善いね

好きなオノマトペは、のたりのたりです

巻第一

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往を告げて来を知る者

会話は楽しいもので御座います。

日常の中にも、人様と言葉を交わす機会は結構多く御座います。

例えば、コンビニで買い物するだけでも。

「温めますか?」

「はい」

これも会話で御座います。

そうか?

と、疑問を抱く方も多く居られると思います。

それは会話じゃなくて、合図だと。

温めればよいのか、そのままがよいのか、

向こうはその判断が着かないので、可否の合図を送っているだけだと。

一方で、

「温めますか?」

と言う店員さんに、

「はい、お願いします」

などと仰る方も居られます。

先の方からしたら、それは余計な言葉なのでしょう。

でも、

こういう方を見ると、素敵だなあと思います。

そして、これは誰の目から見ても会話で御座いますよね。

会話とは相手が居て成り立つもので御座います。

自分に向けられて発せられた言葉に真摯に耳を傾けると、

相手に向けて発する言葉にも、その真摯さが窺えるものと思われます。

ちゃんと聞く、ってだけの話ですので、決して頑張らなくても出来ることだと思います。

それは「信」で御座います。

朋友と交わるに信ならざるか。

普段、お友達と、どんな会話をなされてらっしゃるでしょうか。

とても楽しいものでしょうか。

夜、眠りに就く前に、

「今日は楽しい会話をしたなあ」

と思い出せるものがあるでしょうか。

幾年の歳月を重ねても思い出せるものがあるでしょうか。

お友達と交わしたのは、本当に「会話」だったでしょうか。

「合図」では無く。

自身の体験や思ったことを話すだけの「報告」では無く。

一方的に喋って「スッキリした」というのを交互に繰り返しているだけのものでは無く。

会話はもっと楽しいものだと思います。

お互いにとって楽しいものだと思います。

そして、その場凌ぎのもので無く、

何かを残すものだと思います。

何かしらの「発見」が得られるものだと思います。

それは喜ばしいことですし、楽しいことで御座います。





学而第一

十五
子貢曰、貧而無諂、富而無驕、如何、
子曰、可也、未若貧而樂道、富而好禮者也、
子貢曰、詩云、如切如磋、如琢如磨、其斯之謂與、
子曰、賜也、始可與言詩已矣、告諸往而知來者也、

子貢曰く、貧しくして諂うこと無く、富みて驕ること無きは如何。子曰く、可なり。未だ貧しくして道を楽しみ、富みて礼を好む者には若(し)かざるなり。子貢曰く、詩に云う、切するが如く磋(さ、さす)るが如く、琢するが如く磨するが如しとは、其れ斯(こ)れを謂うか。子曰く、賜や、始めて与(とも)に詩を言うべきのみ。諸(こ)れ往を告げて來を知る者なり。

詩 … 詩経のこと

賜 … 子貢の名。 性は端木、名は賜、あざ名は子貢


子貢(孔子のお弟子さん)が言われました。

「貧しくてもへつらわず、金持ちであっても傲慢にならない。

どうでしょうか(立派でしょうか?)」

先生(孔子)は言われました。

「善いね。然し、貧乏であっても道を追うことを楽しみ、

富んでいても礼儀を好むというのには、及ばないでしょう」

子貢は言われました。

「詩経に在ります、

切るが如く磋るが如く、琢つが如く磨するが如く

とは、このことでしょうか」

先生は言われました。

「賜(し)よ、それでこそ共に詩の話ができる。

お前は往を告げて来を知る者だ」





(俺なりの解釈での)解説

私事ですが、最近どうも説教臭くなってイカンです。もっと謙虚になります。

子貢は先に述べました四科十哲の一人で、

「言語には宰我と子貢」

と言われております。

いちいちカッコイイ言い方しやがってコノヤローと思わす方で御座いまして、

孔子門下の中で俺が一番大好きなお弟子さんで御座います。

とても聡明な方で御座いまして、

この一節も頭の回転が非常に速かった事を示すエピソードで御座います。

「貧乏でもへつらわず、金持ちでも威張らない。どうっすか?」

と、子貢は孔子に尋ねるので御座います。

すると孔子は

「善いけど、まだ上があるね」

とお答えします。

切るが如く磋るが如く、琢つが如く磨するが如く(詩経、衛風淇奥篇)

