ここから本文です

書庫33天皇陛下がいない日本国

YAHOO掲示板「天皇陛下がいない日本国のビジョン」へ投稿し始めて数年 かなり自分自身力と時間をさいてきた。
いつかは消え去るトピックス。記憶に残そうと まとめてみる。
書庫の題名は 不敬にも「天皇陛下がいない日本国のビジョン」だが さざれ石が巌となるまで天皇を仰ぎ見る国体であることを願ってやまない。
http://www.blogmura.com/img/www80_15.gif
にほんブログ村(文字をクリック)

記事検索
検索

全13ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 前のページ | 次のページ ]

明けない夜はないとキリスト教そしてマルクス教の日本への布教はこれからも続けられることであろう。 
漢意に対して千五百年以上持ち続けた免疫力は キリスト教に対しても ルイス・フロイスが書きとどめたように持ち続ける、そして新たな形を変えた漢意 マルクスレーニン主義も無毒化、排除せず体内にとどめる効能が 大和心。すでに体に取り込み抗体ありと 原理的形での開化を描く彼らは気づかない。 
キリストは 日本の血、知、土に帰している。
風土に溶け込まない景色は存在し得ない。

死刑制度廃止論者の主張として 死刑制度が中国などの独裁イデオロギー国家を存続させる力、恐怖政治を行うための手段となっているというものがある。
しかしこれは 中国などの法治主義の伝統も運用面での実績もなく 形だけの法の適応で野蛮な国家体制を恐怖支配の道具としている国の死刑制度の話であって 日本などの法治国家(法の整備、司法の中立、厳密な適応)での死刑制度とは分けて考えるべきものである。

また「冤罪事件」の存在からの指摘があり その可能性からすれば1%の冤罪の存在は99%の真実よりも重くなければならないというのも理解できる。しかし天文学的数値で有罪の可能性のあるものへの法の適用と司法判断が確実に冤罪の可能性を排除できるものであるなら 戦後一時期の冤罪を生んだ条件は不幸な過去であるだけだ、同一人物の複数機会の複数殺人を現在の司法判断の能力からすれば冤罪の可能性など存在するというレベルの数値にならなくなる。
人は神でないので間違いを起こす可能性を指摘するならば 教育的処置や治療の効果もまた判断できないとも言えるわけで 無期懲役を廃止し終身刑にせねばならなくなる。

さらにもうひとつの理由が死刑は憲法の「残酷刑禁止条項」ならば終身刑、無期懲役も残酷な刑となるのではないか。

「死刑廃止」というヒューマニズムは安直なフェミニズムであり社会にまったく責任を取らず その主張に整合性はない。

死刑判決を受け初めて死と向かい合い 悔い改め 人間になって死を受け入れる事の方が 人間の姿をしたゴキブリの自然死よりよほどよいことに違いない 手の付けようもない鬼畜を最後の一瞬でも たち直させる方法は「死刑」という力を持ってしか可能性はいまのところ存在しない。

イデオロギーや宗教にはまり チェーン商法にハマル人を考えると これらの人に共通した他者との関係の構築方法の未熟さを感じる 未熟な社会化といえるのではないだろうか。
人は教育や躾を通し自然に社会化させられるものであるが 「はまる」という言葉のように イデオロギーや宗教にはまる人は きっかけは別にして自らこれを選択し これらを通し社会との関係をつくろうとして他者との軋轢を引き起こす。

「ハマリに至る環境や条件」なども一つのテーマではあるが、ハマッタ後の行動様式、思考パターン「ハマッタ人の理論」を考えると ものの考え方のたて方なるものが はたでみていて見事に歪んでいても 本人はなんの疑問も持たず 三次元の動物が二次元の動物に物事を説明するに等しく その問題点を自覚させることは難しい   
これは自然につくられた社会との関係という経験から説明しても 未熟な社会との関係をもともと持たない彼らに「共通軸」を通して自覚せしめることが困難なのである。個人の考え方の差という範疇でなく そもそも軸が欠落しているのだ。

