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他人様に迷惑を掛けなければ何をやってもよいとか、
法に触れさへせねば何をしてもよいとか。
そういった「何でもアリ」の発想は、善い面も悪い面も御座います。
然しそれが行き過ぎると、出て来るのは悪いものばかりで御座います。
ばれなきゃいいとか、
咎められなければいいとか。
若しくは、
もう、どうでもいい
とか。
例え人様のやる事であれ、
絶対に許せない事って在った方が善いように思われます。
八佾第三
一
孔子謂季氏、八佾舞於庭、是可忍也、孰不可忍也、
孔子、季氏を謂(のたま)わく、八佾(はちいつ)、庭に舞わす、是れをも忍ぶ可(べ)くんば、孰(いず)れをか忍ぶ可からざらん。
季氏 … 魯の家老、季孫氏のこと。「三桓」の一人。
八佾 … 佾(いつ)は列の意味。天子のみが八隊列編成の舞を舞わすことが出来た。
孔先生が季氏をこう言われました。
「八佾をその廟(おたまや)の庭で舞わせている。
これをも我慢出来るのなら、
どんな事でも我慢出来よう」
(俺なりの解釈での)解説
八佾(はちいつ)とは八列、の意で御座います。
佾の字は人偏に八、月と書きます(イ+八+月)。
月は肉月とも言いますように体を示すであろうと言われております。
ですから、佾と書いて、八人一列を示すのであろうという意見が御座いまして、
俺はそれに賛成であります。
もう一つ、二乗則という考えも御座います。
八佾は8×8、
六佾は6×6、
といった具合で御座います。
どちらにしろ、八佾とは8×8=64人による舞い、と言われております。
礼の定めでは、
儀式の際に舞わす舞は、
天子は八佾、
諸侯は六佾、
卿大夫は四佾、
士は二佾、
と決められております。
にも拘らず、
例の三桓の一人、季孫氏は、
我が家の先祖を祭る廟の前で、天子にしか許されていない舞を舞わせたので御座います。
自分を天子と同等、またはそれ以上と位置付けての、
何でもアリの暴挙で御座います。
孔子はこれが我慢ならんと、大いに怒ってらっしゃいます。
今一つ、
「季孫氏はこんな事をしても平気なくらいだから、何をしても平気なのだろう」
と解釈される物も御座います。
俺は先の訳の方が好きです。
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