善いね

好きなオノマトペは、のたりのたりです

巻第二

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諫言の難

人様を諌めるというのは、

とてもとても難しい事で御座います。

怒るのは簡単で御座います。

また、

注意するのも簡単で御座います。

上の二つの効果を、

全て相手に委ねてしまい、

自分はこんな気持ちで怒った、

よかれと思って注意した、

それをどう受け取るかは相手次第だ、

そうやって「丸投げ」してしまうのは、

簡単で御座いますし、

楽で御座います。



怒るというのは泣くと同じで発散を伴いますので、

言うなればリセットで御座います。

怒った方は、

胸にシコリが残れど残らざれど、

少なからずスッキリするものと思われます。

然も自分は相手の為を思って怒ったと、

自らを常に善に「置いているつもり」になってしまい易くて御座います。


注意するというのは常に「偉そうになる」危険を伴います。

よかれと思った結果傲慢に振舞う人を多く見掛けます。

やたら上から物を言うような態度に陥ります。

そうやって誰かを注意する事で悦に入る人間は、

事実間違い無く居ります。

それも少なくなく。


なので、問題は怒るとか注意するとかの「その場」の話ではなく「その後」の話なので御座いますね。

怒った結果、

注意した結果、

相手に善い方向への変化が観られたら、

其処で初めて自分の行いが間違いではなかったという判断を下せるのだと思います。

その善い方向への変化が観られるまではずっと、

自分の行いに疑問符を突き付けるべきであると存じます。

誰かを、自分の発散の道具として使ってしまったのではないか。

自分が悦に入るためだけの行為であったのではないか。

その「恐れ」を、

ずっと持ち続けるべきであると考えます。

要は、

人を諌める、ってのは、

すごく難しいという事で御座います。






里仁第四

二十六.

子游曰、事君數、斯辱矣、朋友數、斯疏矣、


子游曰く、君に事(つか)うるに數(しばしば)すれば、斯(ここ)に辱しめられ、朋友に數(しばしば)すれば、斯(ここ)に疏(うと)んぜらる。



子游(孔子のお弟子さん)が言いました。

「主君にお仕えしてあれこれ言うと辱めを受け、

 友人と付き合うにあれこれ言うと疎遠にされてしまうものです」





(俺なりの解釈での)解説

子游は孔子のお弟子さんの中でも若い人の集団に分類される方で御座います。

四科十哲の一人で、

「文学には子游と子夏」

と言われて居ります(by孔子)。

この方は有名な故事(と言うかもう諺で御座いますね)、

「割鶏焉用牛刀」

(鶏を割くにいずくんぞ牛刀を用いん)

