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権力に立ち向かうという自己陶酔
昨日の記事で東京新聞の望月衣塑子記者のことを書いた。 そうしたら、たまたま今日のアゴラでイソ子を批判する記事を見かけたのでご紹介する。 まあ、彼女を批判する記事はいままで枚挙にいとまは無いが。 朝日新聞と菅野 完御用達の港商売(ハーバージビネス)オンラインがイソ子を絶賛しているというからイソ子の立ち位置も自ずと明らかである。 港商売のイソ子擁護記事は突っ込みどころ満載だが、バカらしいので止めておく。 イソ子の発言を封殺したと官邸に抗議文を突き付けた日本新聞労働組合連合(新聞労連)の委員長は朝日新聞の南 彰記者であり、南記者とイソコは昨年12月「安倍政治 100のファクトチェック」という安倍政権批判の本を出している。 バレバレのお仲間である。 アゴラ(2019/2/11) ジャーナリズム改革は国民の権利である 高山貴男 事実を報道せず「創ろう」とする 首相官邸による官邸記者クラブへの「事実を踏まえた要請」の波紋はまだ続いているようである。 既に指摘したように新聞労連は声明を出し、また朝日新聞は社説で首相官邸の対応を非難した。 (社説)官房長官会見 「質問制限」容認できぬ(朝日新聞デジタル) まず事実関係を整理すれば内閣官房長官による定例の記者会見を主催しているのは首相官邸ではなく記者クラブである。主催者は記者クラブだから首相官邸に質問を「制限」することはできない。だから「要請」なのである。 もちろん首相官邸による「要請」は異例だが焦点となっている東京新聞所属の望月衣塑子記者もまた「異例」なジャーナリストだから首相官邸の「要請」を直ちに批判することはできない。 彼女のジャーナリストとしての「権力監視能力」は相当に疑わしく、単なる自己正当化の方便として「権力を監視する」と力強く主張している印象が強い。 望月氏の「権力監視能力」はネット上では最大の関心時であり、それもあってか彼女を擁護する記事も出てきた。 ⇒望月衣塑子記者の質問は「無駄が多い」「自分の意見を述べ続ける」は本当か? 信号無視話法分析で検証(ハーバービジネスオンライン) この記事では沖縄県の辺野古基地を巡る望月氏の質問を根拠に彼女のジャーナリストとしての「適性」に合格点を下している。しかし妙である。望月氏が注目されたのはここ最近の話はない。大雑把に言えば森友・加計学園騒動が盛り上がった2017年6月ぐらいからである。 彼女のジャーナリストとして「適性」を評価するにはその時点まで遡って検証しなくてはならないはずである。ある一部分を切り取り、それを強調し全体に判定を下す姿勢はとても支持できない。 またこの擁護記事を読んで問題だと思ったのは、彼女は昨年の沖縄県知事選で勝利した玉城デニー氏を「圧勝」と表現していることである。 昨年の沖縄県知事選挙では玉城デニー氏と佐喜真敦氏の両者が事実上、争ったわけだが有効得票数に占める両者の割合を比較した場合、玉城氏と佐喜真氏の比率は大体において55:44である。(1)玉城デニー氏側は勝利したとはいえ55%は圧勝ではない。 同時期、実施された自民党総裁選では安倍晋三氏と石破茂氏の地方票の得票比率は55:45であり沖縄県知事選挙の比率とほぼ同じである。ところが自民党総裁選挙では「45」の数字を強調して「石破氏善戦」(2)と評したジャーナリズムもあったほどである。同時期に行われたもので同じ「55」なのに取り扱い方が全く異なるのはなぜなのか。 繰り返しになるが55%は「圧勝」ではない。数字の評価を歪めることは極めて問題がある。そして数字の評価を歪め自説を主張する望月氏から窺えるのは、彼女は「事実を報道せず創ろう」としている。 何よりも玉城デニー知事は正真正銘の権力者であり彼に「肩入れ」する姿勢は望月氏が拘る「権力を監視する」姿勢とも矛盾する。このように擁護記事をもってしても彼女の「権力監視能力」への疑問は消えない。 むしろ「ますます疑惑が深まった」というやつである。 典型的な既得権益 筆者は望月氏を貶める意図はなく彼女のエネルギッシュな行動は別の分野に取り組んでいただければ良いと考えている。少なくとも今、彼女の関心にある辺野古基地、加計学園では彼女の個性は活かせない。 望月氏を見ていつも思うのは新聞社の人材の適性配置についてである。 新聞社に限らず組織で人材の適性配置がなされない最大の理由は人材の適性配置がなされなくてもその組織に悪影響がないからである。人材の適性配置がなされなくても悪影響がない組織。それは要するに競争に晒されてない組織である。 既存のジャーナリズムには「公共性」を理由に各種優遇措置が認められている。新聞社は独占禁止法の一部適用除外(再販制度)が認められており、テレビ局も総務省の裁量行政に基づき電波を割り当ててもらっているため総務省との距離は極めて「近く」事実上、一緒になって新規参入を妨害している。 もちろんジャーナリストには「フリー」の者もいるが主体はやはり新聞・テレビである。 だから日本のジャーナリズムは典型的な既得権益を主軸に成立していると言える。 「報道の自由化」を通じてジャーナリズムの世界に競争原理を導入することはジャーナリストの質を向上させるはずである。