善いね

好きなオノマトペは、のたりのたりです

巻第二

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一つのこと

いろんな所に、いろんな形で、無数の「何故?」が存在致しますが、

その答えは、

突き詰めて行くと意外と少ないように思います。

自分の言ったコト、

自分の採った行動、

その一つひとつに「何故?」を問い掛けますと、

幾多の場面に応じた、無数の答えが存在すると思います。

その無数の答え一つひとつにもまた「何故?」の問い掛けを致しますと、

幾つかの答えで等しいものが見付かるように思います。

問い掛けて、答えて、更に問い掛けて、更に答えて。

このサイクルを繰り返して行くと、

複雑に思える人々の思考、判断も、

びっくりする位単純な答えに辿り着くように思います。

これを内向的だとか考えすぎだとかと言って一蹴するのは簡単ですが、

思考の余計な枝道を省き、変な迷路に迷わぬようにするのに、大変役に立つと俺は思っております。

昨日はああ言ったのに、今日にはもう違う事を言っている。

口ではこう言うくせに、全く違う事をやっている。

これはその場その場で「正しい」が変化しているのではなく、

矢張り単純な答え、単純な理由に帰結されるのではないかと思います。

また、

誰かを大切に思い、優しい気持ちを抱くのもまた、

単純な答え、単純な理由に帰結されるのではないかと思います。








里仁第四

十五.

子曰、參乎、吾道一以貫之、曾子曰、唯、子出、門人問曰、何謂也、曾子曰、夫子之道、忠恕而已矣、


子曰く、參や、吾が道は一を以って之を貫く。曾子曰く、唯(い)。子出ず。門人問いて曰く、何の謂いぞや。曾子曰く、夫子の道は、忠恕のみ。



先生(孔子)は言われました。

「參よ、私の道は一つのことで貫かれている」

曾先生(曾子)は言われました。

「はい」

先生(孔子)が出て行かれた後、ある門人が(曾子に)尋ねて言いました。

「どういう意味でしょうか」

曾先生は言われました。

「先生(孔子)の道は忠恕のみ」








(俺なりの解釈での)解説

先ず押さえておかないといけない点が二つ有ると思います。

一つは、

夫子の道は忠恕のみ、これは曾子の判断であるという事。

孔子ご自身が「私の道は忠恕で貫かれている」と仰ったのとは違う、という点で御座いますね。

もう一つは、

曾子は「魯」(とろいと言いますか、のろまと言いますか)と評される事も在る程、

思考の瞬発力に欠けた所が在るにも拘らず、ここでは「即答」している点で御座います。



曾子については以前から何度か触れております。

姓は曾、名は参、あざ名は子與。

師の教えに忠実で父母を敬う「孝」の人として大変な尊敬を集めている方で御座います。

孔子のお弟子さんの中で、論語に登場する際、必ず「子」(先生)で呼ばれるのは

この曾子だけだそうに御座います。

上の文でも孔子は名の「参」(しん)で呼んでおりますけども、

曾参曰く、ではなく、ちゃんと曾子曰く、になっておりますね。

これは顔回にも子貢にも見られない事で御座いまして、

後世の人々に曾子がどれだけ敬われていたかを示す一つの証拠になると思われます。

その曾子に、孔子は仰います。


「参や、吾(わ)が道は一を以って之を貫く」

この、「一を以って之を貫く」の文句は論語の中に二度登場致します。

その一回目で御座います。


ちょっと余談。

孔子は「対機説法」と呼ばれるように相手に合わせてお話をなさいますので、

同じ質問でも、誰が口にしたかに因ってその答えが全く逆であったり、違う表現であったり致します。

なので、「誰に話したか」も重要なので御座いますね。

一を以って之を貫く。

これは前述の通り論語の中に二度登場致しますけれども、

孔子がこの言葉を投げ掛けたのは上の曾子と、もう一人は子貢で御座います。

子貢と言えばとても頭の回転の速い方で御座います。

俺が孔子門下で一番大好きなお弟子さんで御座います(←余談の余談)。

その子貢ですから、

一を以って之を貫くという謎掛けのようなお言葉にも、

成程、

と、

瞬時に理解されたかも分かりません。

特筆すべきは、

この謎掛けのような言葉を言われたもう一人が曾子であるという事。

曾子は「三省」にも見られますように、

子貢とは逆に慎重に時間を掛けてゆっくりと思考を巡らす節が御座いますが、

にも拘らずここでは「即答」で御座います。

これは大変興味深いことで御座います。

はい、余談終わり。この辺から本筋に戻ります。

孔子のお言葉は明瞭で御座います。

例え話等も用いて、とても分かりやすく説明なさろうとされております。

なので、このような一度聞いただけでは「え?」「どういう意味?」と思わすような事を仰るのは、

珍しい事で御座います。

増してや曾子でしたら、

この言葉を持って帰って、ゆっくりと時間を掛けて吟味しそうなもので御座います。

ところが実際は上に在る通り、

即答で御座います。

うおっ、すげ! なんで!?

