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そんなことで 3冊を購入して店の奥にあるカウンターでお釣りを財布に入れていると ふと見上げると棚に3冊「臺灣文化志」が目に飛び込んでくる。 本に値段が付いていないので たずねると 3冊で2万5千円とのこと。 近くのコンビニでお金をおろして購入、昭和3年刊行された復刻版。しかし復刻といっても昭和40年と半世紀たっていて 1冊1万だったらたぶん買わなかったけれど台湾オタクからすれば「臺灣文化志」はこの値段は安いと思い 居酒屋5回分の飲み代でお金が脂肪にかわるよりはましと 2か月間の節約を財布に誓うことに。 帰宅後ネットで確認すると3冊で2万5千円は安かったようだ。 伊能嘉矩wikipedia 伊能 嘉矩(いのう かのり、慶応3年5月9日(1867年6月11日) - 大正14年(1925年)9月30日)は、日本の人類学者・民俗学者。 明治時代においていち早く人類学を学び、特に台湾原住民の研究では膨大な成果を残した。郷里岩手県遠野地方の歴史・民俗・方言の研究にも取り組み、遠野民俗学の先駆者と言われた。梅陰子という筆名での著作も多数ある。 明治28年(1895年)、日清戦争の結果、日本に割譲された台湾に目を付け、台湾総督府雇員となって台湾全土にわたる人類学調査に取り掛かった。その調査結果は、『台湾蕃人事情』として台湾総督府民政部文書課から刊行された(粟野伝之丞との共著)。 明治39年(1906年)帰国後は、郷里遠野を中心とした調査・研究を行うようになる。この間の著作に『上閉伊郡志』『岩手県史』『遠野夜話』などがある。研究を通じて柳田國男と交流を持つようになった。郷里の後輩である佐々木喜善とともに柳田の『遠野物語』成立に影響を与えた。 大正14年(1925年)、台湾滞在中に感染したマラリアが再発するという思いがけない死を迎えた。59歳であった。死後、柳田は伊能の残した台湾研究の遺稿の出版に力を注ぎ、それは昭和3年(1928年)『台湾文化志』として刊行された。''' |
24【書籍】台湾関連
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乃木希典といえば第三代目の台湾総督ということで 古本屋にあった昭和43年初版の本を購入。読み物としては台湾時代の乃木さんのことがわかって自己満足。 wikipediaから乃木さんの年表を抜粋 嘉永2年(1849年)12月11日 - 誕生 安政5年(1858年)- 長府に帰郷。 慶応元年(1865年)- 長府藩報国隊に入り奇兵隊と合流して幕府軍と戦う。 明治10年(1877年) - 歩兵第14連隊長心得として西南戦争に参加。この際、軍旗を西郷軍に奪われた(軍旗を参照)。 明治28年(1895年) - 第2師団長(陸軍中将)に親補され、台湾出兵に参加。 明治29年(1896年) - 台湾総督に親補される。母の壽子も台湾に来るが、すぐマラリアに罹患し、病没した[5]。 明治31年(1898年) - 台湾総督を辞職。嘉永2年(1849年)12月11日 - 誕生 安政5年(1858年)- 長府に帰郷。 慶応元年(1865年)- 長府藩報国隊に入り奇兵隊と合流して幕府軍と戦う。 明治4年(1871年) - 陸軍少佐に任官。名を希典と改める。 明治10年(1877年) - 歩兵第14連隊長心得として西南戦争に参加。この際、軍旗を西郷軍に奪われた(軍旗を参照)。 明治19年(1886年) - 川上操六らとともにドイツに留学。 明治25年(1892年) - 歩兵第5旅団長を辞任して2月に休職となる。12月に歩兵第1旅団長の就任ため復職。 明治27年(1894年) - 歩兵第1旅団長(陸軍少将)として日清戦争に出征。旅順要塞を一日で陥落させた包囲に加わった。 明治28年(1895年) - 第2師団長(陸軍中将)に親補され、台湾出兵に参加。 明治29年(1896年) - 台湾総督に親補される。母の壽子も台湾に来るが、すぐマラリアに罹患し、病没した[5]。 明治31年(1898年) - 台湾総督を辞職。 明治37年(1904年) - 休職中の身であったが日露戦争の開戦にともない、第3軍司令官(大将)に親補されて旅順攻囲戦を指揮し、また奉天会戦に参加する。乃木勝典が金州南山で、乃木保典が203高地でそれぞれ戦死する。 明治40年(1907年) - 学習院院長を兼ね、皇族及び華族子弟の教育に従事。 大正元年(1912年) - 明治天皇大葬の9月13日夜、妻・静子とともに自刃。享年62。墓所は港区青山霊園。 