それはジャーナリズムの「権力監視能力」の保障を意味する。 ネット・メディアの拡大により情報伝達のインフラはかつてないほど巨大化しているし、この傾向は今後も続くだろう。だからジャーナリズムは「量」とか「規模」ではなく「質」を追求すべきである。 「100人の望月衣塑子より1人の立花隆」の方が権力者ははるかに肝を冷やす。 報道記録の公開の推進を 「報道の自由化」はジャーナリズムの「権力監視能力」を保障するものである。 一方で「報道の自由化」を進めたら新聞社・テレビ局の淘汰が進むのは確実である。両者とも完全な斜陽産業であり、特に新聞社の経営は相当に厳しい。新聞の部数の減少はときおりネットで話題になる。 要するに「報道の自由化」でまず起きることは新聞社・テレビ局関係者の減給・削減(失業)であり、それは彼(女)らの生活に直結する。 世界のジャーナリストは文字通り「命」を懸けて「事実」を追求している。 だから減給・失業のリスクぐらい受け入れるべきだ…と言いたいところだが筆者は基本的に失業リスクのない公務員である。公務員が他人の減給・失業を求めてもまるで説得力がないし公務員だからこそ他人の減給・失業を求めてはならないと考えている。 では他にどんな手法でジャーナリズムの「権力監視能力」を保障するのか。 それは新聞・テレビが過去に何を報道してきたかということを公にすることである。「記録」とは現在の自分を律するものである。だから過去のジャーナリズムの報道が容易に検証できるインフラの整備が必要である。 新聞は過去の記事が「縮刷版」として図書館に配架されているが一般になじみがない。 また過去の紙面を写真で表示するだけでは不親切である。記録とは容易に活用(引用)できてこそ意味がある。 だから新聞の過去の記事をデータ化し無料でネットに公開すべきである。 またテレビの報道記録の公開はほとんど進んでいない。 NHKは限られた施設で公開しているが民間放送は未公開と言っても良い。 「動画」の影響力を考えればテレビの報道記録を公開・閲覧できるインフラ、いわゆる「放送アーカイブ」の整備が最も求められる。 また技術的課題があるだろうかテレビの報道記録もネットで公開・閲覧できる体制を目指すべきである。 新聞・テレビの報道記録の公開には膨大なコストがかかるだろうが行う価値はある。税金を投入してでもやるべきである。 新聞・テレビの報道記録が公開され容易に引用できるようになればその反響は絶大に違いない。 当ブログは反日コメンテーターの発言を文字起こししてアーカイブとしているが、動画そのものを簡単に検索できるようになれば(今でもその一部はネットで見られるが)反日メディアの悪行を国民に知らしめる絶好の道具となるに違いない。 イソ子が菅官房長官に喰って掛かる沖縄の基地問題も質問というより官邸への抗議声明に過ぎないのだが。 アゴラ(2019/2/10) おやめなさい、無駄な県民投票 --- 高橋 克己 今月24日に実施される予定の沖縄県の県民投票のサイトに次の記述がある。 「沖縄県では、普天間飛行場の代替施設として国が名護市辺野古に計画している米軍基地建設のための埋立てに対し、県民の意思を的確に反映させることを目的として、 県民投票を実施します。」 だが、「県民の意思を的確に反映させる」といったところで、この投票で沖縄県県民の意思がどのように示されようと、それが国政に反映されることはない。なぜなら、日本国内の米軍基地の存在は日米安保条約という国と国との約束に基づくものだからだ。 目下、国内では韓国の大法院が昨年10月末に出した、いわゆる元徴用工訴訟の日本の民間企業に賠償を求める判決に、多くの日本国民が憤っている。なぜかといえば、その判決が日韓基本条約に基づく国家間の約束を反故にする内容だからだ。 韓国憲法は条約と国内法とを同等に扱うらしい(6条1項)。が、日本では官房長官が、条約は国内三権に優先する旨、発言している。従って日本では、「県民の意思」は「県政」には反映できるとしても、条約という「国政」には反映させられない。つまりこの投票は無駄なのだ。 辺野古移設に関する沖縄県の立場について、筆者はもう一つ奇異に感じることがある。それは普天間基地のある宜野湾市と移転先の辺野古のある名護市、すなわち本投票の結果にもろに左右される両市が、共に辺野古への基地移転、つまりこの埋め立てに賛成していることだ。 確かに普天間も辺野古も沖縄県ではある。が、その沖縄県も日本の一都道府県に過ぎない。ならば、米軍基地に関することの民意は日本国民全員に問うべきではないか。あるいは宜野湾市と名護市だけに問うか、そのどちらかであるべきで、沖縄県という単位は明らかに中途半端である。 (中略) 間接民主主義がなぜ今日の世界に根付いているかといえば、それは国民が自らの能力の限界を賢く弁えているからに他ならない。賢明な国民がさらに優れた選良に政治を託している訳だ。だから無駄な県民投票などお止めなさい。無論、筆者は憲法改正の国民投票にも反対である。 県民投票なんて時間とカネの無駄であり止めるべきだ。 ただし憲法改正は憲法改正国民投票法という規定があるから避けては通れないと思うが。 |
バカ女シリーズ(続)
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