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会話は楽しいもので御座います。
日常の中にも、人様と言葉を交わす機会は結構多く御座います。
例えば、コンビニで買い物するだけでも。
「温めますか?」
「はい」
これも会話で御座います。
そうか?
と、疑問を抱く方も多く居られると思います。
それは会話じゃなくて、合図だと。
温めればよいのか、そのままがよいのか、
向こうはその判断が着かないので、可否の合図を送っているだけだと。
一方で、
「温めますか?」
と言う店員さんに、
「はい、お願いします」
などと仰る方も居られます。
先の方からしたら、それは余計な言葉なのでしょう。
でも、
こういう方を見ると、素敵だなあと思います。
そして、これは誰の目から見ても会話で御座いますよね。
会話とは相手が居て成り立つもので御座います。
自分に向けられて発せられた言葉に真摯に耳を傾けると、
相手に向けて発する言葉にも、その真摯さが窺えるものと思われます。
ちゃんと聞く、ってだけの話ですので、決して頑張らなくても出来ることだと思います。
それは「信」で御座います。
朋友と交わるに信ならざるか。
普段、お友達と、どんな会話をなされてらっしゃるでしょうか。
とても楽しいものでしょうか。
夜、眠りに就く前に、
「今日は楽しい会話をしたなあ」
と思い出せるものがあるでしょうか。
幾年の歳月を重ねても思い出せるものがあるでしょうか。
お友達と交わしたのは、本当に「会話」だったでしょうか。
「合図」では無く。
自身の体験や思ったことを話すだけの「報告」では無く。
一方的に喋って「スッキリした」というのを交互に繰り返しているだけのものでは無く。
会話はもっと楽しいものだと思います。
お互いにとって楽しいものだと思います。
そして、その場凌ぎのもので無く、
何かを残すものだと思います。
何かしらの「発見」が得られるものだと思います。
それは喜ばしいことですし、楽しいことで御座います。
学而第一
十五
子貢曰、貧而無諂、富而無驕、如何、
子曰、可也、未若貧而樂道、富而好禮者也、
子貢曰、詩云、如切如磋、如琢如磨、其斯之謂與、
子曰、賜也、始可與言詩已矣、告諸往而知來者也、
子貢曰く、貧しくして諂うこと無く、富みて驕ること無きは如何。子曰く、可なり。未だ貧しくして道を楽しみ、富みて礼を好む者には若(し)かざるなり。子貢曰く、詩に云う、切するが如く磋(さ、さす)るが如く、琢するが如く磨するが如しとは、其れ斯(こ)れを謂うか。子曰く、賜や、始めて与(とも)に詩を言うべきのみ。諸(こ)れ往を告げて來を知る者なり。
詩 … 詩経のこと
賜 … 子貢の名。 性は端木、名は賜、あざ名は子貢
子貢(孔子のお弟子さん)が言われました。
「貧しくてもへつらわず、金持ちであっても傲慢にならない。
どうでしょうか(立派でしょうか?)」
先生(孔子)は言われました。
「善いね。然し、貧乏であっても道を追うことを楽しみ、
富んでいても礼儀を好むというのには、及ばないでしょう」
子貢は言われました。
「詩経に在ります、
切るが如く磋るが如く、琢つが如く磨するが如く
とは、このことでしょうか」
先生は言われました。
「賜(し)よ、それでこそ共に詩の話ができる。
お前は往を告げて来を知る者だ」
(俺なりの解釈での)解説
私事ですが、最近どうも説教臭くなってイカンです。もっと謙虚になります。
子貢は先に述べました四科十哲の一人で、
「言語には宰我と子貢」
と言われております。
いちいちカッコイイ言い方しやがってコノヤローと思わす方で御座いまして、
孔子門下の中で俺が一番大好きなお弟子さんで御座います。
とても聡明な方で御座いまして、
この一節も頭の回転が非常に速かった事を示すエピソードで御座います。
「貧乏でもへつらわず、金持ちでも威張らない。どうっすか?」
と、子貢は孔子に尋ねるので御座います。
すると孔子は
「善いけど、まだ上があるね」
とお答えします。
切るが如く磋るが如く、琢つが如く磨するが如く(詩経、衛風淇奥篇)
切磋琢磨で御座いますね。
四つの字それぞれが「みがく」という意味で御座います。
「みがく」という字を四つも並べているので御座います。
もうこれでもかという程みがくという意味で御座います。
子貢は孔子との会話から、詩経の言葉を連想し、
「あ、アレっすね」
と言う訳で御座います。
それは正にその通りで、そう、アレよと、孔子は大いに喜びます。
学びて時にこれを習う。
また喜ばしからずやで御座います。
お前はちゃんと詩に通じているね、
私も詩経は大好きで何度も読んだから、お前と詩の話をするのが楽しいよ。
そんな孔子の喜びも窺える一節で御座います。
往を告げて来を知る者。
往来の「往」と「来」で御座います。
往を告げると来を知る、
直訳に近い形ですと、「前のことを話すと、まだしてない後の話まで分かる」という意味で御座います。
要は、「まだ話して聞かせてない先の事まで分かる」ということで御座います。
もし、子貢の方から切磋琢磨の話を持ち出さずに、
「なるほど、それだけでは十分ではないのですねえ。もっと善くなりようがあるのですねえ」
と、子貢が頷いていただけだとしたら、
孔子の方から、
「詩経にもあるでしょ、ほら、あの『切するが如く〜』ってやつ。あれのことだね」
と、話して聞かせていたかもしれません。
「詩経」そのものとは全く関係の無いと思われる「礼」や「道」といった、
君子の在りようを模索する会話から、
飛躍的に詩句を連想する子貢の頭の回転の速さに、孔子も驚かれたと思います。
それ以上に、
喜ばれたでしょうし、楽しく思われたと思います。
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