからか、
今も書籍や図録に載りつづけています。

“奇跡の五色”を探すべきは、
登り窯ではなく上絵窯です。

この記事に

開く コメント(2)

開く トラックバック(0)

松ヶ谷だけでなく五彩手や青手の古九谷も、遅くとも
1650年代前半には存在していたと思われます。
それを示すのは、承応二歳(1653年)という裏銘のある
作品の存在です。中皿、小皿、小碗などがあります。

イメージ 1
図録「柿右衛門−その様式の全容−」九州陶磁文化館 より

承応二歳作品については、昔から「製作年代は
もっと後ではないか」という説があります。
こんなに早い時期に完成度の高い五彩手、青手が
できることが信じられないという気持ちは、
私にもあります。

しかし承応二歳銘の陶片が
有田の楠木谷窯から発見されていることを考えると、
後年の作の可能性は低いと考えざるを得ません。
楠木谷窯は1660年代初頭には廃窯になったと
されているからです。

銘はやはり素地の製作年を示しているのでしょう。
そして、絵付けもほどなく行われたと見るのが
自然だと思います。

つまり、こうなります。
「“奇跡の五色”は1650年代前半には開発されていた」
「それを使った古九谷もその時期に作られ始めていた」
 (同じ絵具で松ヶ谷も作られていた)

ではその色はどこで開発され、使われたのか。

この記事に

開く コメント(4)

開く トラックバック(0)

古九谷と同じ緑を使った松ヶ谷は、
1650年代の半ばには存在していたようです。
その物証が意外な場所で見つかっています。

イメージ 1

画像は17世紀、徳川将軍家の本拠だった
江戸城の天守閣と本丸。
明暦三(1657)年、教科書にも載る有名な
「明暦の大火」で、この大半が焼失します。

この時の被災跡、それも本丸のごく近くから近年、
多量の高級陶磁器の陶片が確認されました。
その中に松ヶ谷陶片が43点あり、濃い緑の絵具が
はっきり残ったものも複数含まれていました。

つまり“奇跡の五色”の緑は、1650年代半ばまでに
確実に存在していたことになります。
驚くべきことですが、
先行していたであろう祥瑞手(1640年代後半〜)から、
さほど間を置かずに開発された、ということです。

ちなみに祥瑞手の陶片も同時に多数見つかっています。
そのことから伊万里の研究者は、
祥瑞手と松ヶ谷がどちらも幕府への献上用の製品、
いわゆる鍋島の先駆けだったと見ているのです。

では、五彩手や青手はいつから登場したのか。

この記事に

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

全31ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


.


みんなの更新記事