善いね

好きなオノマトペは、のたりのたりです

巻第一

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話しが上手な人は好まれるようで御座います。

聞くのが上手な人は頼られるようで御座います。

経験の有る方も多く居られると思います。

然し、話し上手と聞き上手の周りには、「役割」が存在するもので御座います。

話し上手の相手は決まって「聞き役」で御座います。

聞き上手の相手は決まって「話し役」で御座います。

話しが上手で、多くの人から好まれた経験の有る人、

聞くのが上手で、多くの人から頼られた経験の有る人、

それはとても素晴らしいことで御座いますが、

好まれたり頼られたりと褒められることで、

得意になってしまう人も居られるようで御座います。

俺の話はオモシロいから、俺は話す人で、お前は聞く人ね。

若しくは、

俺は頼りになるよ、聞いてやるから、話してみなさい。

あからさまにこういう態度の人、居るもので御座います。

俺と同じ天邪鬼の方は理解してくださると思うのですが、

こういうのは好かんです。

役割を押し付けられるのが好きくないです。

相手に

「俺が喋るからお前は聞け」

という態度が見られましたら、

「GIVE&TAKEを知らんのか。喋ったら喋った分だけ聞け」

と思います。

「聞いてやるから喋れ」

という態度が見られましたら、

「俺は喋りたい時に喋るし、相手も選ぶ。お前では無い」

と思います。

天邪鬼で御座います。

然し、

一方で、自然とそのお話しに耳が傾く人、自然と自分の話しを聞いてもらってしまう人、

居るもので御座います。

思いますに、

そういう方は「話し上手、聞き上手」と言いますよりも、

ご自分の言葉で相手の話を引き出す、「促し上手、答え上手」なのではないかなと。

その方のお話に聞き入ってしまいますし、

つい自分の事もベラベラと喋ってしまいます。

自分がベラベラと喋った事について相手が何か仰りますと、

また聞き入ってしまいます。

話しを聞くとポツポツと思う所が浮かんで来て、

またベラベラと喋ってしまいます。

話すのも聞くのも上手な方は、確かに居られます。

そこには「役割」は存在しません。

俺はそれが好きです。





学而第一


子禽問於子貢曰、夫子至於是邦也、
必聞其政、求是與、抑與之與、
子貢曰、夫子温良恭儉譲以得之、
夫子之求之也、其諸異乎人之求之與、

子禽、子貢に問いて曰く、夫子の是の邦に至るや、必ず其の政を聞く。之を求めたるか、そもそも之を与えたるか。子貢曰く、夫子は温良恭儉譲、以て之を得たり。夫子の之を求むるや、其れ諸(こ)れ人の之を求むるに異なるか。


子禽が子貢に尋ねて言われました。

「先生(孔子のこと)はどこの国に行かれても、必ずその国の政治について聞かれます。

これは先生の方から政治の話しを求めたのでしょうか、

それとも先方から先生にお尋ねして来るのでしょうか」

子貢は言われました。

「先生は温良恭儉譲(おんりょうきょうけんじょう)、自然とそうなるのでしょうね。

先生の方から政治の話しを求めたのだとしても、

他の人たちの様に『自分は政治に通じてますよ!有能ですよ!』という誇示とは違うでしょうね」





(俺なりの解釈での)解説

はい来ましたコレ!