と、

正に孔子から言われた人、

で御座います。

なんかですね、

なんでも、この子游というお弟子さんが治めている町を孔子が訪れたそうに御座いまして、

その時、町中から楽の音が聞こえてきたそうに御座います。

当時の楽(音楽)には品性を整えるものとの位置付けがなされておりまして、

櫃等の楽器を用いた楽というのは、

今で言えば高等教育の類になるんでしょうかねえ、

小さな町や田舎ではなかなか聞かれない、

やもすれば不釣合いとも取れるようなものであったみたいで御座います。

そんで、

小さな町なのに国政をとるのと同じ様に楽が盛んにされているのを知った孔子はニッコリ笑いまして、

「鶏を割くにいずくんぞ牛刀を用いん」

と、

仰ったそうに御座います。

これを聞いた子游は「なんですと!?」と反感を抱きまして、


「いやいや、先生前に言うてはりましたやん。

 『君子が道を求めて学問に励めば仁に目覚め、

  小人が道を求めて学問に励めば上に従順になる』

 って。

 自分、まだまだ小っちゃいんで、上がやるのと同じ様にやってるんすよ」


といった趣旨の事を仰います。

この子游の反論を聞いて孔子は、

「偃(えん:子游の名)の言う通りだ」

と、謝罪とも取れる発言をなされます。

どんどん本題から逸れて行っているので御座いますが善い機会ですので、

このまま気持ちよく本題から逸れて行こうかと思います。

先の孔子の発言、「鶏を割くに〜」で御座いますが、

これは確かに、

子游からしたら小馬鹿にされていると受け取られても仕方の無いような発言で御座います。

もし、

「なんでニワトリを割くのに牛刀を用いるかねえ。

 これ日本では大根を正宗で切るって言うんだって。ププー!」

という言い方をされたのであれば、

これは子游どころか全然関係の無い俺までもがカチンと来る発言になってしまいますが、

勿論疑問が浮かぶ訳で御座いますね。

孔子はこんなコト言う人かなあ、と。

「鶏を割くに〜」はもう一つの解釈が御座いまして、

鶏は小さな町を指し、

牛刀は子游を意味すると、

こういうもので御座います。

これだと、

「こんな小さな町を治めるのには勿体無いかもなあ。子游ほどの人物は」

という孔子のひとり言になります。

例え小さな町であれ楽を浸透させている子游のその志の高さを評価したお言葉である、

という解釈も御座います。

俺はこっちであることを望みますが、

実際分かんないですけどねえ。

孔子も人の子でらっしゃいますからつい茶化してしまわれたのかも分からないです。

少なくとも子游は茶化されたと感じたようで御座います。


はい、

長々と本題から逸れましたけれども、

ここらからきちんと解説に参ります。


君に事(つか)うるに數(しばしば)すれば、斯(ここ)に辱しめられ、

朋友に數(しばしば)すれば、斯(ここ)に疏(うと)んぜらる。


事、これは前述致しておるかと思いますが「事(つか)える」と読みまして、

主に仕事に従事する様を表すのに用いられます。

この場合は対象が主君で御座いますから「仕える」の意で解釈なさって善いかと思われます。

數(しばしば)はよく「うるさく言う」とか「しつこく言う」等と訳されます。

「しばしば」と同じ音が並びますのでニュアンス的に「あれこれ言う」という訳が好みで御座います。

や、これは蛇足気味で御座いました。

諌める事、良かれと思って意見する事、助言する事、

それらの難しさを仰ったお言葉で御座います。

要は、

あれこれ言うと鬱陶しがられる、というコトで御座います。

先ず押さえておかなければならない点は、

これは孔子のお言葉ではなく子游のお言葉であるという点で御座います。

子游には「俺、きちんとやってますぜ」という自覚のようなものがちらほらと窺えるように思いますので、

(上の「鶏を割くに〜」の話ですぐに反論する辺りもですね)

多分この方も理屈屋さんなのだと思っております。

正論を言って嫌われる経験を(結構多く)なさってらっしゃるのだと思われます。

本人は、

どう考えても俺の言ってるコトの方が理に適ってるのになあ

と思いながら、

主君や朋友から鬱陶しがられた経験をお持ちなのではないかと推測致しております。

孔子だったらもうちょっと上手にやられると思われます。

でも矢張り人様を諌めるというのはとてもとてもムツカシイことで御座いますね。

最低限、

発散や、傲慢に陥らないように、

そう在れたらなあと思います。

(それも含めて、今尚、論語から学んでおります)

「正しい」の意味と言いますか、

その具体的な内容みたいなものを、

未だに見出せなくて御座います。

理由は、

いろんな人が、いろんな「正しい」を掲げて、諍いを起こすからに御座います。

俺には理解出来ない、なんでそう考えるの?と首を傾げずにはおられないような「正しい」を、

全く疑う余地を持たずに信じる人が実際に多く居られるからに御座います。

正しいって幾つも在るものなのか。

時と場合に因って局所的に変化するものではあっても、

その時、その場、その瞬間に存在する「正しい」が幾つも在るのは語義としておかしいのでは。

そうでもないの?

じゃあ「正しい」って何?

