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先を争うの経路は狭しと申します。
我先に、我先に、と他人を抑えようとしますと、
同じように他人を抑えようとする人達とモミクチャな状態を招きますね。
自分は待つ、若しくは一歩退いて、
どうぞ、と先を譲る事が出来たら、
狭い道も一人ずつ悠々と渡る事が出来るので御座います。
先日地下鉄にて、若い女性が
「優先座席に座ればよくない?」
と言っているのが聞こえてきて、大変驚きました。
この女性を、「なんて常識の無い!」と罵るのは簡単ですが、
このコ一人の問題ではないと思うのです。
そんな簡単なものではないと思うのです。
今の世は「先んずれば人を制す」をより尊ぶ風潮が御座いますから、
先の若い女性の発言も社会全体の産物のように思います。
そのコ一人を責め、恥を憶えさせるのではなく、
俺らみんなが恥ずかしいと思わねばならない事のように思います。
里人第四
十三.
子曰、能以禮讓、於爲國乎、何有、不能以禮讓爲國、如禮何、
子曰く、能く禮讓(れいじょう)を以って國を爲(おさ)めんか、何か有らん。能く禮讓を以って國を爲めずんば、禮(れい)を如何。
先生(孔子)は言われました。
「もし譲り合う心を以って国を治める事が出来たなら、
何の問題が有りましょう。
譲り合う心を以って国を治めるのでないならば、
(形だけの)礼があってもどうしようというのでしょう」
(俺なりの解釈での)解説
何度も前述しておりますが、
孔子は今で言う大臣として実際に政治に携わった経験をお持ちですから、
法令禁制等の定めの大切は、
誰に言われるでもなく、身を以って十分にご承知の筈と存じます。
そういった法律の類の重要性を踏まえた上でのお言葉で御座います。
キレイゴトでも何でもない、
実践論で御座いますよ。
譲り合う心で国を治める事が出来たなら、
何の難しい事が有ろうか。
何の問題が有ろうか。
先日、学校で正式な教科として道徳を育もうとする試みが頓挫致しましたけれども、
現状として、
学校や家庭や社会で人々の徳を育む事が出来ているかと申しますと、
各個人に委ねられている、
というのが正確な評価かと存じます。
ある所では大切に育まれ、
ある所ではないがしろにされている、
それでしょうがないんじゃない?というのが、
今在る答えのように感じられます。
俺ら一人ひとりの気の持ちようという言葉もよく耳に致しますが、
そんなコトもうどれくらい前から言われ続けている事か、
そんな言葉だけでは、今在る歪みは治せないように思います。
あまりにも経済にウェートが乗っかってしまった現代、
もっと政治的に徳に取り組む時代が来ているのではないかと思われてなりません。
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