切磋琢磨で御座いますね。

四つの字それぞれが「みがく」という意味で御座います。

「みがく」という字を四つも並べているので御座います。

もうこれでもかという程みがくという意味で御座います。

子貢は孔子との会話から、詩経の言葉を連想し、

「あ、アレっすね」

と言う訳で御座います。

それは正にその通りで、そう、アレよと、孔子は大いに喜びます。

学びて時にこれを習う。

また喜ばしからずやで御座います。

お前はちゃんと詩に通じているね、

私も詩経は大好きで何度も読んだから、お前と詩の話をするのが楽しいよ。

そんな孔子の喜びも窺える一節で御座います。

往を告げて来を知る者。

往来の「往」と「来」で御座います。

往を告げると来を知る、

直訳に近い形ですと、「前のことを話すと、まだしてない後の話まで分かる」という意味で御座います。

要は、「まだ話して聞かせてない先の事まで分かる」ということで御座います。

もし、子貢の方から切磋琢磨の話を持ち出さずに、

「なるほど、それだけでは十分ではないのですねえ。もっと善くなりようがあるのですねえ」

と、子貢が頷いていただけだとしたら、

孔子の方から、

「詩経にもあるでしょ、ほら、あの『切するが如く〜』ってやつ。あれのことだね」

と、話して聞かせていたかもしれません。

「詩経」そのものとは全く関係の無いと思われる「礼」や「道」といった、

君子の在りようを模索する会話から、

飛躍的に詩句を連想する子貢の頭の回転の速さに、孔子も驚かれたと思います。

それ以上に、

喜ばれたでしょうし、楽しく思われたと思います。

理想の人生

現在、我々が持っている

「人生のモデル」

というのは、

よくよく調べますと、

びっくりするぐらい国の都合というものが反映しております。

こういう人生が理想的だよと多くの人が描いているイメージ、

それは皆、なんとなく抱いているものと思われます。

勉強、部活、進学、就職、結婚、出産、マイホーム、子供の進学、子供の就職、快適な老後…。

それぞれの段階を踏むのが「普通」で、

次の段階に進まないといけないという固定概念、強迫観念みたいなものは、

当たり前の事として人々の人生観に刻まれております。

それはそれで善い事でも悪い事でも無いと思います。

ただ、

「国民がそういう段階を踏んでくれると、国が富むし、混乱を免れる」

という政治的な目的が色濃いという事は知っていて欲しいなあと思います。

日本の政治を非難する方は沢山居られますが、

先の段階について疑問を抱く人は殆ど居ません。




学而第一

十四
子曰、君子食無求飽、居無求安、
敏於事而愼於言、就有道而正焉、
可謂好學也巳矣、

子曰く、君子は食飽かんことを求むること無く、居安からんことを求むること無し。事に敏して言に慎み、有道に就きて正す。学を好むと謂うべきのみ。


先生(孔子)が言われました。

「君子はお腹いっぱいに食べることを何よりも求めることなどせず、

快適な家に住むことを何よりも求めるようなこともしません。

務めを優先したり、言葉を慎重にしたり、

君子の道を追い、その道と思しきものに従い、自らを正す。

こういう人の方が、学を好むと言うべきと思います」





(俺なりの解釈での)解説

君子は食飽かんことを求むること無く、居安からんことを求むること無し。

いっぱい食べることを望まない、安楽な家を求めない、

と、直訳に近い形で訳されるのが通常で御座いますが、

十分な食、安心して住める家、

これは決して「求めてはいけないもの」ではありませんので、

それを何よりも優先するような真似はしないと解釈致しました。

もっともっと大切にすべきものが在る、と仰りたかったのだと思います。

後に顔回というお弟子さんのお話で詳しく述べます。

事に敏して言に慎み、

「事」は「事(つか)える」と読みます。お仕事に勤める様を表すのによく使われる字で御座います。

ですから「仕事」と訳すのが最も妥当であるかと思われますが、

孔子は「就職」そのものを重要視することをせず、

何故その職に就くか、

君子の道を実践するに妨げのない職であるか、

