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与えるのは難しく、奪うに走り易いものに御座います。
信じるのは難しく、疑うに走り易いものに御座います。
信じ、与え続ける事は困難で、
信じ合い、与え合う事は成り難いものに御座います。
なのに何故だ。
与えもしない、信じもしないのに自分は善人だという面をするのは何故だ。
奪い、疑うのに自分は被害者だという面をするのは何故だ。
そんな矛盾した者が自分の考えを正しいものとして扱い、他人を教え導こうとするのは何故だ。
お前らは何者だ。
等と、
アホかと言うほど当たり前のコトも、
言葉にするとドキッと致すものに御座いますねえ。
奪ったり、疑ったりを、したり、されたりすることで、
俺らは失ってばかりで御座います。
それはまあ、
そういうものだとして、
与えたり、信じたりすることで何かを失うという事態は有ってはならないと思います。
実際は有るけどさ。
そっちで失う事の方が多いんじゃないかと思えるほど沢山有るけどさ。
有ってはならないと思います。
当たり前になってはいけないように思います。
友達と過ごしていると凄く落ち着きます。
皆と友達になれたら、と、当然願いますが、
世の中は俺に「奪え、疑え」と教えます。
俺を、奪い、疑う方へ導こうと致します。
うるさいなあと思って無視致しますけれども、
それは、信じ、与える事で、失う。という事態が多過ぎるからだと思います。
詐欺、という行為が多過ぎるのだと思います。
だからみんな「奪え、疑え」のシュプレヒコールを挙げるのだと思います。
世の中を構築する「素」というものを考えますと、
詐欺は、一人の人間を殺す殺人よりも、放火に近いかなと思います。
より多くの人を幸せから遠ざけるものだと思いますし、
当然罪も重いと考えます。
でも俺らって、
自分は善人だという面をしますし、
自分は被害者だという面をしますし、
自分の考えを正しいものとして扱い、他人を教え導こうとしますものね。
それは詐欺じゃなくて何だろう、と考えますと、
詐欺の罪は軽くしてもらった方が世の中が回るかなと、
そんな風にも見えます。
それってやっぱつまんないですよ。
与えよう。
信じよう。
与えられるに相応しい頼れる人になろう。
信じられるに相応しい善い人になろう。
そして与えられたい。
信じられたい。
そう思います。
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