孔子門下で一番大好きな子貢が登場であります。

後に触れますが、孔子がご自分のお弟子さんの中でも特に優秀だったと名を挙げている人が

十人居ります。

その十人の内、

四人は「徳行」に優れ、

二人は「言語」に秀で、

二人は「政治」に強く、

二人は「文学」に堪能であられたそうで御座います。

徳行・言語・政治・文学の四つに素晴らしかった十人のお弟子さんを、

「四科十哲」

と言います。

子貢はその一人で、「言語」に秀でていたと言われております。

子禽も孔子のお弟子さんの一人ですが、子貢の弟子だったのでは?とも言われております。

その子禽と子貢の遣り取りです。

「先生が赴けば、どの国でも、その国の政治の話になるのはナンデ?」

との子禽の問いに、子貢は

「夫子は温良恭儉譲(おん、りょう、きょう、けん、じょう)」

と答えます。

イチイチ仰々しい言い方をします。

こうやって、「お前、絶対意識してカッコイイ言い方してるだろ!」と思わす所が子貢には在ります。

それも大好き。

温 … おだやか

良 … すなお

恭 … うやうやしい

儉 … つつましい

譲 … へりくだる

という意味で御座います。

先生はそういう人だから、自然と向こうが意見を求めたいと思うのでしょうね。

と、子貢は仰っております。

会話はきっと弾んだでしょう。

母孝子

五月十四日は母の日で御座います。

孝行の大切さなど余り考えた事がありませんでした。

然し、ある程度年齢を重ねると、自然に思うもので御座います。

俺に出来ることって何かなあと。

母はとても寛容な人で御座いますので、

母が俺に何を望んでいるのかがイマイチ良く分かりません。

言われた事で思い出せるものといえば、

一度きりの人生、悔いの無いように。

ただ、それだけであります。

何かが欲しいと言えば贈りますし、

電話しろと言われれば電話します。

でも、母は俺にあーしなさいこーしなさいとは一切言いません。

だから真剣に頭を悩ませます。

俺は何をすべきなのだろう。

母の日だけで済ませられるような事では御座いませんので、

これから先も、ずっと考えて行きたいと存じます。

母の日は取敢えず電話しようかなと思います。




学而第一


曾子曰、愼終追遠、民徳歸厚矣 、

曾子曰く、終わりを愼(つつ)しみ遠きを追えば、民の徳、厚きに帰す


曾子(孔子のお弟子さん)が言われました。

「為政者が自分の親を手厚く葬り、先祖の霊を祭ることを大切にしていれば、

人々の徳も厚くなるでしょう」





(俺なりの解釈での)解説

終わりを愼(つつ)しみ遠きを追えば、

これを「終りを慎しみ、遠きを追う」とあり、と読む方も居られます。

そういう古語が在るそうで御座いまして、その引用だとする訳で御座います。

これだと、「老いた親の面倒を良く看て、遠いご先祖様への恩を忘れない」という訳になります。

どちらにしろ、

親に対する敬愛の念、

ご先祖様へのご恩、

その大切さを仰っているのだと思います。

もう一回全文を載せます。

曾子曰、愼終追遠、民徳歸厚矣 、

「民」という字が使われております。

人々を指して「民」と表記する文は大抵政治のお話で御座いますので、

俺は為政者の在り様を説いたものだと解釈しております。

現在の首相は靖国にはやたらと拘りを見せておりますねえ。

それが善いか悪いかは別として、

それだけを祭っていてはイカンのだと思われます。

そこばかり報道等で取り上げてもイカンのだと思います。

これは余談で御座いましたね。

「礼記」の祭統篇にこう記されているそうです。

「孝子(孝行者、で良いと思われます)が親に仕えるには三つの方法がある。

存命の内は養い、亡くなった時は喪に服し、喪が明けてからは時節毎に祭る」

「礼記」(らいき)は儒学者が纏めた礼に関する書物だそうに御座いまして、

現代で言う所の「冠婚葬祭マニュアル」では無く、

現存した礼を、関係する様々な言説を取り入れたりして注釈した、

謂わば「論文」のような物だそうで御座います。

礼記に載っているという事は、

当時の人々が実際にそのようにして親に仕えて「孝」を成していたという事で御座います。

現代では「養う」が一番善い形かどうか判断に悩む所で御座いますが、

これは、当時の人たちが、親のためにと思ってやった事が、後に形に成ったもので御座います。

養うがベストな形か否かを論ずるのは、あまり意味が無いように思います。

大切なのは、親のためを思うこと、そして親のためになる事を実行する事、なのではないでしょうか。

だから、何が親のためになるか、其処を一番大事に考えた方が善いのではないかなあと思いました。

曾子は「三省」でこんな事も仰っております。

人の為に謀りて忠ならざるか

(私心無く、本当にその人のことを思って考えることが出来たであろうか)

