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書庫8台湾【中部】

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ただの嘉義市内 台湾五日目(11)

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イメージ 4嘉義公園を出て駅方向にとにかく歩くことに ポツポツと日式の木造の家屋が出てくる普通の風景 特にこのあたりは何もなさそうでただキョロキョロしながら歩く。
前方にジャージ姿の学校帰りの女の子たちがいた。台湾は一応制服はあるのだが 田舎街だとジャージに学校Tシャツが普通の通学姿。ダサくても平気なようだ 日本の同世代の女の子は色気づき過ぎるのかも。
6万5千コメントと40万ヒットがタイムスケジュールにのって来たと数値をみていたら「友だち」が100人になっていた。ありがとうございます。

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嘉義公園の中にある色々な見所 台湾五日目(10)

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イメージ 3日本統治時代の明治43年に作られた嘉義公園 歴史が長い分そこに蓄積された物も多い、ブログで紹介した嘉義神社の遺構などやその社務所は「嘉義市史蹟資料館」などがそうだ。
焼けた二代目本殿後の「射日塔」の忠烈祠の他 「十二門古砲」「震災紀念碑」「一江山紀念碑」阿里山森林鉄道の「21號蒸汽火車」228事件で国民党に虐殺された「陳澄波のイーゼル」、公園の入口の「孫文像」「嘉義孔子廟」「福康安紀功碑」など 台湾の古い公園は古いものが集まる展示スペース的役割をするで観光地としても侮れない 今回はよく調べて行かなかったので落とした部分も多く悔いが残る。

イメージ 4嘉義の名前の由来はwikipediaによると旧名は諸羅山【台湾原住民平埔族ホアニア族ロツァ支族の集落「ツウロウサン」と台湾語音が類似する諸羅山社 (Chu-lo5-san) に宛てた。】この名が嘉義に改名されたのは【1786年に林爽文の反乱が発生し諸羅城を10ヶ月に亘り包囲した際にも陥落することは無く、またこの際に城内の住民が清軍に協力して防衛したことから清朝より「嘉其死守城池之忠義(城を死守した忠義を嘉す)」との聖旨を受け。翌年11月3日に詔勅を以って「諸羅」を「嘉義」と改称した。】という出来事に由来、台湾の地名の中で唯一「清の皇帝の詔勅」に由来するとのこと。この「林爽文の反乱」を鎮圧したのが福康安でこのひとの記念碑が亀の上に鎮座する「福康安紀功碑」漢文の他に満州文字が刻まれているのも見る価値がある。ということでもう一度来ないとあかんな〜と嘉義公園を後にする。

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ナメクジの這う「忠烈祠の石牌坊」台湾五日目(9) 

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イメージ 4嘉義神社で欠けてないものが本殿の他に鳥居
そのかわりには中華鳥居こと石碑が建てられている。
似たように領域を示す存在であるのでそのまま残してよさそうなものであるのだけれど
なぎ倒し甲斐があったのか多くの忠烈祠では鳥居を石牌坊に改修することもなく鳥居は取り除かれる例が多い。
基本的に忠烈祠の石牌坊は特に美しさを感じないので撮影はしないのだか 今回はレンズを向ける。
邪気を放つものには 醜いものが群がるのは世の決まり
ナメクジが這い ここは神域ではないことを教えてくれた。

イメージ 5忠烈祠と刻まれたものはおそらく日本時代の記念碑だろうか なんという文字が刻まれていたのか知るすべがない。
また「台湾省嘉義市忠烈祠」と刻まれた石柱あり 嘉義神社を示す石柱であったようで彫り直されている。
ネットで調べると この石注の忠烈祠の部分にペンキがかけられた写真があった。
外省人が日本の元号や日本人の名前の残るものを傷つける行為はこのブログで紹介することであるのだが
外省人が持ち込んだものや外省人の名前が台湾人によって傷つけられる例もしばしば見受けられる。 

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嘉義棒球場にあった甲子園で準優勝した嘉義農林の記念碑 台湾五日目(8)

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イメージ 3嘉義神社の敷地は嘉義公園の一角にあり 公園は明治43年(1910年)に作られたもの
日本統治時代の名称は嘉義公園で戦後「中山公園」に改名されたものの民主化の流れで1997年に元の「嘉義公園」に戻された。
公園内には野球場があり撮影 記念碑らしきオブジェがあり これは嘉義農林の記念碑に違いないと近づくと予想は的中「威震甲子園」とプレートがあった。
嘉義農林というのは日本統治時代の台南州立嘉義農林学校のことで 1931年第17回全国中等学校優勝野球大会に初出場 決勝戦に進出し準優勝したチーム。戦前は台湾、朝鮮、満州の所謂外地からの参加があったのだ。17回大会を率いたのは近藤兵太郎 レギュラーメンバーは日本人3人、台湾人2人、高砂族4人の混成チーム 嘉義農林の活躍は当時日本を熱狂させたようで 『作家・菊池寛は観戦記に「僕はすっかり嘉義びいきになった。日本人、本島人、高砂族という変わった人種が同じ目的のため共同し努力しているということが、何となく涙ぐましい感じを起こさせる」 と記している。』(wikipedia)

イメージ 4また戦前最強だった中京中学のレギラーにも3人ほど台湾の高砂族がいて 今も台湾プロ野球は高砂族が大半で支えられていることからも 身体能力は相当のものだったのだろう 嘉義農林の打撃力は軍を抜いていたようだ。
嘉義農林で甲子園大会に春に1回、夏に3回出場した吳昌征は1937年に巨人軍に入団 首位打者を獲得するなど20年間プロ在籍。
現在嘉義農林は国立嘉義大学となっている。
台湾の野球は嘉義農林につながり 郭源治など多くの選手が日本で活躍する原点なのだ。


八田與一と嘉南地方、嘉義農林学校

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嘉義神社の「斉館」と「社務所」(嘉義市史蹟資料館)台湾五日目(7)


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イメージ 3嘉義神社は本殿は失われたものの かなり立派な社務所と斉館が残っていること。
社務所と斉館と言ってもくっいてあるので一つの建物で そのためかなり大きい。
嘉義神社は大正 4年(1915)の創建であるが この社務所と斉館は昭和18年(1943)に建てられたこともあり年代は新しいこともあり保存状態はかなりよい。
神社は原則的に軍管轄で接収されたこともあり 本殿は烈士廟に社務所と斉館は国軍の828号病院となった。病院はその後 制度改正で市政府のものとなり「史蹟文物陳列館」

イメージ 4書院造りで日本統治時代に残した居住文化の代表的価値を認められ
民國87年10月「嘉義市政府核定為市定古蹟」となりその名称は「嘉義市史蹟資料館」
軍管轄の為 戦後大陸からの200万人とも言われる流民が住宅不足を理由に住み着くこともなくここに眷村化しなかったことが幸いし また病院利用で建物を使用したことが建物を維持することとなった。
台湾の軍施設内は今でも日式の建物が保存状態良く残されているのは 国軍が人口50倍の中国と対峙するのに米国の多額の援助があったとはいえ 施設まで予算を回す余裕がなく 既存の建物を利用したというのが大きな要因なのである。

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