九谷焼百話

吉田屋、宮本屋、松山、明治の名人たち……そして、扱いが難しいですが古九谷。多彩で奥が深い、九谷の魅力を見つめたいと思います。

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有田で1660年前後に消えたはずの古九谷様式。
伊万里論の最有力者とも言える人物が、どういうわけか
「古九谷の最盛期は1660年代以降」としています。

東京国立博物館の陶磁室長だった矢部良明氏と言えば、
上司にあたる林屋晴三氏と共に、
古九谷伊万里論を定説化した中心人物です。

彼は著書の「世界をときめかした伊万里焼」(2000年)で
古九谷の生産時期についてこう書いています。
“1640年代の後半に始まり、1690年代から1700年前後まで続く、約5、60年ほどの間の作と判断するのが自然のようであり、1660〜70年代が最盛期であったようだ。”

同書によれば、亀甲文の入った五彩手の大平鉢は
1670年代の作です。

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別の著書では、有名な青手樹木文平鉢を
元禄時代(1688〜1704)の作としています。

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(矢部良明著 染付と色絵磁器 1991年 より)

これらはむろん伊万里というのが彼の立場ですが、
発掘結果とは明らかに矛盾しています。
有田で出土しなくなった時代に
古九谷が最盛期を迎えていたことになってしまいます。

では発掘結果が間違いだと考えているのかというと
そうでもなさそうで、
「発掘調査の事実がもつ説得力は強力であり、
『待ったなし』の迫力をもっている。」
とも言っています。 (古美術緑青vol6 1992年 より)

このあたり、伊万里説の権威者の論としては
説明不足ではないかと思います。

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“奇跡の五色”が有田で誕生したのだとすると、
なぜ九谷でも使われた形跡があるのか。
そのあたりを含めて、その後の展開を考えたいと思います。

1640年代か50年代に開発された五色は、
有田では10年前後で姿を消したと見られます。
藩の方針で色絵の上絵付け工程が
赤絵町と呼ばれる一角に集約されたころです。
根拠はもちろん、発掘の結果です。

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旧赤絵町(有田町)

赤絵町遺跡の調査にあたった村上伸之氏によれば、
それは1660年前後のことでした。1659年から始まった
オランダ東インド会社を通しての本格海外輸出と
関連した動きだと言われています。

赤絵町遺跡を含め、以後の有田の遺跡からは
「古九谷様式」が出なくなります。
村上氏は、1660年代以降に
古九谷が存続した可能性はないと明言しています。

ところが「それで全て説明できてはいないのでは?」
と思わされる状況が、実際にはあります。

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このブログは「九谷焼百話」であり、
心情的に九谷寄りなのは否定できません。
ここまでの流れからも、
それはにじみ出ていたと思います。

しかしそんな自分でも、次の問いに対しては
「それは有田でしょう」と答えざるを得ません。
“奇跡の五色”がどこで開発されたか、です。

すでに紹介したように、五色の一部が着いた
色絵陶片は両方で見つかっています。
しかし遺跡の時代は、わずかですが有田の方が早い。

山辺田遺跡は1640〜50年代の稼働とされています。
九谷A遺跡は江戸前期としか表記されていませんが、
早くても、九谷古窯が開窯したとされる
1655(明暦元)年以降のはずです。

一方で第一四八話で説明したように、
明らかに有田で絵付けされたはずの松ヶ谷作品で、
1650年代半ばまでに、あの緑や紫が使われています。
つまり、九谷古窯の開窯前から
“奇跡の五色”は存在しており、しかも有田で
絵付けに使われているということになります。

第一四九話の承応二歳銘作品も、
1653年製なら有田絵付けと考えるのが自然でしょう。

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松ヶ谷が藩窯製品である鍋島の前身であることを
加味して考えれば、
“奇跡の五色”は1640年代か50年代前半に、
佐賀藩窯に極めて近いところで生み出され、
古九谷や松ヶ谷作品に使われた

ということになります。



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九谷産の古九谷の可能性を論じると、
「伝世古九谷と共通する素地は、九谷古窯からは
出ていないのでは」という方がいると思います。
確かに少ないですが、実は皆無ではありません。

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石川県立美術館「九谷名品図録」より

これは石川県立美術館の蔵品で、九谷一号窯から
出土した白磁鉢と比較して、形状、目跡がないこと、
そして貫入の様相などで、類似が認められています。

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朝日新聞社・神奈川新聞社「古九谷展」図録より

素地の山キズを色絵で隠した大胆なデザインで
有名な作ですが、九谷古窯の調査報告書で
九谷一号窯出土の白磁角皿と「類似性が高く、
九谷古窯産の色絵磁器である可能性がある」
と記されています。

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この五彩手の小皿は北出塔次郎旧蔵で、2001年に
大型放射光施設で微量元素を測定した結果、
九谷古窯跡の磁器片と一致することが確認されました。
伝世品の化学分析で九谷素地の可能性が判明した
ケースとしては、おそらく初めてでした。

無論こうした作品は少なく、例外的とも言えます。
「九谷素地・九谷絵付け」の伝世古九谷の数が
かなり限られているのは事実でしょう。
伊万里論では、ほぼ無視されている要素でもあります。

しかし全くないのと、少しでもあるのとでは
「古九谷とは何か」を考える上で、
大きな違いが出てくるはずです。

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「九谷と有田の両方で古九谷は作りえた」という論は、
特に伊万里論を推進してきた側に、
それを受け付けない人が多いように思えます。
(九谷側でも喜ばない人は多いと思いますが)。
この雰囲気をいつも不思議に思っています。

九谷で色絵磁器を作っていたことは認めても、
それはいわゆる伝世古九谷ではなかったと断じる
ケースが多いです。

よく引き合いに出されるのが、
東京の大聖寺藩邸跡から出土したこの皿です。
分析によれば素地は九谷産です。

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図録「古九谷」 出光美術館 2004年 より

たしかに古九谷五彩とは色味が違いますし、
絵の感じも典型的な古九谷風とは言えません。
多くの伊万里論者は、九谷古窯で作られていた
色絵磁器はこういうものだと主張します。

その通りだろうと思います。一方で、
九谷からは前話のような色の陶片も出ています。
素直に見るなら「両方のタイプの色絵を作っていた」
のではないでしょうか。

九谷古窯は、50年前後(1650年代〜1700年ごろ)
稼働したとされているわけですから、複数の
色味、作風の存在は十分ありうると思うのですが。

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