親のためにと言いながら結局は自分の利害も考えているようでは「孝」では無いと、

曾子は仰るでしょう。

う〜む、

学ぶ所が多いで御座いますが、

ムツカシイですねえ。

人の環境 己の在りよう

他人様に対して、

「なんで分かってくれないの?」

と思う場面は多々在ります。

でも、ちゃんと他人様に分かるように、

自分が思う所をきちんと言葉にできているか、

行動で体現できているか、

そうやって伝える姿勢を省みると、

あ、分かるわけ無えじゃん

と、自分に原因が在ったりもします。

相手が親しい人間であればある程、

人はその姿勢を怠るもので御座います。

甘えるもので御座います。

もしそうであれば、

相手は少しも悪くないと思われます。

もし伝える姿勢をきちんと示しているにも拘らず、

相手が自分の意思を理解しないのであれば、

伝え方に問題があるのだと思います。

きちんと順を追って説明したり、露骨に感情的になったりもせずに、まごころを以て伝えて、

それでも伝わらないならば、

その相手とのお付き合いは真剣に考えた方が善いと思います。

この人はこういう人だからと諦めて受け入れるか、

離れるか

で御座います。





学而第一


子曰、君子不重則不威、学則不固、
主忠信、無友不如己者、過則勿憚改、

子曰く、君子、重かざれば則ち威あらず、学べば則ち固ならず、忠信を主とし、己れに如かざる者を友とすること無かれ、過てば則ち改めるに憚ること勿(な)かれ

忠 … 内的良心

信 … 内的良心の発露としての嘘を吐かない徳

↑とも言われておりますが、大雑把な概念としてで御座います。参考までに。

忠と信とが何であるかは、ご自分の経験も踏まえて、論語の全体像から感じ取って頂きたいなと存じます。



先生(孔子)が言われました。

「君子であるには、言葉や行動に重みがないと、威厳もありません。

学べば(固定概念に捉われるような)堅物な所も無くなります。

忠と信とを先ず大事にし、

自分より劣る者を友にしてはなりません。

間違いを犯す所が自分に有るならば、理由を見つけて原因をなすり付けたりせずに、

今すぐにでも改めるよう努めなさい」




(俺なりの解釈での)解説

これまた他人様の言葉の引用で恐縮で御座いますが、

嘗てドイツの宰相であられたビスマルクは、

「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」

と仰ったそうです。

この発言の真意は、

「自分以外の誰かの経験を糧に出来る者は、賢く、立派だ」

「自分の経験だけが絶対とすると危うい」

というコトだと思います。

世界史や日本史などの歴史そのものを指すというよりも、他人様の経験から学ぶ事は多いですよ、

という警告だと思われます。

自身の経験から学ぶのは当たり前の事ですので、それを悪く言っているのでは無いで御座いますね。

それだけじゃ危ういよと仰られているのだと思います。

重かざれば則ち威あらず

「威」は「威厳」と訳されるのが通常で御座いまして、俺もそう訳しましたが、

今、改めて考えてみると、

やたら偉そうにしている人にも威厳は御座います。

それを考慮すると、威厳が有るか否かはそんな大した問題じゃ無いなあとも思いました。

孔子がもし「軽率」の意として「重かざれば」と仰ったのであれば、

何を言っても言葉に信憑性が無かったり、口先だけの人だと思われますよ

という警句になりますねえ。

その場合だと、威は「威厳」では無く「威力」で御座いますね。

どちらにしろ学ぶ所が多いので、俺は双方の解釈を己を磨く言葉と致します。

学べば則ち固ならず、忠信を主とし、

固は「頑固」や「意固地」とも解釈されますが、要は偏見や固定概念を言うのだと思います。

色んなことを見たり聞いたりして視野が広がれば、それは無くなるもので御座います。

己れに如かざる者を友とすること無かれ

↑これが今回一番の、取り扱い注意、の言葉で御座います。

先ず、能力のことを言っているのではありませんね。

そう解釈されるのが一番恐いことで御座います。

能力と解してしまうと、その評価の顕現でもある「お金」にも結び付きますし、

もうカタストロフ満載で御座います。

世の中には悪い人も沢山居るもので御座います。

人を騙す人、

人を利用する人、

人の者を盗もうとする人、

人を傷つける人、

それらが悪い行いであることを知らない人、

自分は悪い人ではないと信じて改めようとしない人、

こういう人も、実際に居るもので御座います。

人の環境が与える影響は大で、どんな人との繋がりを大事にするかで、人生は大きく左右されるもので御
座います。

孔子が仰りたかったのは、その大切さだと思います。

ここで言う「己より如かざる者」は、

「自分が絶対やってはいけないと思って戒めていることをやっている者」

と解釈するのが一番だと俺は思います。

そういう人間を友にしちゃいけない。

これまで述べてきたもの、それら諸々を踏まえて、

過てば則ち改めるに憚ること勿(な)かれ

で御座います。

「僕は学が無いから、せめて本ぐらいは読んでおこうと思ってね」

戦後、裸一貫で事業を立ち上げた方の多くは、先のような事を仰っているようです。

義務教育より後の学校教育を受けていない方の言葉にも、豊かな教養が窺える場面は多々御座います。

また、俺の田舎奄美大島のお年寄りにも、素敵な人柄、豊かな人間性を感じさせてくれる方は、

確かに居られます。

きっと、あなたの知っている方にも。

年配の方に限らず、

高等教育の類を受けていなくても、立派だなあと思わす若者は、確かに居ます。

教養とは何でしょう。

立派とは何を指して言うことでしょう。

学ぶとは、一体どういうことなのでしょう?




学而第一


子夏曰、賢賢易色、事父母能竭其力、
事君能致其身、與朋友交、言而有信、
雖曰未学、吾必謂之学矣、

子夏曰く、賢を賢として色に易(か)え、父母に事(つか)えて能くその身を竭(つく)し、君に事えて能く其の身を致し、朋友と交わるに言いて信有らば、未だ学ばずと曰うと雖も、吾は必ずこれを学びたりと謂わん


