九谷焼百話

吉田屋、宮本屋、松山、明治の名人たち……そして、扱いが難しいですが古九谷。多彩で奥が深い、九谷の魅力を見つめたいと思います。

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初期段階の“奇跡の五色”でしょうか。
まだ泡立ったりして絵具として安定していませんが、
すでに色調はほとんど完成しています。

五色は有田でおそらく祥瑞手に続いて開発が始まり、
1650年代前半までに完成しました。
では、開発の「言い出しっぺ」は誰だったのか?

もちろん第一に佐賀藩(鍋島家)が考えられます。
完成した色を実際に松ヶ谷作品に用い、
江戸幕府への献上品としています。
しかし古九谷については、五色グループでない祥瑞手を
除いて、鍋島家が活用した形跡は見当たりません。

そこで「加賀藩(前田家)が依頼した」と
仮定したらどうでしょうか。
鍋島家(親戚筋です)をきちんと通し、
多額の開発費用を引き受け、その成果(色)は
有田でも自由に利用してよいという条件ならば、
十分あり得るのではないでしょうか。

単に出資するだけでなく、温和な中国の五彩と異なる
強い色調を指示し、出来上がったのが“奇跡の五色”。

そう考える方が、最上手の色絵古九谷が大名屋敷では
加賀藩、大聖寺藩邸跡からしか出土しないことや、
古九谷伝世品が加賀周辺に多く伝わったことへの
説明がつきます。

明るく穏やかな色彩を展開する伊万里の伝統の中で、
古九谷の強い色が異質であることの謎も解けます。

有名な柿右衛門家文書には、正保四(1647)年に初代が
初めて色絵磁器(祥瑞手?)を売った相手が
加賀藩の御買物師だったと記され、バイヤーとしての
存在の大きさが知られています。

加賀藩が古九谷生産のパトロンだった可能性は、
荒川正明氏や大橋康二氏など複数の有田側論者も
言及しています。

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“奇跡の五色”を切り口に、20話以上を費やして
古九谷問題の現状を見てきました。
最新の発掘や研究の成果も踏まえて導き出した
重要なポイントを、ここで整理してみます。


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「古九谷は全て伊万里」説が成り立つには
全て1660年前後以前に作られている必要がありますが、
実際にはそれ以後の雰囲気をまとう伝世品も多いことは
第一五七話以降で触れた通りです。

では結局、古九谷とは何だったのか。
五色はなぜ有田と九谷をまたがって存在したのか。
伝世品はどうして加賀周辺に集中して残ったのか。

史料や物証はまだ足りませんが、
仮説なら何とか立てられそうです。


新しい証拠が出ればあっさり覆るかも知れません。
それは覚悟の上で、これまでの考察をベースに
仮想ストーリーの一例を提示してみたいと思います。

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番外 ◆ 都内某駅

 通勤の帰途で。
 山代の窯跡展示館ですね。

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 加賀、行きたいですね。

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素地移入説とは有田から白磁を取り寄せ、
九谷で絵付けをして色絵磁器を作ったとの考え方です。
嶋崎氏がこれを唱えたのは昭和40年代かと思いますが、
長年、有田側からは「ありえない」で片付けられ、
九谷側でも賛否両論、という扱いを受けてきました。

しかし「1660年代以降にも“奇跡の五色”で
古九谷が作られていた」と仮定した場合、
説明のつく仮説は、現時点で他にないと思います。

有田にはその時代、もう“五色”がない。
九谷では素地作りがうまくいかないが“五色”はある。
ならばどうしたか、ということです。

嶋崎氏が初めて素地移入説を提唱した当時よりも、
今はだいぶ研究が進んでいます。

伊藤和雅氏によって、加賀藩が17世紀に伊万里白磁を
発注していた記録が見つかっています。
中矢進一氏の研究によって、
当時の鍋島家と前田家が姻戚関係で
つながっていたこともわかっています。

「貴重な白磁素地をよそに輸出するはずはない」
というかつての反論は、現在ではほとんど意味を
失っているように思えます。


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伊万里素地の元となってきた泉山陶石

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(九谷古窯跡発掘調査報告書より)

一方の九谷古窯は1650年代半ばから稼働した窯で、
上絵窯跡から出てきた“
奇跡の五色”陶片
1660年代以降のものである可能性が十分あります。

画像は旧九谷村のお宮にあった染付花瓶の残欠で、
九谷古窯の初窯時に奉納されたと伝えられています。
明暦元(1655)年という年紀があり、
発掘資料などから見ても、九谷古窯はこのころに
始まったと思われます。


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(九谷古窯跡発掘調査報告書より)

窯跡は2基ありますが、色絵古九谷を考える上で
対象になるのは一号窯です。(二号窯は出土品や構造
などから主に茶陶用だったと考えられています)。

一号窯では色絵素地用の白磁を焼いていましたし、
上絵窯も近くにありました。とは言え、
伝世古九谷と一致する発掘陶片は(
あることは
ありましたが
)わずかでした。

一号窯の物原の堆積を見ると、時間を追って
青磁→半磁胎の白磁→陶器となっていたそうで、
嶋崎丞・現石川県立美術館長は、
窯の焼成温度が上がらず磁器の製造能力がなくなったと
考察しています。(日本の陶磁13 九谷 より)
熱残留磁気の測定によれば、
一号窯が使われたのは1670年ごろまででした。

嶋崎氏はこうした事実から、
有田から九谷への素地移入説を提唱しつづけています。

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