「従軍慰安婦」なるものも単純に言葉があらわすものは「従軍医師、従軍記者」と言うように「従軍」というのは軍からの「直接」「公認」という意味であり 「戦地における売春業に従事する女性」はその性質は「間接」であり「非公認」であることは明確、何故そのような用語に執着しなければならないかは イデオロギーによる攻撃の対象者への責任追及という左翼の「闘争」の道具として存在しない「直接・公認」を言葉に忍び込ませることにある。 「天皇制」という用語もしかり 「いわゆる天皇制」なるものは少なくとも現在は存在しない。その用語を遣えるとすれば 立憲君主制の中の一形態として日本国の独自性を加味して 明治憲法下の日本国を政体的にどう分類するかの大分類である「立憲君主制」の一つ下のカテゴリーとして「天皇制」はある。遣える可能性が大きいのは「天皇」というものの存在感が大きく憲法に定められていたからである。 また現在の日本は 立憲民主主義制度が大分類でありその下の分類として民主政体の立憲君主制であり いわゆる天皇制はまたこの下のカテゴリーにあり 明治憲法下と現憲法下の共通の天皇の性質をしてひとつの「天皇制」という用語を遣う事には大きな誤りがある。そもそもこの天皇制なる用語は ソビエト共産党の使用した「絶対君主制」の日本版の翻訳用語として誕生し 「絶対君主制」なるものがそもそも日本に存在していないのであるから「意図的に誤解を与える造語を駆使しながら イデオロギーをプロパガンダし そして歴史を捏造するのが左翼の専門用語である」ことは明白である。 そのような次元でこの「A級戦犯」という用語もしかり 東京裁判において裁かれる理由によって分類されたのがA、B、Cという分類であって 裁かれる理由の重さA>B>Cによって分類されたわけではない 従って等級をあらわす「級」でなく「類」というカテゴリーをあらわすもので表現しなければならない
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33天皇陛下がいない日本国
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YAHOO掲示板「天皇陛下がいない日本国のビジョン」へ投稿し始めて数年 かなり自分自身力と時間をさいてきた。
いつかは消え去るトピックス。記憶に残そうと まとめてみる。
書庫の題名は 不敬にも「天皇陛下がいない日本国のビジョン」だが さざれ石が巌となるまで天皇を仰ぎ見る国体であることを願ってやまない。

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書庫の題名は 不敬にも「天皇陛下がいない日本国のビジョン」だが さざれ石が巌となるまで天皇を仰ぎ見る国体であることを願ってやまない。

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物事の善悪など世の中にある条件しだいでいずれにもなるものだが 理想という全ての条件が外されると 善悪を語りだすものである。 理想を人の社会で実現しようとすると「純粋性への強迫観念」により大変なこととなる。 マルクス主義者を含む宗教で生活、精神を支配されたひととの会話が成り立たないのは 条件が外され それでもこの主義主張を正しいものと成り立たせるための都合のよい条件の持ち出しというダブルスタンダードに終始するのも「理想の実践」という永遠に不可能なものへの執着にある。 このような唯物論とはものの考え方で正反対の位置にあるものがある。 それは親鸞聖人である。個人的に単に父方の葬式が浄土真宗というご縁でしかないが 親鸞聖人の思想へ引かれる部分は 善悪二元論を嫌い 勧善懲悪的なことにあまり価値をおかなかったことであり 人が生きるうえでの条件を無視しなかったことである。 「歎異抄を読む」(早島鏡正)から以下引用 仏道は、清浄道の獲得にある。清浄道は、善悪二元の相対を否定しつづけていく実践道である。 かりに、悪が斥けられて善が残っても、善そのものは、自己否定にみずからを悪の次元において把えていく。 善がみずからを善だとして、それにとらわれるならば、もはや善ではなくなってしまう。善を修めるという自己意識が存在すれば、善はそのすがたを消すか もしくは悪となって、この人を規制していく。まして悪事のみしかなしえない自己だと知れば知るほど、なすところのいかなる善・悪の行為も、いつわりばかりといわざるをえない。 親鸞は和讃でこういう。 悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎(じゃっか)のごとくなり 修善も雑毒なるゆえに 虚仮の行とぞなづけたる このようにして、相対世界の善悪は悪の一字におさまってしまうと、・・・・・・ 現代の漢意論者、いわゆる左翼一般がおちいる誤りを見事に指摘している。 善悪という物事に重量をつけることは 平等、人権、平和という「単語」への絶対的信頼へ繋がる。 「天皇は身分制度であり平等でない」「戦争より平和」 当たり前な言葉は人の生きるうえでもたらすのは思考停止。 そしてそれとは対極にあるのが ここで出て来る 「清浄道」といわれるもので やまとこころに通じる清浄観である、それは 善に重量を付けずに感じる素直なこころそのものがやまとごころで その清涼感には質量なく 善悪二元論へおちいることを防いでいる。 聖人の「ただひたすら念仏せよ」とは「物事に重量をつけるな」というように私には聞こえてくる。
人間の感じることのできる普遍性など普遍もどきの虚構でしかない。 |
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<昭和天皇>A級戦犯の靖国合祀に不快感 元宮内庁長官メモ記事リンク■富田氏メモ靖国部分の全文■ 私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と 松平は 平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている だから 私あれ以来参拝していない それが私の心だ(原文のまま)
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