子夏(孔子のお弟子さん)が言われました。

「賢人を賢人として、まるで恋をしたように慕い、

父母によくその身を尽くし、

主君に仕えてはよくその一身を捧げて、

友との会話には誠実さが窺える。

そんな人が、自分は学が無いと言った所で、

私は必ず学問を修めた人物であると評価するでしょう」





(俺なりの解釈での)解説

子夏は孔子のお弟子さんで、孔子より四十四歳も若かったそうです。

とても学者肌な人物だったと伝えられております。

最初の一節、賢賢易色、これは厄介な事に色んな訳され方をされております。

中でも有力とされているのが、「賢を賢として色に易(か)え」(賢人を賢人として美人に恋するよう

に慕い、)で御座いますし、俺もそう解釈しております。

「色を易え」と読んで、賢人の前では顔色を正す、賢人と対面すると緊張で顔色が変わる、などと訳され

たりもします。

他にも、「易」は「如」と同じで、賢に対して色恋の如く取り組むことを言うとする説も御座います。

また、易を「とかげ」と読んで、賢賢たるかな易(とかげ)の色や(トカゲの色は賢々として周囲に応じ

て変るもの)という古語を引用したのだという説も有るそうです。

この場合だと、状況に応じて己を磨く、活かす、伸ばす人を言うのでしょう。

NYヤンキースの松井秀樹。

彼は日本ではホームランを量産する長距離バッターで御座いましたが、渡米後は中距離バッターの様を呈

しております。

彼が頻(しき)りに口にしていた言葉が、「Adjusut(調整)」で御座います。

これなど正しく「賢賢たるかな易(とかげ)の色や」で御座います。

「父母に事えて能くその身を竭し」以下の文は読んだ通りで御座います。

孝行者で、目上の方の言う事をよく聞く人、友達に誠実な人、

こういう人が、「自分は学が無い」と言っても、

いや、あなたには有るよ

と、子夏は仰るのでしょう。

雖曰未学(未だ学ばずと曰うと雖も)、これは、

「誰かが、『あの人はまだ学問をしていないよ』と言っても、」

と解釈されるのが通常で御座います。

主語が無いので何とも言えないのですが、多くの研究なされている方が共通してそう解釈なされてらっし

ゃるので、これが一番有力なのでしょう。

思いますに、政治の世界では妬みや嫉みが付き纏うもので御座いますので、誰かが誰かの誹謗中傷を流す

ことも珍しく無いのでしょう。

そういう場に在っては、「誰かが『あの人は学が無いよ』と言っても、私は学問を修めた方だと評価する

だろう」という解釈がごもっともと存じます。

然し、市井に在っては、そんな善い人のことを誰かが「あいつは学が無い」などと悪く言うことは稀だと

思います。そういった善い人物は往々として謙虚なことを仰るもので御座いますから、寧ろご自分で

「自分は学が無いから」

と仰ることが多いと存じます。

市井に身を置く俺はそちらで解釈しております。

書物の前に在るもの

殆ど全てのアジア人から愛されているであろう、ジャッキー・チェン。

彼は文盲(字が読めない)だそうに御座います。

だからどうだと言うのでしょう。

彼のスター性及び、

温厚でユニークな人柄には、

全く傷は付きません。




学而第一


子曰、弟子入則孝、出則悌、
