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YAHOO掲示板大和心投稿2003/11/30 No.1853を編集して記載 台湾少年工の卒業証書だったか資格証書の授与式が行われたというで 来日した元台湾少年工の人たちは靖国に参拝したと記事に書かれていた。 当然この時期(2003年)日本の報道機関はこの靖国参拝などはこれを報じなかった。 台湾少年工というのは 小学校、中学校卒業資格者が3年日本の軍需工場で働いたら上の学校の卒業資格がもらえるということで8000人ほどいたらしい 戦後 この卒業証書がなく資格を認められなかった為 非常に苦労されたようだ(卒業証書があっても国民党政権下でその資格が認められたかどうかはわからないが) 「卒業証明や在職証明がなく戦後苦労したが 70を過ぎもう仕事も引退し 卒業証書や在職証明はなんの役には立たないが 日本で学んだことは自分の誇りであり その証としてこのたび 労働厚生省のはからいでいただけることが非常にうれしい」というなコメントがあった。 この記事を読んで台湾に来たての頃の出来事を思い出した。 繊維機械のメーカーさんといっても町工場で商談していたら しばらくするとご老人がソファーにすわられ 社長が私の親父ですと北京語で紹介 「いらっしゃいませ」と日本語 「日本の方がこられていると連絡があったので」と 引退された先代の創業者でわざわざ離れた家から会社に出てこられようだ。 創業のいきさつなど商談の流れで聞くと もともとこの種類の繊維機械は上海周辺にあったもので 国民党が台湾に逃げ込む時に 根こそぎ持ってきたの機械のメンテナンスからスタートしたとのこと 中国人は全く技術なんかもっていなかったので 私みたいなものが修理出来たといわれ 「私の技術は日本で学んだものなんです」と話され 「自分は勉強が出来なかったので 台湾では上の学校に上がれなかったので 少年工で 神奈川県に行っていた」「空襲がこわかった」「その時学んだ技術で今この会社があるんだ」と 「日本語が苦手だったけど 小学校の時、日本の先生が とにかく日本語をしっかり勉強しなければいけないって おやつをあげるからと わざわざ放課後家にまねいてくれて 日本語を教えてくれたんだ 本当に先生に感謝している。 先生を一度日本にたずねたんだ」 こんな話を 私に伝えたかったようだった。 当時 少年工のことをあまり知らなかったが 先生は優秀な生徒を推薦したようで 家の事情というか台湾人の進学はそんなに簡単じゃなく 勉強が出来なかったわけじゃないといまさら気づいたが 先生や日本で身に着けた技術に感謝し 恨みを語られない 本物の大和魂を持った人に会った。 「皇民化と日本語の強要 そして軍需工場への少年の動員の犠牲者」と片付けることの方が失礼なのだろう。 |
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ご指摘の通りです。この5月にも台湾高座会の代表団が来日されました。彼らは日本人の時代を誇りにしています。つらかったけど、立派に戦ったことを、誇りにしているのです。
[ kim**3hiro ]
2007/5/26(土) 午後 9:26
kim123hiroさんコメントありがとうございます。そのことがよかったかどうかでなく どのように生きられたかということに目を向けるということでしょうね。
2007/5/26(土) 午後 11:09
nipponiaさんに全く同感です。私も台湾へ通うようになって感じました。国と国との思惑はともあれ、台湾人と日本人の感性は大変よく似ていて、個人個人は気持が通いあっていたんだな〜と感じる事がしばしばありますよね。日本びいきの台湾人は大変多いですが、台湾びいきの日本人も多いです。私もその独りです。来月又、行ってきます。
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2007/5/27(日) 午前 0:40