ただわたし的には 同じ長州人であるけれども あまり好印象を持たずこの本を手にしたが 読み終えた後も同じだった。 乃木希典は 高齢の母親の「立派なお役目が果たせるようついていく」という言葉を受け 病気がちの母親を台湾に連れて行き わずか2か月でなくしていたり 日露戦争の折に息子2人を戦死させ 妻を明治天皇の殉死の道ずれにして どれも家族の強い意志があったにせよ 清廉な乃木の考えに従った結果。非情といえば非情 これを人柄あってのことと評価もできるけれど どうも私には無理。 あわせて 同郷の年下の児玉源太郎に三度も助けられていることも 西南の役の連隊旗を奪われたことで自害しようとしたところを児玉に助けられ 台湾総督での行政面での無能ぶりの身代わりに 児玉源太郎が総督にかわり 日露戦争の203高地での戦いもしかり。 しかしながら 乃木さんの台湾総督時代官吏の綱紀粛正はその後の日本統治の基盤になり このことは台湾を統治することイコール汚職し私財を貯め込む国民党と比較され 母親ガ台湾の土になる決意で台湾に来たことは 台湾の土になることを拒絶していまだに棺桶を土から浮かせている蒋介石親子や最後は米国で亡くなった宋美齢と比較され 日露戦争で実の息子を優遇しなかったことは 国民党幹部の息子連中は徴兵制のある国で現在の総統も含め 徴兵逃れをしている事実を台湾では比較され 日本への高い評価にいまだに結び付いてることは 乃木さんの生き方が生み出したものではあるのだ。 |
内容(「BOOK」データベースより) 昭和十七年夏の甲子園大会は、朝日主催から文部省主催に変更。さらに、戦意高揚のため特異な戦時ルールが適用され、「選手」としてではなく「選士」として出場することを余儀なくされた。そして、大会後は「兵士」として戦場へ向かった多くの球児たちの引き裂かれた青春の虚実を描くノンフィクション大作。 前後の年表をwikipediaから引用すると 1940年(第26回大会) 全日本中等学校体育競技総力大会の一部門として開催。この大会を最後に外地の地区予選が消滅。 1941年(第27回大会) 太平洋戦争の影響で地区予選の途中で中止( - 1945年)。 1946年(第28回大会) 全国中等学校野球連盟結成。阪急西宮球場で大会を再開。 とある。 この本の「幻の甲子園」とある大会は 所謂「甲子園の大会」が主催者が誰かということで 1941〜46年の間は存在しないが 戦時下に突入する1942年 主宰を文部省として開かれたいるのだ。 この本は その出場校にスポットを当てたもの。 この大会には嘉義農林学校を台湾予選で破った台北州立台北工業学校が出場している。 台北州立台北工業学校(現在の「国立台北科技大学」)のユニホームには「台北工」と記されているが 台湾でのユニホームの胸のロゴは「北工」、甲子園に出場するにあたり 間際らしいので「台北工」とされたとあった。 42ページの記述で 当時の台湾の野球事情がかなり詳しくあるので 台湾オタクにはお薦めの本。 興味深かいことがいろいろ記述されていて この大会の特徴は 主宰が国(文部省で)行われた場所も橿原神宮の外苑運動場 選手を選士と呼んだとか 主催者からの「選士注意事項」なる配布された書類には突撃精神に反するので「打者は投手の投球をよけてはならない」とか控え選手との選手交代も認められないという「選手は最後まで死力を尽くして戦え」という新ルールが設けられたとある。 戦時下というものは 今の左翼の様に 時流に便乗し正義を振りかざしそれを強要するような連中が偉そうにのさばっていたってことなのでしょうね。 但し左翼が戦後プロパガンダしたような ストライクをいい球と言い換えたようなことはこの大会ではせず。敵性スポーツというひとは少なく アウト、ストライク、ボールの用語は使われているのはある意味驚き。 また甲子園の土を持って帰る習慣は 台湾からの選手が始めたようで 外地生まれの湾生には 本土の土を記念にという意識があったのだろう。 戦後「蒋介石率いる国民党政府軍は、日本統治時代の色を払拭するべく、全島の学校の校旗など全て廃棄処分にするように命令。その中で、台北工業が甲子園行を決めた台湾大会での優勝カップやトロフィーも、ことごとく処分されたという。」とあった。 蒋介石が断ち切ろうとした 日本と台湾との絆 台北州立台北工業学校は国立台北科技大学となり大学へなった現在 日本との繋がりはどうかといえば 2009年には国立台北科技大学に台北工業学校の第六代校長を務めた千々岩助太郎を記念した博物館が設置されたとあるり行ってみたいところだ。 千々岩助太郎さんの画像wikipediaより拝借 |