と、

未だに分からなくて御座います。

なので、

願わくばこういうもので在って欲しいなあと祈るので御座います。

正しいとは、

その根底に優しさや労わりの在るものである、と。

そうでない、

俺には間違ったものとしか見えない「正しい」が世に多く御座いますので、

思いやりや、優しさや、慈しみから生まれる「正しい」は、

多くの人から、甘いとか、ぬるいとか、理想論だとか、くだらないとか、

否定され、見下され、軽んじられる事の方が多いかと存じます。

自分が、自分が、と、

利己的な考えを持つ人ばかりが集まった中に、

一人だけ「みんなのコト」を考える事が出来る人居りますと、

その人は「正しくない」扱いをされ、

ポツンと孤立してしまうかと存じます。

然しそれは狭い世界の中のお話で御座います。

広く世界を見ますと、

思いやりや、優しさや、慈しみから生まれる「正しい」も、

まだ世界には確かに残っているようで御座います。








里仁第四

二十五.

子曰、徳不孤、必有鄰、


子曰く徳は孤ならず。必ずや鄰有り。



先生(孔子)は言われました。

「徳は孤立しない。きっと親しい仲間ができる」








(俺なりの解釈での)解説

論語の中でも有名なお言葉の中の一つで御座います。

俺個人も好きな言葉の一つで御座います。

訳については特に注記する事も無いかと存じます。

徳は孤ならず。必ずや隣有り。

やあ、綺麗な言葉で御座いますなあ。

でも時に理想論と言いますか、慰めの言葉に聞こえてしまう時も御座いますね。

「徳は孤ならず」の「徳」で御座いますけれども、

これをどれくらいの人が分かっているか、と言いますか、

きちんと意識しているか、と言いますか、

「なんとなく分かっている気になっている」だけでなく、

その意味としっかりと向き合えている方は決して多くはないように見受けられます。

「徳」の解説に「人徳」或いは「道徳」と書いているとそれだけで、

ああ、そういうコトね。と、

なんとなく分かった気になってしまう方が寧ろ「普通」だと思われます。

それぐらい「徳」とは我々の中に当たり前に存在すると「思い込まれているもの」であると考えます。

そんな都合よく徳が存在するのならこんな神経質な世の中にはナランですよ。

実際は多くの場面で人は他人に「譲ろう」とはしないです。

人は他人を「許そう」とはしないです。

寧ろ主張するばっかりです。他人を責めるばっかりです。

そんな中で都合よく「徳」が存在すると言うのであれば、

それこそ「徳って何?」という話になってしまいます。

一応辞書を引きますと、

立派な行いや品性、優れた人格

などと書かれております。

抽象的と言いますか、大雑把でさあね。

矢張りもっと分かりやすい「手本」のようなものを示す必要が在るかと存じます。

それは探せば幾らでも見付かるかと存じます。

歴史を振り返るのもその善い手段で御座いますが、

それよりももっと、

身近な人の中にもきっと見付かるんじゃないかと存じます。

やるコト成すコト全部に徳が見られるような神様みたいな人は存在し難いかと思われますが、

どんな人であれ、必ず何かしら「徳」が観られる部分というのは、

確かに在るように思います。

だからそれに気付いて、それを手本とするのが、

徳を理解する一番の近道かと存じます。

でも、我々は、

自分が、自分が、で、

自発的に他人様をきちんと観ようとは中々しないものに御座いますから、

矢張り教育の過程や政治的な取り組みとして、

分かりやすい「手本」を示す必要が在るかと存じます。

徳とは何か。

それは「尊敬」という言葉と非常に密接の「はず」で御座いますし、

また、

決して孤立しないもののようで御座います。

言と行

有言実行と不言実行、

どちらがよりムツカシイかと言えば、

それは遥かに有言実行の方がムツカシイかと存じます。

反則技も有るかと存じますけどもね。

例えば、「俺は今からメシを食います!」と言って、

メシを食いました。

やあ。有言実行。

などとも可能で御座いますが、

それはなんか意味あるの?と問われたら、

「無いと思います」としか答えられないかと思われます。

人は自分を大きく見せたがるものに御座います。

善く見せたがるものに御座います。

なので、

言葉にしてしまうと、

実際は出来ていないコトも、さも当たり前のように出来ているかの如く、

喋ってしまいやすいのが人で御座います。

当然、言ったコトに実践が追いつくというのはとても難しい事となりやすいので御座いますね。

にも拘らず、

出来ていないけど出来ているかのように「言う」、

そうやって周りにアピールして「信じさせようとする」、

そして自分は出来ていると「思い込む」、

これは人の成長の大変な妨げと成ります。

出来る事からやって行こうと思えば、

言うコトも自然と抑えられてくるかと存じます。

俺は出来てるのかなあ。

そう考えると恐くなるね。








里仁第四

二十四.

