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18日本で発見の台湾
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日本に帰国するのは仕事が主で あちらこちらへはいけないがたまの休日に 目に飛び込んできた「日本で見つけた台湾」を取り上げてみたい。ネタ不足だけど。
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沖縄の孔子像と蒋介石
Wikipedia明倫堂リンク 琉球の明倫堂 程順則・名護親方寵文の建議により康熙57年(1718年)に久米村内(現在の那覇市久米二丁目二番)の孔子廟境内に創建された。琉球における最初の正式な教育機関。明倫堂では官話のほか経書の講解、詩文や表奏文などの外交文書の作成教授など上級教育を行ない、それまで教育の場であった上天妃宮では北京官話や小学の素読など初等教育を行なうようになった。 明治期まで学校として機能するが、その後廃止され沖縄戦で焼失した。跡地には記念碑が建てられている。また戦後、久米村人の子孫が構成する久米崇聖会によって那覇市若狭に同名の施設が再建された。現在は会議室や図書室として利用されている。
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台湾の白血病患者を救え!海を渡る友情の血液―北京市 2007年7月19日、蘇州市と湖南省から北京へやってきた2人の女性が、北京同培医院にて造血幹細胞の採取を受けた。 彼女たちは「中華骨髄バンク」の登録者。このたび彼女たちの血液が台湾にいる2人の白血病患者に適合すると判明したため、この日の採血となった。・・・・・ これまでに521人の中国大陸の患者が台湾からの献血を受けたが、大陸からの台湾への献血は今回が初めてである。
さて本題 今から12〜13年前 営業の途中で給油でガソリンスタンドへ 料金を払い終えスタンドの若いおにいちゃんがパンフレットを私にくれて
いろいろその後骨髄バンクのことを調べると 白血病など確かに型が一致する可能性は低いが 登録者の数を増やせば ほとんどの人は骨髄移植の可能性が出てくるということを知った。私の大好きな夏目雅子さんも日本のあまりにも低い登録者数の犠牲者だったわけだ。 その日本の登録者数の少なさを示す数値で 今から十年以上の前の数値だが 台湾が20万人を越えているのに 日本は確か6万〜8万 人口比からいって台湾の5倍の人口の日本は100万人以上の登録があってよいわけで この程度の数値で多くの患者さんが助かる可能性が出てくると何かの資料にあった。 当時台湾とは無縁の自分であったが このようなボランティアにかかわる数値がアジアで断トツに台湾が高いことに驚き 大げさではあるが日本人としてどうにかせにゃならんと有給休暇を取って パンフレットを持ち 広島の日本赤十字病院に血液採取に行く それから数ヶ月 バンクの方から連絡あり「あなたと似た型の患者さんがおられるので 再度精密な適合を検査するために血液を採取したい」との連絡あり 再び有給休暇を取って病院に。その後なんの連絡もなかったが かなり適合性の高い患者さんが存在することを知って登録は無意味ではなかったとおもった。
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沖縄戦集結から62年、平和祈念公園で追悼式記事リンク沖縄は23日、「慰霊の日」を迎えた。 多くの住民を巻き込んだ沖縄戦の組織的戦闘が終結してから62年。最後の激戦地となった糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園では正午前から、「沖縄全戦没者追悼式」(沖縄県主催)が開かれ、安倍首相、仲井真弘多(なかいま・ひろかず)知事、遺族ら約4410人が参列した。 式典が50回目の節目を迎えた今年、これまで菊を敷き詰めていた祭壇は、住民が飢えをしのぎ、身を隠した「サトウキビ畑」をイメージしたデザインに一新した。仲井真知事は、平和宣言で、沖縄戦の教訓を生かし平和の実現に努力することなどを訴える。 戦没者の名前を刻んだ園内の「平和の礎(いしじ)」には、早朝から遺族らが次々と訪れ、肉親の刻銘の前で静かに手を合わせていた。礎には今年、新たに235人の名前が追加され、刻銘総数は24万609人となった。
