九谷焼百話

吉田屋、宮本屋、松山、明治の名人たち……そして、扱いが難しいですが古九谷。多彩で奥が深い、九谷の魅力を見つめたいと思います。

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(九谷古窯跡発掘調査報告書より)

一方の九谷古窯は1650年代半ばから稼働した窯で、
上絵窯跡から出てきた“
奇跡の五色”陶片
1660年代以降のものである可能性が十分あります。

画像は旧九谷村のお宮にあった染付花瓶の残欠で、
九谷古窯の初窯時に奉納されたと伝えられています。
明暦元(1655)年という年紀があり、
発掘資料などから見ても、九谷古窯はこのころに
始まったと思われます。


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(九谷古窯跡発掘調査報告書より)

窯跡は2基ありますが、色絵古九谷を考える上で
対象になるのは一号窯です。(二号窯は出土品や構造
などから主に茶陶用だったと考えられています)。

一号窯では色絵素地用の白磁を焼いていましたし、
上絵窯も近くにありました。とは言え、
伝世古九谷と一致する発掘陶片は(
あることは
ありましたが
)わずかでした。

一号窯の物原の堆積を見ると、時間を追って
青磁→半磁胎の白磁→陶器となっていたそうで、
嶋崎丞・現石川県立美術館長は、
窯の焼成温度が上がらず磁器の製造能力がなくなったと
考察しています。(日本の陶磁13 九谷 より)
熱残留磁気の測定によれば、
一号窯が使われたのは1670年ごろまででした。

嶋崎氏はこうした事実から、
有田から九谷への素地移入説を提唱しつづけています。

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“奇跡の五色”が消えた1660年代以降の有田で
作られたのは、例えばこんな色絵でした。


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色絵雲文水注
画像:東京国立博物館 http://webarchives.tnm.jp/

銀蓋に1671年の刻印があります。それまでに作られ、
ヨーロッパに輸出されたと見られます。

赤が主体の華やかな新スタイルは、
1659年から始まった本格海外輸出で
伊万里に何が求められたかを示しています。
五彩手や青手のような
中性色・寒色の深みを生かす発想ではなく、
穏和な親しみやすさが志向されています。

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初期柿右衛門(初期輸出色絵)小皿

同じころに量産された色絵の芙蓉手小皿です。
やはり輸出用と思われます。
青にも緑にも“奇跡の五色”の透明感は見られず、
柿右衛門様式の色味に近いのがわかると思います。

やがて1670年代、80年代と進む中で、
洗練された柿右衛門様式が完成されていきます。
赤も、より明るい色調に変化します。

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柿右衛門 色絵花鳥文大深鉢
画像:東京国立博物館 http://webarchives.tnm.jp/

柿右衛門の色が出来上がっていくベースには、
消えた五色の成果もあったのかも知れません。
しかし絵やデザイン構成には、大きな断絶を感じます。
(伊万里論者はそれを、市場のニーズの変化として
説明しています)。

なお、同時期に「古九谷祥瑞手から鍋島へ」、
という流れも並行して進行していたのは、
第一四六話で触れた通りです。

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絵には時代性が表れます。
“奇跡の五色”で描かれた古九谷の絵については、
戦国の気風を残した江戸初期らしい豪放さや奇抜さが
よく指摘されます。その年代をもう少し
絞り込んでいくことはできないでしょうか。

調べてみると、古九谷の絵のバックグラウンドと
されるものの中には、1660年代以降(寛文〜延宝ころ)に
参照されたとも思えるものが、複数存在します。

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「八種画譜」 より

例えば、古九谷に多くの図が引用されたことで知られる
中国の「八種画譜」。古九谷の絵師は、
いつごろこれを利用できたのでしょうか。
日本で同書が出版されたのは、寛文十二(1672)年。
実は1670年代に入ってからなのです。
(ですから柿右衛門にも使われています)。

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「新撰御ひいながた」 より

第一二六話で、青手古九谷の名作とそっくりな図柄が、
当時の小袖のデザイン集に載っている話を
紹介したことがあります。
その本「新撰御ひいながた」
発行は寛文七(1667)年です。
こうした奇抜な文様の“寛文小袖”は
元禄期(1688〜1704)ころまで作られたとも言います。