子曰、君子欲訥於言、而敏於行、


子曰く、君子は言に訥(とつ)にして、行に敏ならんと欲す。



先生(孔子)が言われました。

「君子は口は重くして実践には敏捷に在ろうと願うものです」









(俺なりの解釈での)解説

訥(とつ)は朴訥(ぼくとつ)の訥です。

訥の字にはニョモニョと口ごもったりつっかえながら喋ったりする様を表す意味が在るそうに御座いますが、

此処では飾り気が無く口数が少ない事を言うようで御座います。

おそらくですねえ、

単純に口数が少ないという意味では無いかと思われます。

口数の少ない人と一緒に居ると時にすごく気を遣いますものね。

孔子自身決して寡黙な人物であった訳ではなく寧ろ会話を好んでらっしゃったように見受けられますので、

「君子はあんまり喋らない」

という意味では無いかと存じます。

つまり、

上で述べました、

出来ていないけど出来ているかのように「言う」、

そうやって周りにアピールして「信じさせようとする」、

そして自分は出来ていると「思い込む」、

これと真逆に在るのが君子であると仰ってらっしゃるのではないかと思われます。

それよりも、自分がこう在りたいと望む姿に少しでも近付けるよう、

理想の自分と実際の自分の言行がなるべく重なるように、

実践する。

それについてはすごく敏捷ですよ、という事を仰っているかと存じます。

なんかイチローを思い出した。

この「君子欲訥於言、而敏於行」によく似たお言葉が学而第一の十四に見られます。


「君子は食飽かんことを求むること無く、

 居安からんことを求むること無し。

 事に敏して言に慎み、

 有道に就きて正す。

 学を好むと謂うべきのみ」


事に敏して言に慎む。

言に訥にして行に敏ならんと欲す。

殆ど全くと言っていい程同じ事を仰ってらっしゃるかと存じます。

言うは易し、行うは難しで御座いますね。

言うから余計に難しくなる、

言うから余計に遠くなる、

そういうコトは確かに在るかと存じますので、

先ずは有言・不言は置いといて、

実行に重きを置きたい所で御座います。

つつましさの意味

自らの主張で周りを無理矢理納得させるのと、

自他共に納得のいく答えを模索するのと。

こうやって文字に致しますと後者の方が明らかに望ましいように思えますが、

実生活に於いては前者の方が多くの利益を齎してくれるように見受けられてしまいます。

利に放(よ)りて行えば怨み多しとは申しますが、

買う怨みよりも得る利益の方が、

人生をより善い方向へ導くと多くの人が思っているのかもしれませんね。

そしてそれは少なからず事実のように思います。

周りの多くの怨みを買っても、

人の上に立つ役職に就き、

自らは幸せそうに、充実してそうに過ごしている人というのは、

実際に見掛けます。それも決して少なくなく。

ならばそれで善いのではないかと、

我々の目指すべきものは「利」で、その手段となる「主張」は貴いものではないかと、

そういう考えも頭を過ぎるかと存じます。

然し、

怨みや妬みってのは恐いもので御座いますねえ。

時には「利」を全く無視してでも、

人は成功者の大切なものを、奪い、貶めようとするもので御座います。

そして、

より問題となるのはこっちの方だと思いますけれども、

周りの人もまた、

他人の怨みを買ってでも「利」を得ようと、

あなたやあなたの大切な人を傷付けるかも分かりません。








里仁第四

二十三.