謹而信、汎愛衆而親仁、行有餘力、
則以学文

子曰く、弟子(ていし)、入りては則ち孝、出でては則ち悌、謹みて信あり、汎(ひろ)く衆を愛して仁に親しみ、行いて余力有れば、則ち以て文を学ぶ

弟子 … 年少者、若者

文 … 書かれたものを指す。即ち古典。ここでは「詩経」や「書経」を指す。


先生(孔子)が言われました。

「若い人たちよ。家では親に孝行しなさい。外では目上の人によく習いなさい。慎み深く、誠実に。

誰に対しても思いやりを持ち、仁に親しみなさい。それらを行えて尚余裕が有れば、その時に書物を学び

なさい」




(俺なりの解釈での)解説

入りては則ち孝、出でては則ち悌、

孝は孝行、悌は年長者によく従うことを言います。

悌の字から「目上の人を立てなさい」と解釈される場合も御座いますが、孔子は不仁を憎むことも仰って

ますので、上司や年長者であれば誰でも、という意味では決してないと思われます。

然し、どんな場でも上司や先輩、ご教示なさってくださる立場に居られる方を立てるのは大事で御座いま

すね。おべっかを使って気に入られようとするのではなく、自分は一歩引いて、先人の話をよく聞くこと

を仰っているのだと思います。

謹みて信有り、汎(ひろ)く衆を愛して仁に親しみ、

この「仁に親しみ」は、「仁の人とのお付き合いを大事に」と解釈されるのが通常で御座いますが、

そうなのかなあと疑問を抱かされます。

仁者、仁徳の立派な方は、確かに居られます。

その方々との繋がりを大切にしたいのは勿論で御座います。

然し、その直前に「汎(ひろ)く衆を愛して」と仰っているのに、

いきなり人に依って付き合いを選り好みさせるようなこと言うのは違和感を憶えます。

俺は「汎(ひろ)く衆を愛して仁に親しみ」を、

「どんな人との間にも、会話などの遣り取りの中に『仁』を見出す事は出来ますので、それを敏感に

感じて、『仁』を身近に置きなさい」

と解釈しております。

じゃあ「仁」って何よ?という話になりますが、

これはまた意味が広範囲に渡る、ぼんやりした概念になりますので、

大雑把に「善いこと」と思っておけば良いのではないかなあと思います。

どんな事が「善いこと」なのか、それは論語のみならず、いろんな経験、いろんなお話、いろんな書物、

それらの全体像から見えてくるものだと思いますので、この一節だけで「仁」を語るのは不可能と思われ

ます。

行いて余力有れば、則ち以て文を学ぶ

↑これ、大好きな一節で御座います。

昔から「知をひけらかすのは愚なり」と申しまして、勉強のための勉強を行っていれば、

出来上がるのはエーカッコしいで小賢しい坊やで御座います。

「いるのよねえ、お勉強だけできるバカって」

って、最近見た名作アニメの新説版でも仰っておりました。

余談では御座いますが、

ガルマは何故死んだのかというと、

坊やだからだそうで御座います。

や、とんだ蛇足で御座いました。

身近に居てくれる大切な人たち。

その人たちに、自分が何かしらしてあげられるように、

そのために勉強するので御座います。

本を読んで問題を解くだけが勉強では御座いませんね♪

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