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台湾遭害者之墓
牡丹社事件リンク 台湾出兵(たいわんしゅっぺい)は、1874年(明治7年)に明治政府が行った台湾への軍事出兵である。明治政府と日本軍が行った最初の海外派兵で、牡丹社事件(ぼたんしゃじけん)、征台の役(せいたいのえき)とも呼ばれる。 この事件を知った清国アモイのアメリカ合衆国総領事リ・ゼンドルは駐日公使を通じて「野蛮人を懲罰するべきだ」と外務省に提唱した。外務卿の副島種臣はゼンドルと会談、内務卿だった大久保利通もゼンドルの意見に注目した。当時の明治政府では、朝鮮出兵を巡る征韓論などで対立があり、樺山資紀や鹿児島県参事の大山綱良ら薩摩閥は台湾出兵を建言していた。これらの強硬意見の背景には廃藩置県によって失業した40万〜50万人に上る士族の不満のはけ口を探していたことがある。 明治六年政変で征韓論派を一掃して主導権を握った大久保利通らは台湾出兵を企画。1874年4月に蕃地事務局を設置し、長官に大隈重信、陸軍中将の西郷従道を事務局長に任命して全権が与えられた。政府内部やイギリス公使パークスやアメリカなどからは出兵への反対意見もあった。特に木戸孝允は征韓論を否定しておきながら、同じ海外である台湾に出兵するのは矛盾であるとして反対の態度を崩さず、参議の辞表を提出して下野してしまった。しかし、政府は長崎に待機していた西郷率いる征討軍3000名を、江戸幕府から引き継いだ小さな軍艦2隻で台湾南部に派遣、5月22日に原住民を制圧し、現地の占領を続けた。 ところが、国際慣習を知らない明治政府は、この出兵の際に清国への通達をせず、また清国内に権益を持つ列強に対しての通達・根回しを行わなかった。これは場合によっては紛争の引き金になりかねない国際問題であった。イギリスは当初激しく反発したが、その後、イギリス公使ウェードの斡旋で和議が行われ、全権弁理大臣として大久保利通が北京に赴いて清国政府と交渉した結果、清が賠償金50万両(テール)を日本に支払うことと引き換えに、征討軍の撤兵が行われることとなった。 以前のニュース記事だか検索したら出てきたので紹介
牡丹社事件130年ぶり和解記事リンク台湾側子孫ら、犠牲者の遺族に謝罪 一八七一年、台湾の屏東県牡丹郷に漂着した琉球の住民五十四人が原住民族・パイワン族に殺害された牡丹社事件(宮古島民遭難事件)で、台湾側関係者の子孫ら十八人が十六日、来沖し、那覇市の護国寺で犠牲者の墓を参拝した。訪問団が犠牲者の遺族に謝罪し、事件から約百三十年ぶりに“和解”が実現した。 訪問団には、牡丹郷(村)の牡丹社(集落)とクスクス社から子どもも含む十八人が参加。墓前にビロウの実と酒を供え、三度拝礼するパイワン族の儀礼を行い、犠牲者の冥福を祈った。 林傑西郷長は「風習や習慣が合わなかったとはいえ、祖先の過ちを心から謝罪したい」とあいさつ。犠牲となった宮古の頭の子孫、仲宗根玄治さん(67)=大分県在住=と固く握手を交わした。 林郷長は「握手を受け入れてもらえるか心配だったが、ほっとした。これからは沖縄と台湾の平和的な交流を深めていきたい」と話した。 仲宗根さんは「和解は想像もしていなかったので感無量だ。忘れてしまいがちな加害の歴史が、子孫にきちんと伝えられてきたことは素晴らしい。歴史の重みを感じる」と喜びを語った。 案内役の又吉盛清沖縄大教授は「事件は日本政府の台湾出兵の口実に利用され、植民地支配のきっかけとなった。二度と過ちを繰り返さないため、双方が歴史を正しく伝えていくことが大事だ」と指摘した。 訪問団は十七日、宮古島に渡り、伊志嶺亮平良市長を表敬し、遺族との交流会に参加する |