子曰、以約失之者鮮矣、


子曰く、約を以って之を失する者は鮮(すく)なし。



先生(孔子)が言われました。

「つつましくしていて失敗する人は少ないでしょう」






(俺なりの解釈での)解説

やあ、これは相当悩む所で御座います。

以約失之者鮮矣。

「約」は倹約の約で「つつましく」という訳で善いかと思われます。

問題は「失」で御座います。

多くの訳に見られる所謂多数派はこれを「失する」と読んで「失敗」と訳すもので御座いまして、

上はそれで訳しております。

つつましくしていて失敗する者は少ない。

そういう内容になります。

一方で、「失う」と読むものも御座います。

これだと、

つつましくしていて之を失う者は少ない。

と、なります。

前者の方がスッキリしていて分かりやすいし、成程なあという説得力も御座います。

対して後者は「之を失う」の「之(これ)」って何?という疑問が生じて難解になってしまいます。

孔子の仰る事は基本的に分かりやすい(人に教えるための言葉なので当然と言えば当然ですが)ので、

これは前者でいいんじゃないのおとも思われますが、

そうなのかなあと、

喉に引っ掛かった小骨のような、無視出来ない違和感が取り除けなくて御座います。

と、言いますのも、

冒頭に挙げました「主張」と「模索」で御座いますけれども、

より「利」を齎すのは「主張」の方だと申し上げました。

因みに「失敗」の反対語は何かと問われたらそれは「成功」で御座いますね。

約を以って之を「失する」者は鮮(すく)なしと致しまして、

つつましくしていて失敗をする人は少ないですよ、と致しますと、

よくよく考えると「そうか?」と思うので御座います。

古典を読んでいて思うのは、人は昔も今も変わんねえんだなあというコトで御座いますので、

孔子の時代も今と変わらず、

主張する者が成功し、

つつましくする者が軽んじられていたのではないかと考えます。

失敗または成功を考えると、

孔子は市井に身を置く、すごく生活感の有る方であったようですので、

現代にも観られる、

周りの事を考え自分は一歩引く人が下に見られ、

我が我がと主張する者が上に取り上げられる、

そういった歪んだ有態もまざまざと見せ付けられたのではないかと思われます。

そうなると、

つつましくしていて失敗する人は少ない、ってのは、

ウソになる訳ですよ。

理想論に成る訳ですよ。

これは当然ピンと来なくて御座いまして、

こんな、「そうだったらいいなあ」というようなコトを言う人かなと、

疑問が残るので御座います。

ただ、それは失敗或いは成功が、「何に対してか」でまた変わってくるので御座いますけれども。

これが結婚生活や家庭のお話であれば、

つつましくしていて失敗する者は少ない、

それで善いかと思われます。

しかも当時は農民が多くて御座いますからねえ、

職場の人間関係やら出世のしがらみやらといったものよりも「家」に眼を向けた発言の方が、

寧ろ多くなさってらっしゃったのではないかと考えると、

矢張り「失」は「失する」と読んで失敗の訳でいいのかなあとも思えます。

でも孔子は委吏という穀物藏を管理する職や、司職吏(乗田)という牛馬を飼育する役、

つまり村役人として「職場」というものに身を置いていた経緯が御座いますから、

その醜い面というのも当然観てらっしゃるのではないかと考えます。

そして孔子に質問し孔子から教えを賜った者の殆どは矢張り「門人」で御座います。

門人から多く仕官する者を輩出した事を思えば、

上の発言も「家」を向いたものではなく「職」を向いたものなんじゃねえかと思われるので御座いますよ。

そう、

問題は「誰に言ったか」で御座います。

対機説法とも言われますように、孔子はお相手に合わせた言葉でお話をされます。

同じ質問でも誰がそれを口にしたかで全く逆の答えを返されたりも致します。

なので、

上のお言葉、

「以約失之者鮮矣」

を、

誰に言ったかで訳は変わってくるかと存じます。

礼楽について我々のような一般レベルの知識の持ち主が相手であれば、

それは「分かりやすいお言葉」と見て善いでしょう。

「つつましくしていて失敗する者は少ない」

で善いかと思われます。

対して、

例えば子貢のような頭の回転の速い者(往を告げて来を知る者と言われてましたねえ)が相手であれば、