一言居士さんこんばんは 一昔前の人はそれ風に馬が合い 若者は若者同士で馬が合ってるということでしょうか 中国で台湾人と会うとほっとします。なんでしょうかね。
2007/5/27(日) 午前 2:00
TB3発行います。
戦前から戦後と言う大きな時代のうねりの中をしっかりと生きて来られた台湾の日本語世代の方は穏やかですが芯の強さがあります。
粗暴な行いをする割にはすぐにハートが壊れたという今の日本の若者には無い強さを持っていらっしゃいます。
2007/7/23(月) 午後 9:50
千葉日台さんこんばんは TB3連ありがとうございます。
この当時の日本の教師は本土においても厳しい存在であったようですが その厳しさを差別でなく評価の方に重点をおいて懐かしんでくださる台湾のご老人こそ前向きな友好の象徴でありますね。
2007/7/24(火) 午前 1:52
昭和17年鳳山で遊んだ年上の公学校の友と別れる時期が来ました。彼は国民学校を優秀な成績で卒業して日本総統府の約束を鵜呑みにして志願したのが学生勤労隊の
内地、神奈川県大和の工廠行き出会った。それでも300人にひとりの競争であったらしい。わが家でお別れ時間を持ちました。本人の目は輝いていたが、母親は泣いていました。それから3回の手紙をもらったが以後音信不通となった。上級学校(中等学校)に資格証明はでなかった。後在勤証明が出たが遅きになった。彼は既に生きていなかった。
[ nichibeitaiwan ]
2008/4/23(水) 午前 1:17
nichibeitaiwan08さん( ´ー`)y─┛チァーパーボェー
コメントありがとうございました。
優秀な人ほど命を落とす不幸な時代でしたね
2008/4/24(木) 午前 0:46
チャパーラ
14年前に雲林県の麦寮にフォルモサプラスチックカンパニー「FPC」の仕事で一年間在台しました。
その時の某重工業の通訳が少年工だと帰国後知りました。関西人が多い中で横須賀は7人でしたが、六人は半年で帰国・・残った私に、自分は戦前大和に居たとの事
歴史を知らなかった私は、どうして?なんで?と
聞きましたが教えてくれませんでした。
2012/1/27(金) 午前 0:46
殆どの方は成功者だと思っています。大和魂は、生きている・・帰国後それを知ったのです。探しましたよ!
台湾稲門会まで問い合わせて消息が判りましたので
信書を書きましたし、返信も来ましたが、高雄在住でしたが便りも無くなりました。
勉強が出来ない子供は恐らく採用は無理だったと
思います・・謙遜ではないでしょうか?
何かに付けて日本を批判する韓○は併合したのですから
日本人っだった筈・・彼の国には、植民地の台湾の
数倍の費用を掛けたのですよね!物を大事にする台湾
使っているのに文句ばかり言い反日だと騒ぐ半島人
出稼ぎに来ているのか!!日本へ来るな!日本から
出て行け!ハングルは半島でしか通用しないんだよ!!
腹を立てているのは 私だけ?? 民度の低さが判ります。
2012/1/27(金) 午前 0:48
在籍証明書の事は以前、台南の汪さんが話してくれました。汪さんの名刺には裏面に大和市で頂いた在籍証明書と感謝状が印刷されております。私はその証明書が汪さんにとって唯一の日本人であった証と理解しました。
[ 茂木修 ]
2012/1/30(月) 午前 11:03
はこふぐさん( ´ー`)y─┛チァーパーボェー
北投の近所のおじいさんも日本の大学で 学徒出陣で戦艦に乗ったそうです。徴兵がごく短い間行なわれたのですが 学徒出陣に台湾人が入っていたなんて全く分からないです。
2012/1/30(月) 午後 11:09
はこふぐさん( ´ー`)y─┛チァーパーボェー
韓国朝鮮人は民族性によるものも大きいでしょうが 統治時代よりも戦後の彼ら自身の問題の転嫁が大きいのでしょうね。
まあ 付き合わないに越したことはありませんね。
2012/1/30(月) 午後 11:13
茂木修さん( ´ー`)y─┛チァーパーボェー
名刺にですか それはすごいですね。そうとうな思いがそこにはあるのですね。コメント多謝です。
2012/1/30(月) 午後 11:15