等をすご〜く気になされる方でしたので、

仕事そのものを指すとは考え難いなあと思います。

「敏」そのものの意味は「すばやい」とか「かしこい」とかです。

事に敏して、は、

何に事(つか)えるかを優先して考えて、

と解釈するのがベストかなと思っております。

有道に就きて正す

これを「道義を身につけた有徳の人に師事して教えて頂く。正してもらう」と訳すのがポピュラーで御座います。

学術的な場に見られる傾向で御座いますが、「師について教えを乞う」という解釈を好むように見受けられます。

然し、孔子も

「朝(あした)に道を聞かば、夕(ゆうべ)に死すとも可なり」

と仰っております。

それぐらい、「道」とは深遠で、身に修め難いもので御座います。

有道を「道の有る人」「道義を身につけた人」と訳してしまうと、

そんな人が簡単に都合よく見付かる訳無いでしょうよと思います。

また、「師となる人を探すのが大事」という意味合いが強くなります。

「仁」についてもそうでしたが、

孔子が仰る言葉には、人そのものを指す場合には、固有名詞や「〜人」「〜の人」と、

はっきりと人物と限定する表現が多いように見受けられます。

有道だけで「道義の有る人」、

仁だけで「仁を身につけた人」、

などと解釈するのは俺は反対であります。

孔子は幼い頃に元魯役人の竹経(ちくけい)という老人に歴史や詩、礼儀や音楽などを教わります(学校へは貧しくて行けなかった)。

現代の教育機関に見られるように師の下について学ぶ10代〜20台前半までの期間は、孔子は独学で学問を深めておられます。

孔子は人から教わることよりも、

もっと自発的な部分を大切に考えてらっしゃったと俺は思います。

ですから「有道に就きて正す」は、

君子の道を追い、その道と思しきものに従い、自らを正す。

と、俺は解釈致しております。

選ばれる人

人の環境が与える影響は大で、どんな方との繋がりを大事にするかで、人生は大きく左右されると思います。

これは多くの方が同じ様な事を仰っておりますし、俺自身の人生経験から得た帰納的な導きでも御座います。

きっと、同じ様な事を実感なされてらっしゃる方は、とても多いと思います。

だから繋がりを大事にする相手を選ぶというのはとてもとても大切なことだと思われますが、

自分もまた、

人から選ばれる人間で在りたいと、

そう願います。




学而第一

十三
有子曰、信近於義、言可復也、
恭近於禮、遠恥辱也、
因不失其親、亦可宗也、

有子曰く、信、義に近づけば、言復(ふ)むべし。恭、礼に近づけば、恥辱に遠ざかる。因ること、其の親を失わざれば、亦た宗とすべし。


有子(孔子のお弟子さん)が言われました。

「信が義に叶うのならば、普段の言葉を実行すべきでしょう。

恭が礼に叶うのならば、恥ずかしい思いをせずに済むでしょう。

頼るには、親しさを失わずにいる相手であれば、その人を宗(おおもと)としてよいでしょう」




(俺なりの解釈での)解説

これまた有子のお言葉で御座います。

非常に難解で御座います。

と言いますのは、この一節は色んな解釈がなされているだけでなく、色んな解釈の中に大多数を占めるものが見つけ難いので御座います。

だからもう開き直って、完全に俺の解釈でご説明差し上げようと存じます。

「信」は友との繋がりを表す時にさんざん登場する言葉で御座います。

「義」は三国志の関羽雲長が特に有名で御座いますが、「義」自体には、大雑把に言うと、後天的に身に付ける人が歩むべき道の指針、みたいな意味が御座います。

信、義に近づけば、言復(ふ)むべし

は、もし「友達のためなら自分に出来る事はなんでもするぜ!」と普段言っていたとしたら、

そこに「義」が見られる相手であれば、言った通り実行してもよい、と解釈してます。

「恭」はうやうやしさ。

礼に基づくものでなければ軽んじられるということと思います。

因ること、其の親を失わざれば、亦た宗とすべし

頼られて得意になり、態度が大きくなってしまうような人は頼るべきでない、

そうでない人なら、その人を頼りに、自身の思う所を行いましょう。