寧ろ逆に難解な方で捉えて善いかと存じます。

「つつましくしていて之を失う者は少ない」

の訳になるかと存じます。

そして、「之(これ)」って何だよ!という疑問を抱える事になるかと存じます。

俺は後者の訳の方を好みます。

そして「之」の部分には「大切なもの、いろいろ」という言葉を入れます。

本当に大切なものは何かと真剣に考えて余計なものを削ぎ落として行くと、

その答えは至ってシンプルなものになるような気が致します。

いろいろ在るけど、数はそんなに多くないような気が致します。

つつましくしていると、

その大切なもの、幾つかを、

失わなくて済むような気が致します。

言わない理由

自分の事を話すというのは基本的に気持ちのいいコトで御座います。

人はその状態に「酔いやすい」という事を、

大人である我々は知っておかなければならないと思います。

目の前の人、周りの人全てに「聞き役」を押し付けて、

気が付いたら自分だけがベラベラと喋っていました、という経験は、

多くの方が既になさってらっしゃるかと存じます。

話し終えた後直に、聞いていた人から何かしらの応えが有れば、

それはきちんと聞いていてくれたと判断して善いと思われます。

自分が話し終えた後、シーンとしてしまったら、

それは自分の話しに「酔っていた」と判断して善いかと思われます。

聞き流されてしまっている訳で御座いますね。

自分の話しに酔う人に共通して観られる傾向は、

自慢と説教で御座います。

口ではキレイゴトを言い、

さも自分は理想的な人格の持ち主であると言わんばかりの態度で、

人に教えを説くような口振りを致します。

昔の人はそういうのを「恥」と考えておりました。

それは今でもそうだと思います。








里仁第四

二十二.

子曰、古者、言之不出、恥躬之不逮也、


子曰く、古者、言をこれ出(い)ださざるは、躬(み)の逮(およ)ばざるを恥じてなり。



先生(孔子)が仰いました。

「昔の人が言葉を慎ましくしたのは、実践がそれに及ばないのを恥となされていたからです」







(俺なりの解釈での)解説

これはですね、

前半部分、「古者、言之不出、」が、残っている本に依っては、

「古之者言之不妄出也」

になっていたり、

「古者言之不出也」

になっていたりするそうに御座いまして、

それで読みも変わってきたり致しますが、

言いたいコトは同じで御座います。

昔の人は軽々しく言葉を口にしませんでしたよ、と。

それは口で言っているコトにやっているコトが追いつかないのは恥だと考えたからですよ、と。

そういう内容で御座います。

恥というのは自分の身の内に置くのはナカナカ難しいコトで御座いますので、

多くの場合は人様から与えられるものであるかと存じます。

お前、言ってるコトとやってるコトが違うじゃねえかと、

口ではキレイゴトを言うくせに、やってるコトは”自分がよければいい”ってだけのコトじゃねえかと、

人様の顰蹙を買って、其処で初めてハッとする事が出来るのではないかと存じます。

其処でハッとするかハッとしないかが分かれ目かと存じます。

いやあ、恥ずかしいコトを言ったりやったりしてもうた。

そうやって恥を憶える事が出来れば、恥を身の内に置く事が出来れば、

その人はどんどん善い方向へと進まれるかと存じます。

何かと自己弁護し、そんなコト言われた自分は可哀想だと、そんなコト言うあいつは酷いヤツだと、

そうやって自分を庇い、擁護するようであれば、

その人はこれからも周りの顰蹙を買う恥ずかしい人のままであるかと存じます。

ほんでね、

偉そうにつらつらと文字を並べておりますけれども、

俺、この傾向すごく強いんで御座いますよ。

自分の話しに酔い易くて御座います。

んで、恥ずかしい思いを沢山しております。

気が付いたら自分のコトばかりをベラベラと喋っていて、

しかも、お相手からしたらきっと俺の言行は不一致なので御座いましょう、

聞き手の反応が薄いのにハッとする事が未だに御座います。

あ、

またやった。

と、

思います。

これももう一生を掛けて直して行こうと思いますので、

どうか、

一緒に善くなって参りましょうね。

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