内容(「BOOK」データベースより) 昭和十八年十一月、戦時下の東京にタイ、ビルマ、インド、フィリピン、中国、満州国の六首脳が集まり、大東亜会議が開催された。史上初めて一堂に会したアジア諸国の代表が「白人支配からの解放」を高らかに謳いあげた時、日本の戦争は、欧米帝国主義を模倣して権益を追求する侵略戦争から、アジア民族解放の大義ある戦争へと大きく性質を変えたのであった―。“東京裁判史観の虚偽”を正し、大東亜会議が「アジアの傀儡を集めた茶番劇」ではけっしてなかったことを明らかにする画期的労作。 大東亜会議に参加したバー・モウ、張景恵、汪兆銘、ワンワイタヤーコーン、ホセ・ラウレル、スバス・チャンドラ・ボース 国家を失った張景恵や分裂政権であった汪兆銘へ対する中国の今現在の評価を代表して大東亜会議すなわち大東亜戦争に対するアジア全体の共有した歴史観としてあたかも存在するといった 戦後日本人の大きな間違いである自虐史観にとらわれている人たちは バー・モウ、ワンワイタヤーコーン、ホセ・ラウレル、スバス・チャンドラ・ボースらの 独立を勝ち取ったかれらの国での評価を無視し 傀儡とすることは 中国を除くこれらの独立国の歴史を罵ることと同じなのだ。 そんな大東亜会議に参加した経緯や当時の発言をうまく1冊の本にまとめた良書である。 東南アジアの日本の占領地で フィリピンの占領政策は評価されるようなものでもなく 大東亜会議で来日していたフィリピンのラウエルは『日本はなぜ、かつて台湾総督、児玉源太郎が台湾を統治した方法に則り、力をもって強圧するのではなく、人情をもって、フィリピン民衆に臨まなかったのであるか。これが日本の失敗といわずしてなんであろうか』と言葉を残している。 日本の台湾統治の成功を 戦後の国民党統治の「最悪」と比較し「ましだっただけ」とする人も多いが 比較など関係なく 戦時中に評価されるものだったと分かる。 また終戦を迎えた インドのチャンドラ・ボーズは ソ連への亡命を敢行すべく 台湾の松山空港から大連に飛び立つ時の事故が原因で8月18日に台湾で死亡。 その五日後 ビルマのバーモウは日本への亡命を目指し 台湾の松山空港に降り立っている。
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台湾の主張 李登輝 著ゴールデンウイークに帰省したときに 我が父の本棚にあった 『台湾の主張』李登輝さんの本を読む。 1999年暮れに台湾に赴任した年 辞令がでる前 自分が台湾に行くかどうかもわからない時に偶然 親父の本棚にあったこの本をゴールデンウィークに手にして読んでから 約15年ぶり。 大筋は記憶していたが 1999年に書かれた本で国民党主席で総統時代に書かれたものであるので 現在の李登輝さんの台湾独立派(建国派)の精神的支柱立場とは違う 国民党台湾派に立脚して書かれている。 とはいっても李登輝さんを担いでいる人たちのあからさまな独立(建国)でかつ反中国、反国民党の主張を李登輝さんは現在に至るまで明らかな表明はしていないので 現在もこの著作の内容と李登輝さんの心情はあまり変わらないのではないかと私は推察している。 最終的には独立(建国)というものが心にはあるにしても 方法論的に国民党台湾派的な煮え繰らない態度というものは 民進党や台湾団結連盟の支持者の多くもこの様な態度表明であるのだけれど そうとはとらえずに ある程度過激な部分を恣意的に取り出し攻撃するのが中国であり 支持するのが日本の台湾友好団体であって ある意味自国、自分たちの主張の延長線上に台湾の民意があるとする自己中な意味では同じなのだろう。けれどもわざわざ敵にすることもない 私の場合も方法論的に最終的な自分の希望もあり 建国派的立場を鮮明に主張はしているが『台湾は日本の生命線』と耳にすると何を勝手に台湾を自国の都合で安全保障上の道具にしているのだとカチンとくる部分がありそのような言葉はせめて遣わないようにしている自己中でありたい。 「大学時代に中国共産党と接点」明かす 台湾の李登輝元総統 台湾の李登輝元総統(90)は、戦後の台湾大学時代に仲間と結成した団体が、中国共産党に「吸収」されていたことを明らかにした。李登輝氏をめぐっては、青年時代に中国共産党に入党したとの疑惑が指摘されていたが、自ら同党との接点を認めたのはこれが初めてだ。李氏は19日、戒厳令時代に政治犯が投獄された台湾東部沖の緑島で、台湾メディアの質問に答えた。・・・・・著作にもマルクスレーニン主義を学んだとは書かれていたが具体的な行動がどのようなものであったか表明は今回が初めて 存命中に明かされたことによって 将来李登輝さんの評価を低める道具になることを防ぐことになるだろう。李登輝さんというのはかなり慎重だけれど理詰めの策を準備するひとだ。 |