そう解釈してます。

グループ交際は善いか悪いかと言うと、

無論、

善いと思います。

何かしらの縁で出来たグループ、

大切にしたいもので御座います。

長く、変わらず、善い関係を持続出来たら素晴らしいのですが、

ドロドロしたり、ギクシャクしたり、よく在る事で御座いますね。

古典を読んでて思うのは、

昔っから、人って変わってないんだなあということで御座います。

仲良くするのは、非常に善いこと。

でもドロドロしたり、ギクシャクしたりとなってしまうのは、

何かが足りないのでしょうね。

俺も反省する事ばかりで御座います。




学而第一

十二
有子曰、禮之用和爲貴、先王之道斯爲美、
小大由之、有所不行、知和而和、不以禮節之、
亦不可行也、

有子曰く、礼の用は和を貴しと為す。先王の道も斯(こ)れを美と為す。小大これに由るも行われざる所あり。和を知りて和すれども礼を以てこれを節せざれば、行うべからざるなり。


有子(孔子のお弟子さん)が言われました。

「礼はその効用として和を尊いものにします。

昔の王たちもこれを素晴らしいとなされておりました。

小さな集まりでも大きな集団でも、和を重視するも上手く行かない場合があります。

和の大切さを知っていて和を大事にしようとすれども、集団に節度が見られないのであれば、

集団など形成してはいけません」




(俺なりの解釈での)解説

有子は以前述べましたように、どうも四角定規な所が有るなあと俺は思っております。

キチッ、キチッと型に当て嵌めようとする所が見受けられます。

小大由之(小大これに由るも)、

は、

小事も大事も、と訳されるのが通常で御座います。

どんな事でも、どんな場面でも、和を大事にしようとするけども、

という解釈で御座います。

俺は「グループの規模」として、政治の場にも民間の場にも言える事ですが、という意味で仰ったのでは

ないかなあと読んでて思いましたので、そっちで解釈してます。

最後の

亦不可行也(行うべからざるなり。または、行なわるべからず)

これも「集団は上手く機能しない」「上手く行かない」と訳されるのが通常で御座いますが、

有子は「こうあるべきだ」とキツイ言い方をする所が見受けられますので、上のように訳しました。

「節」は節度で良いと思われますが、学識の有る方々は「折り目をつける」という表現を好んで使われて

らっしゃるみたいです。

礼で以て折り目を付ける、という表現で御座います。

節度でいいじゃねーかと思います。

「折り目を付ける」だと、付き合いの中に「ココからココまでという線引きをしっかりしておく」という

ニュアンスが強くなりますので、「親しき仲にも礼儀あり」よりも更に厳しい言い方に思えるのです。

「礼」の結果、「線引き」が成されるものだと思います。

「折り目を付ける」だと「線引き」の方が前に出ますので、「線を引くのが礼」と言っているように感じ

るのです。

…いや、有子だったらそう言うかもな。

すいません、細かいことをぐちぐちと申してしまいました。

とても仲の良いグループがあるとしまして、

そのグループが崩壊したとしましょう。

または、集団で善からぬ方向へ進んでしまったとしましょう。

その原因は多々考えられると思いますが、

その中に、

「馴れ合い」

という言葉も、含まれるのではないでしょうか。

仲良くするのは先にも述べましたように非常に善いことだと思います。

いつも一緒に居る友人がいるというのはとても恵まれたことだと思います。

仲の良い相手に甘えるのも、時には善いと思います。

だから、決して「仲良くなり過ぎないように」という意味では御座いません。

然し、

「友達だから自分のためにこれくらいはやってくれるであろう」と、

期待を肥大化させてはいけないと思いますし、

「友達なんだから何を言っても許される」と、

遠慮を無くしてしまうのも善くないと思います。

また、そのグループを利用して何か利己的な事を企む者が居れば、

矢張りドロドロ、ギクシャク、してくると思います。

それが「節度」なのだと、俺は思います。

最も尊敬する人物は?

