さくら通信/西岡昌紀

内科医のコラムです。気軽にお立ち寄り下さい。

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                               9月1日の悲劇




                                  10




     お話した様に、第一次世界大戦後、戦勝国は、歴史的に明らかにドイツの一部であった
    ドイツ東部の広大な地域を新生ポーランドの領土に編入してしまひました。そして、その
    ポーランドに編入したドイツ東部の広大な地域の北に在るダンツィヒ市とその周辺地域だ
    けを、国際連盟が管理する「自由市」として、ドイツでもポーランドでもない地域にした
    のですが、バルト海に面したこの「ダンツィヒ自由市」は、ドイツ本土と地続きではなく、
    その間に、ポーランドがバルト海に出る出口として得た、狭いポーランド領がくさびの様
    に存在して居ました。ですから、ドイツ本土とダンツィヒの間を行き来する場合は、船で
    海を経由するか、或いは、ドイツとダンツィヒの間のポーランド領を通らなければなりま
    せんでした。そのドイツ本土とファンツィヒの間の狭いポーランド領は、「回廊(co−
    rridor)」と呼ばれましたが、この回廊も、歴史的には、ドイツの一部だった地域
    が、住民の意思を無視して新生ポーランドの領土に編入された物に過ぎませんでした。で
    すから、この「回廊」と呼ばれる、ドイツ本土とダンツィヒの間の狭い地域は、ポーラン
    ドにとってはバルト海への出口であり、ドイツにとっては、本国とダンツィヒを結ぶ陸の
    要地だった為、どちらにとっても、重要な地帯と成って居ました。歴史的に見れば、既に
    述べた通り、ダンツィヒも「回廊」もドイツの一部その物なのですが、竹島や北方領土を
    見ても分かる通り、敗戦国の領土を奪った国は、それをおいそれと返す様な真似はしませ
    ん。ましてや、相手は、異常とも呼べるナショナリズムに燃えた1920年代、1930
    年代の不安定なポーランドです。韓国が竹島を返さないのと同様、或いはロシアが北方四
    島を返そうとしないのと同様、ポーランドは、この回廊をドイツに返還しようなどとは全
    くしなかった上、国際連盟が管理する「自由市」ダンツィヒにも野心を燃やし、ダンツィ
    ヒの郵便はポーランドが管理して居た事を利用して、国際地域であるダンツィヒの郵便局
    をポーランド軍の拠点として武装化するなどの、滅茶苦茶な事をして居ました。これを、
    ダンツィヒ住民の96パーセントを占めるドイツ人達がどう感じたかは、言ふまでも有り
    ません。ところが、この様な状況に在っても、ヒトラーは、ポーランドとの関係に配慮し
    て、ポーランドに強い要求を突きつけようとはしなかったのです。この問題を巡る外交は
    紆余曲折を経ますが、結局、ヒトラーが提案した事は、(1)住民の96パーセントがド
    イツ人であるダンツィヒは、国際連盟の統治する「自由市」をやめて、ドイツの一部に戻
    す。(2)ポーランドは、ドイツ本国とダンツィヒの間の「回廊」にドイツが交通の権利
    を持つ事を認める。と言ふ2点に要約される事でしかありませんでした。つまり、ドイツ
    が失なひ、ポーランドの一部と成ったドイツ東部の広大な地域の帰属についてはもう異論
    を唱えないから、国際連盟が管理するダンツィヒだけはドイツに返還される事とし、ポー
    ランドは、そのダンツィヒとドイツ本国の間の狭い「回廊」にドイツが道路や鉄道を運営
    する事を認めて欲しいと言ふ、ただそれだけの事だったのです。日本が、アメリカに沖縄
    返還を求め、アメリカが、米軍基地は在りますが、とにもかくにも沖縄を日本に返還した
    事を思ひ起こせば、沖縄が日本の一部である以上にドイツの一部であったと言へるドイツ
    の町ダンツィヒについて、ヒトラーが求めた物は、果たして、国際的な常識に反した物で
    あったでしょうか?実際、当時のヨーロッパでは、この問題については、ドイツに同情す
    る声が非常に強かったのです。それにも関わらず、ポーランドは、ドイツが、全く平和的
    にこの問題を解決しようと願ひ、交渉を求めたにも関わらず、それを拒否したばかりか、
    ドイツとの戦争を求める声で一杯に成って行ったのです。当時のポーランドが、例えて言
    へば第二次世界大戦後の李承晩政権の韓国の様な滅茶苦茶なナショナリズムに支配されて
    居た事がその背景に在りますが、重要な事は、この対立の陰で、アメリカやイギリスが、
    当時のポーランド政府を密かに扇動し、「俺たちが付いて居る。絶対にドイツに妥協する
    な。」と言ふ意味の「助言」をして居たです。アメリカやイギリスの外交官達が、こう
    した扇動を行なひ、ドイツとポーランドの関係を意図的にこじらせて居た事が、今日、
    当時の外交文書などから明らかに成って居ますが、こう言ふ事を語らずに、1939年9
    月1日のドイツにのポーランド侵攻を、ドイツの一方的な「侵略」と呼ぶ事は、公平な事
    でしょうか?

                                       (続く)



    核時代61年(西暦2006年)9月9日(土)







                                          西岡昌紀(にしおかまさのり)


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