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秦に食われてしまわないようにね。 最近の内部分裂は秦の謀略で首謀者は 秦の内通者であったりして。 。 秦は最近勢力弱いっすからねー 流石、梟雄。 奸雄なんて言いませんよ、勿体ない。 合従連衡 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 合従連衡(がっしょうれんこう)とは外交政策のひとつ。 中国の戦国時代に縦横家によって考えられた。 概要 [編集] 戦国時代、強大になりつつあった秦に対する他国の対処方法として 考えられたのが「合従」と「連衡」であった。 各国はこの二つの方策の間を行き来する間に秦によって各個撃破され、 秦による天下統一が実現することとなった。 戦国時代では「合従」と「連衡」によって同盟の相手を しばしば変えることがあったため、現在も故事成語として、 時々の状況に応じていくつかの勢力との結び合いについて変更をしていく 外交関係を指して、「合従連衡」という言葉が使われる場合がある。 合従 [編集] 戦国七雄のうち、巨大な秦以外の六国が縦(たて、従)に連盟を組み、 共同で秦を押さえ込もう、というのが合従説である。 その最大規模のものが縦横家の蘇秦によるもので、 史記によると彼は鬼谷先生に師事した後に母国に帰ったとき すっかり貧乏であったため、兄の嫁や妻からさえ馬鹿にされた。 このため、一念発起してこれに取り組んだという。 彼はまず燕の文候に各国をとりまとめて秦に対することを説き、 承諾を得ると趙、韓、魏、斉、楚と各国を言葉巧みに説き伏せ、 六国の合従を成立させたとされる[1]。 このとき蘇秦は同盟の総長[2]となり、六国の宰相をも兼ねた。 蘇秦の後は蘇代などによって継承された。 秦以外の二カ国のみの場合も合従と呼び、屈原は、 楚の国内で斉との合従を唱える合従派であったことが知られている (彼は反秦派として『史記』に記述されている)。 食客毛遂が、趙の平原君の使者として、楚に赴き、 楚の頃襄王と合従した様子については平原君列伝に記載されている。 連衡 [編集] 秦と結んで隣国を攻めるのが有利と説くのが連衡説である。 秦に対抗して合従する国に対し、秦と手を組むことの利を説いて 合従から離脱させたのが連衡である。 連衡の論者は往々にして秦の息のかかったものであり、 それ以外の国の間を対立させ、どこかの国と手を組むことで 敵になった国を攻撃し、あるいは手を組んだ国から 土地や城を供出させることを目指した。その代表的な論客は張儀である。 後に范雎は遠交近攻を唱え、遠方の国と手を組み、 近隣の国を攻撃する事で、秦の領土を拡張した。 脚注 [編集] ^ この蘇秦の活躍は、史実とは矛盾するものが多いとの指摘がある。 それによると実際には秦以外の6ヶ国が連盟した事実は存在しないし、 司馬遷は「世間では蘇秦の異聞が多く、 異なる時代の事件をみな蘇秦の事績に附会している」として、 乏しい情報の中から蘇秦の事績の復元を試みたのだが、 それに失敗したとされる。 この説によると、紀元前288年に燕・斉・趙・韓・魏の5ヶ国が 合従して秦を攻めたが、5ヶ国連合軍は退却した。 次に紀元前284年には今度は燕・趙・魏・韓・秦の5ヶ国が 合従して斉を攻撃している。 蘇秦の時代は秦・斉の二大強国時代であり、 蘇秦は燕のために諸国を糾合し斉を攻撃すべく活動した 外交官・間者であった (学研『歴史群像』 1997年2月号P44-45 合従連衡と蘇秦の正体) ^ 小川他(1975)はこれを国連事務総長のようなものといっている。 関連項目 [編集] 縦横家 軍事同盟 「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%88%E5%BE%93%E9%80%A3%E8%A1%A1」 より作成 カテゴリ: 春秋戦国 | 諸子百家 | 外交政策 |
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2010年03月15日
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