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「聚美」2012年秋号 より

雑誌「聚美」2012年秋号に、東京国立博物館の
今井敦氏による興味深い論稿がありました。
古九谷五彩の上絵具の厚い塗り方に注目した上で、
早い時期の康煕五彩(清初期の色絵)の影響が
あるのではないかと言うのです。
康熙帝の在位期間は1661〜1722年。
どんなに早くても1660年代以降ということですが…。

残念ながら、これらはどれも決め手にはなりません。
「八種画譜」はオリジナルが中国で出たのが1620年代
なので、早い時期に輸入されていた可能性があります。
「新撰御ひいながた」は、ひと時代前の柄を
載せていたかも知れません。
康煕五彩も本当に古九谷に影響を与えたのか、
はっきりしているわけではありません。

しかしこういう“状況証拠”が増えてくれば、
偶然とも言い切れなくなるかも知れません。
1660年代以降にも(当然有田以外で)古九谷が
作られた可能性は、あると私は考えます。
今後の新事実の出現を待ちたいと思います。

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有田の古九谷は1660年前後まで、という事実は
有田側が発掘結果から示していることです。
古九谷伊万里論者が、それ以後の存在を語るのは
理屈が通りません。

しかし、だからと言って
1660年代以降の古九谷が存在し得ない、
ということにもなりません。
それが「有田以外で作られた」とすれば、
矛盾はしないからです。
当然の論理的帰結ですが、このことは
見落とされがちではないでしょうか。

当たり前ですが、有田の発掘でわかるのは
有田のことだけです。発掘を続ける村上伸之氏も、
いみじくもこう話しています。

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「少なくとも古九谷様式が有田で作られたことは、あったと私は言いたいんです。別に、石川にあってもいい。(中略)それはそちらで立証して下さい、ということです」
(九谷もジャパンである 北國新聞社編 2009年 より)

産地が九谷かどうかはさておき、
1660年代以降の古九谷は存在するのでしょうか。

直接証拠は、おそらくありません。
製作年代らしきものが記されている
“奇跡の五色”作品は、
例の承応二歳(1653年)銘しか
見つかっていないと思います。

しかし状況証拠らしき事実、なら
いくらか存在します。

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学界の内情は知りませんが
有田の発掘現場サイドは、矢部氏の言うような
1660年代以降の古九谷の可能性については冷淡です。

(村上伸之氏 「古九谷」出光美術館 2004年 より)
“今日でも、古九谷が17世紀末頃まで継続したとする考えも、一部には根強い。しかし、(中略)いずれの観点からも、1660年代以降もそのままの姿で古九谷が存続した可能性は残されていないのである。”

実は、1660年前後から始まっている赤絵町遺跡で
3点だけ、古九谷とされる陶片が出ています。
矢部氏などはこれを貴重視していますが、
発掘にあたった村上氏はにべもありません。

(矢部良明氏 「世界をときめかした伊万里焼」2000年 より)
“幸運にもその場に立ち会っていたのだが、筆者が到着する数分前に、れっきとした青手古九谷様式の陶片が柿右衛門様式の陶片に混じって出現したのであった。その奇遇に直面して、長い間世論を沸かせてきた古九谷伊万里論者の一人として、矢表に立ってきた筆者は、ぐっと喜びをこらえて、有田の谷を睨んだものであった。”

(村上伸之氏・小木一良氏対談「小さな蕾」1998年7月号 より)
“小木 赤絵町遺跡出土の三片の盛期古九谷陶片については、村上さんは他からの混入と言われているが、誤解している人が非常に多い。
 村上 最初から言ってるんですけどね。出土層位は新しいし、素地もまったく出土していない。それに、他の製品と技術が違い過ぎます。”

村上氏によれば、問題の陶片は
18世紀後半ごろの層から出ているのだそうです。

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赤絵町遺跡
(有田町教育委員会 「赤絵町」 1990年 より)

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