|
故郷奄美大島には沢山の草木や花や虫たちが息づいております。
島を出るまでの十八年間はそれらを意識する機会は稀でした。
関心の対象外で御座いました。
理由は二つ御座います。
それらはあまりにも当たり前過ぎて、
身近過ぎて、
意識する事が出来なかったということが一つで御座います。
そしてもう一つは、
父で御座います。
父が俺に、
この草は何という草だ、
この花は何という花だ、
と、
教えてくれるのですが、
その言い方が、なんとも、幼い俺の自尊心を傷付けるものであったので御座います。
「この花の名前知ってるか。知らん?こんなのも知らんのか。これは、何々という花だ」
父に悪意は無かったのでしょうが、
然し、無邪気に子供の無知を指摘し自らの知を晒す父と、
その切っ掛けを与えてしまう木々や、虫や、草花から、
俺の心は自然と離れて行きました。
島を離れて十二年。
今は草木や花や動物たちの様子を、
愛おしむ気持ちで見ております。
それは、
俺が心から尊敬出来る人が、自然をよく観察し、その様子を愛でる方であったからで御座います。
俺はその方が大好きで、
草木や虫や動物たちに話しかけるような姿勢も、
俺の目にとても美しく映りました。
今の季節、
木々の紅葉やみぞれ混じりの雨を見て心を打たれるのも、
その方の存在あってのことで御座います。
大切なのは優しさだと思います。
それが無ければ、
いくら物が有ろうが、
血の繋がりが有ろうが、
大切に想う気持ちは生まれないと思いますし、
また、
何かを、誰かを、慈しむ気持ちも育たないと思います。
それは人を幸せから遠ざけると思います。
人にして仁ならずんば礼を如何、人にして仁ならずんば楽を如何。
優しさとは、すごく曖昧で大雑把な表現にはなってしまいますが、
仁とは何か、
その答えの一つであると思います。
論語の解説が滞っております。
それは、
里仁第四、十八から、父について書かれたものが続くからで御座います。
書き辛いです。
父を大切に想いたい気持ちが強い故、
父を批判してしまいます。
立派な人を立派だとする当たり前の判断、
悪いものを悪いとする当たり前の判断、
愛すれどその悪を見、憎めどその善を見よ。
これをして「善」と心得ている俺は、
父の悪い所から目を逸らす事が出来ません。
それでも父を良く思いたいという葛藤が俺を苦しませますが、
口だけで、聞こえのいいキレイゴトを言うのは嫌いです。
論語の解説で何を書けば善いのか分からなくなってしまいます。
それでもまた、
今日からまた、
書こうと思います。
何か変わるかもしれない。
|