の問いに、俺の友人は迷わず

「親父」

と答えました。

これこそ正に「仁」と「孝」の体現と存じます。

とても立派に映りましたし、カッコイイなあと思いました。

そして、羨ましいと思いました。

俺の周りには、俺と同じ様に論語にハマッたという人は居りません。

でも、論語に収められている言葉を実践なされてらっしゃる方は、確かに居られます。

儒家思想に触れずとも、

ご自分の人生経験等から「善い」と思ったものを身に付けていった結果で御座いましょう。

先の友人もその一人です。




学而第一

十一
子曰、父在観其志、父没観其行、
三年無改於父之道、
可謂孝矣、

子曰く、父在(いま)せば其の志しを観、父没すれば其の行いを観る。三年父の道を改むること無きを、孝と謂うべし。


先生(孔子のこと)が言われました。

「父親が生きている内は、自分の父親が何を目指し、何を成さんとしているのか、その志を見なさい。

父親が亡くなってからは、生前に何を言っていたか、何に取り組んでいたか、その行いを見なさい。

亡くなってから三年は、父親の道を改めないのが孝行でしょう。」





(俺なりの解釈での)解説

この、三年という喪に服す期間は何故に三年かと申しますと、

孔子は

「子供は生まれて三年経って、ようやく両親の懐を離れることが出来る。だから三年の喪は自然と社会に

広まったもの」

と解釈なされております。

生まれて三年は父母がその懐でいつくしみ、守り、育んでくれるのだから、

喪にあうと、その死を悼む心と、悲しむ心で、自然と普段とは違う生活を送ることになるでしょう。

それはやはり三年は続くでしょう。

というお話しで御座います。

三年という期間が先に在ったのでは無く、

多くの人が、悲しみを乗り越えて気持ちの整理が付くまでは、大体三年ぐらい掛かりましたよ

という帰納的な導きであったようで御座います。

三年父の道を改むること無き

と在ります。

これを、

「三年は父親の批判をしない」

と解すか、

「三年は父親の教えに背かない」

と解すか、

はたまた、

「三年は父親の意志を継ぐ」

と解すか。

難しい所で御座います。

先ず「父の道」をどう解釈するかで御座います。

これを「父親自身が歩んだ道」と致しますと、

父の人生に善し悪しなどの批判をしない、

或いは、

父の歩んだ道のその先を行く、違えたりしない、

と解釈できます。

ではなく、「父親が子に示した道」と致しますと、

父の教えに背かない、父の戒めに従う、

こういった意味合いになると思います。

父親ではなく母親の話で恐縮で御座いますが、

現楽天ゴールデンイーグルスの監督でらっしゃいますノムさんこと野村克也氏。

ノムさんは選手時代、プレイングマネージャーとして監督も兼任することをチームから勧められました。

現在で言う所の古田選手兼監督で御座いますね。

その噂を耳にしたノムさんのお母様は、

「監督なんて大それたものやっちゃいかんよ!人様の迷惑になるよ」

と大反対なされたそうです。

そのお母様が亡くなられた二年後に、

ノムさんは監督兼任の要請を受けます。

この二年間というのは、

やはりお母様の教えを守られてらっしゃったのではないでしょうか。

服喪三年というのは満三年ではなく、現在で言う所の三回忌、二年とちょっとだそうで御座います。

恐らく、ノムさんは論語に通じてらっしゃった訳では無いと思われますが、

やはり「孝」の人だったのでしょう。

後に監督を引き受けますし、

日本一にもなられた名将で御座いますから、

ある程度の自信は多少なりとも在った筈で御座います。

それでも当初監督の座に座らなかったのは、

誰から教わるでもなく、

三年道を改むること無き

を実践なされてらっしゃったのではないかなあと思いました。

父在せば其の志しを観、

父没すれば其の行いを観る。

辛い思いをなされている方が、

少しでも早く、喪から明けられることをお祈り致しております。

日々を幸せに暮らし、お父様の生前の心配を払拭するのもまた、

孝で御座いましょうから。

辛い姿よりも、

善い姿の方が目立つようになる日が来ることを、

切に願っております。

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