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現在 卑南族は原住民中では比較的狭い範囲に居住し 総人口も1万人に満たない。旧部落 の10蕃社間ではそれぞれ言語などの隔たりも大きいようだが 大きくこの10社を分けて 石生起源と竹生起源の社群の二つに分けて認識されている。「石生」「竹生」という名の由来は神話のなかにある。部落ごとにストーリーに違いがあるのだが 石から生まれた子孫の部落を石生、竹から生まれたものの子孫の部落を竹生といい下記のように分けられる。
太平洋からインド洋のマダカスカル島に広く分布するオーストロネシア語族は 中国南部から台湾島に入った人が台湾から広がったという学説がほぼ定説になっている。しかし卑南族やルカイ、パイワン族などは一旦 台湾島から出た後 フィリピン群島あたりで形質的に南方適応下した後 再びそれぞれ時期は違うがUターンして台湾島に再上陸したようである。 卑南族の場合は 神話にあるように一家族がランユイ島経由でかなり新しい時代に戻ってきたようだ。 その時既に東海岸には空地はなく 山間部をさまよい何かをきっかけに 台東平野に進出するのであるが 台東平野での最初の分裂を表すのが 「石生」「竹生」なのだろうか ちょうど現在の卑南族の居住地は アミ族、ルカイ族、パイワン族の接点のような場所 少人数で進出する場所はこの干渉地帯ともいえる場所しかなかったかもしれない。 神話にはアミ族、ルカイ族、パイワン族との婚姻の話もあり 「石生」はルカイ族 「竹生」はアミ族との繋がりの濃さで分けられた歴史があるようである。(南部の台東県太麻里郷、屏東県満州郷、牡丹郷はパイワン族に吸収) |
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11台湾【東海岸】
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入り口のところで白人の外人さんが食べていた。ピュマさんがその外人に旨いか?と尋ねると 当然と言った感じで 笑いながらうなずく。過疎気味の台湾の東海岸の中心地ではあるが際立った産業のない小都市の台東にいる欧米系の外国人はまず間違いなく宣教師などのキリスト教系教会の関係者 信仰そのものや宣教師たちは健全なのだろうけれど 彼らが活動するにあたって言葉は悪いが狙いを定める場所はある意味不健全な土地 そのような場所で彼らは私にはそういう形で目立って見えてしまう。台東は環太平洋で海と空は明るく澄み切っているが 産業的に反映する台湾においては 高い中央山脈にさえぎられて見えない場所のまま放置され続けている。 風向きと二日酔いなどの体調がうまく重なり鼻を直撃すれば まさに公害そのものだった。 いつしか食べるようになったけれども この臭いをかいで パブロフの犬のようによだれが出るほどの刷り込みはいまだにはない 福建系のシンガポール人も台湾人同様 台湾の臭豆腐に反応し「ああいい匂い」というのである 尋ねると懐かしい味という。子供の頃からの刷り込みというのは大きい。 観光地では食べ歩きながらほくほくと満足そうなひととすれ違い 商店街ではいまだに臭豆腐は繁盛店として健在である。しかるに生活空間で臭豆腐の匂いをかぐ機会はこの10年でずいぶんと減ったような気がする。新規出店には苦情が来そうな街並みに台北は変貌しつつある。 |
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台東で行きたかったのは 日本統治時代に発見された卑南遺跡 鳥居龍藏の1896年に撮影したこのモノクロの写真の実物を是非この眼で見て見たかった。結婚式がお開きになり 帰りの飛行機の時刻までまだ時間がありピュマさんがどこに行きたいかと問うて頂いたのでここをリクエストさせていただいた次第。 月形石柱と呼ばれ小公園に整備されているだけだった 画像にあるように北に都蘭山(トランザン)を望み 台東駅と隣接していた。 鹿野忠雄により初めて卑南遺跡を考古学的遺跡として研究され 1945年に金関丈夫・国分直の発掘調査により、住居跡と土器が埋まっていることが発見されたのだが 終戦後発掘調査は行なわれなかった。1975年に地方遺跡。1978年に三級遺跡に指定されるも保護されず 1980年台東駅の建設により破壊大問題になり保護がはじまり発掘調査 石棺など多量の発掘物は台湾考古学史上空前絶後の規模となったわけです。炭素測定法よると、5,300年から2,300年前のもので、古代卑南集落の住居は南北に列に連なり都蘭山のほうを指し また死者を埋葬した石棺も同じく都蘭山に向けられていたとのこと。 但し卑南遺跡、卑南文化といっても 卑南族とは関係がなく地名から名づけられたもの 遺跡、文化の担い手の民族が誰だったのかは アミ族との関係は指摘されているもののまだ判明していないのであります。台湾は都蘭山(トランザン)とこの卑南遺跡をセットでユネスコの世界遺産の候補とリストアップしていますが 現状の台湾の置かれた国際的立場では悲しいことに遠い夢なのです。 トランザンを眺めながら月形石柱をその風景に照らし合わせながら現地に立つと 残念ながらどうやら鳥居龍藏の撮影した月形石柱と公園の月形石柱違うもののようだ。 反攻大陸を掲げそもそも台湾を仮の宿にした蒋介石率いる占領政府が 台湾の遺跡に興味を持つわけもなく 破壊されるに任せ 貴重な鳥居龍藏の撮影した月形石柱が消失した歴史がそこにはある。 ちょうどよいところで月形石柱を最初に世の中に紹介した鳥居龍藏さんのニュースがありました 産経 台湾の木造船や農機具 徳島で鳥居龍蔵展 徳島市出身の考古・人類学者、鳥居龍蔵氏(1870〜1953年)による台湾調査を紹介する企画展「鳥居龍蔵の見た台湾」が、徳島市の県立博物館・企画展示室で開催されている。 鳥居氏は5回にわたり台湾のほぼ全域を調査。原住民族の言語・風俗習慣を記録するとともに、日常生活などをカメラで撮影、多くの写真を残した。企画展は県立鳥居龍蔵記念博物館が鳴門市から徳島市の文化の森へ移転リニューアル開館1周年を記念して実施した。 会場では、鳥居氏が撮影した写真や収集した民具を中心に366点を展示。なかでも台湾から日本へ持ち帰った全長約4メートルの木造船や漁具、農機具などは現在の台湾にもほとんど残っていない貴重な史料という。 「近年台湾では精力的に学術調査を行った鳥居龍蔵氏を再評価する動きも見られる。民族・考古資料や当時の写真を通じ、台湾調査の一端に触れてほしい」と同博物館の下田順一主任は話す。3月11日まで。 |