言葉というものは既に存在しているものをあらわしており これを経験に照らし合わせながら学んでいくものである。「哲学性を持った抽象的な言葉」も例外ではなく 哲学者や宗教家が社会や人の関係や心理を考え抜いて言葉にしたものを 経験に投影しながらその形を知覚していくものである。

左翼イデオロギー用語、宗教・哲学用語は 鍛えられていない、すなわち経験則のない脳細胞に消化のできるものではない 先行した言葉の習得の上に経験を置いてみせるという空想家となる理由はここにあり 会話が成立しないのである。

男性と女性の性差は 見える部分の身体的差以外に 考え方も随分違うようで
「地図の読めない女 人の話を聞けない男」というような そんなことを書いた本が数年前ベストセラーになった。
ジェンダー論争は ものの本質の1%のよいところを際立たせるため 本質でない1%の悪いところをひたすら否定するという人たちのイデオロギー闘争である。 
否定のための新理論にすがりながら人格が成り立っているひとの傾向として 「代価」は払わない。
理想という成功しか未来に見ない人は実にテキトウな存在で 基本的に失敗は全て外部要因。
左翼的論者の幼児性は恥を感じない。

男であること女であること
人間の生き方として これはあきらめることもであり 受け入れなければならないこと。
誰も人間であることを受け入れるか受け入れないか考えてはいない。

「きれいにあきらめる」ことに価値を見出せる為の字引きが信仰のかたちでひとにうまく伝える力があり 悔い、後悔を残さなくそのことを「昇華」という。

 ジェンダー論者が法的根拠に頼らざるをえないのは 文字のさかしらを求めているのであろう。
琴線に触れない論争であり 心が動かず 思いが寄らないのは 無機質な感情で「国」や「人」を取り扱うことが これらをただの物体として扱うことと同義であるのだ。
教育基本法はそうであってはいけない。

親鸞もイエスも古い宗教集団に強い疑問は教祖的要素の一つといえるだろう。後継者の哲学での教義再構築は教祖的側面でもある。

私の宗教体験は小学校に上がる前日曜学校にあり、このときのイエス・キリストの紙芝居からだった。そして小学校入学後 習い事が金光教の教会であった関係で日曜日に祝詞を聞かされることとなる。七五三や初詣、葬式や墓参り 複数の宗教との出会いは必ずあるものとして育つ。

しかし個々の宗教の違いはおぼろげながら感じながら 宗教と教祖を合わせて考えるようになったのは成人になってからである。
その中で宗教に対する違和感は 宗教の意義である「ゆるし」。 「ゆるし」を求めるばかりに 他を排除してしまうという矛盾。「ゆるす」ことは神のみに与えられた力とまでとらえてしまえば ゆるしも特権になり 神を偉大な存在と考える純粋性が ゆるしの許容性を失わせる。
キリスト教は 実にハードルが高く 猫でもまたげそうな親鸞の人間くさい問いかけの方が私には楽である。

マグダラのマリアへのやさしさ、この場面の宗教画から見られるイエスの高貴さ、こんな表現がキリスト教文化であり 親しみという形でなく 「愛」という観念で表現するのもキリスト教世界。
「日本人は魚くったら魚に感謝するけど 西洋人は神に感謝する」
観念化し信仰が楽になるひとと ハードルが高くなるひとがいるのもたしかである。

全13ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 前のページ | 次のページ ]

ブログバナー

にっぽに屋にっぽん
にっぽに屋にっぽん
男性 / B型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
検索 検索
友だち(106)
  • 妻田北
  • sh64087
  • nichibeitaiwan
  • 霧降散歩
  • 陳
  • 日出子
友だち一覧

よしもとブログランキング

もっと見る
本文はここまでですこのページの先頭へ

[PR]お得情報

話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン
ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン

みんなの更新記事