と思いますが、上の淡々とした流れから、孔子はそれに特に驚いた様子も無かったという風に取れます。

つまり、

もう参(曾子)は分かっている。

と思われてらっしゃったのではないかと。

曾子とは全く逆のタイプに思える子貢ですけども、

子貢の特徴の一つは、あらゆる物事を正確に「評価」しようとする所で御座います。

それには勿論、「観察」が大きな役割を担って参ります。

曾子も子貢も、常日頃から孔子をよく観察なさってらっしゃた方なのではないかと思います。

特に曾子は魯(とろいと言いますか、のろいと言いますか)と表現される程であるにも拘らず

他の人が聞いたら「どういう意味でしょうか?」と尋ねずにはいられないことを

即座に返す事が出来た。

これはこの場の問答に限らず、常に孔子を観察し、日頃からその答えを見出そうと、

取り組んでらっしゃった結果であると考えます。



多くの訳を見ましてもここは曾子の答えた「忠恕」に重きを置いておりますけども、

忠恕とは何ぞや?についてはサラッと参りますね。

先ずこの「忠恕」を直訳してみようという試みが当然なされる訳ですけども、

この漢字二字の熟語が「どの組み合わせであるか」で意味が変わってきてしまいます。

「忠と恕」、「忠に恕す」、「恕に忠す」、

同じ様な意味の字が並んでいるのか、

下の字を上の字が修飾しているのか、

上の字を下の字が修飾しているのか、

で御座いますね。

「忠」はよく仕える様を表すのに多く用いられます(臣、君に事(つか)うるに忠を以ってす)。

「恕」はよく「思いやり」と訳されます。

こうやって字から意味を探って行く試みも非常に大切で御座いますけれどもね、

好き嫌いで言うとあんまり好きくないです。

何故かと申しますと、

それは論語の全体像の中から見えるやん、

と思うからで御座います。

ここの一文だけから意味を模索するのは少し危ういと言いますか、無理と言いますか、

孔子をよく観察した上で、でないと、早とちりされてしまい勝ちであると考えます。

因みに人にとって何が一番大切かの問いの答えは「仁」であると孔子は仰っておられます。

その「仁」にも段階が在って、その一番深い所に有るのが「忠恕」であると仰る方も居られます。

成程なあと大変参考になりました。

俺は天から賜る先天的な善を「仁」、

人が理性で養える仁をして「忠恕」、

それを形にしたものが「礼」であると考えております。


論語の中に「孝悌」(孝行悌順)という言葉が出て参ります。

親に孝行し、目上の人に従順な様を言う言葉で御座います。

これをして儒家思想の根本であるという言われ方がよくなされております。

俺はそれに「そうか?」と思えてなりませんです。

孝悌は仁の表れで謂わば「礼」の範疇で御座いますから、

「結果、形となったもの」

で御座います。

その形をして「儒家思想の根本」とは、大変危険な解釈だなあと思えてならないので御座います。

この「孝悌」がどういう形で論語に登場したかと申しますと、

孝悌也者、其爲仁之本與、(孝悌なる者は、其れ仁の本たるか)

と、

有子が仰っております。

「孔子」じゃなくて「有子」が仰っております。

司馬遷の「史記」にも見られますように、

かなり早い時期から「孔子の考え=儒家思想」ではなくなっていたように思います。

儒家思想という言葉が一人歩きして、

孔子の考えとは別の物になってしまっているように見受けられます。

秦(あの始皇帝のね)の宰相であった李斬(りし)、

この人は大変立派な方で御座いましたが、

儒家思想の廃止(これが弾圧になっちゃった訳ですけども)を唱えた背景には、

このような理由が在るように思われます。


なので、

「先ず押さえて置かなければいけない点」として二つ挙げました。

夫子の道は忠恕のみ。

これは孔子の言葉ではなく曾子の言葉であるというコト。

魯と表現された曾子が即答した答えであるというコト。

所謂「儒家思想」と呼ばれるものは、

論語の中の言葉を機械的に取り上げた結果、形骸化してしまっている節を否めないように思います。

孔子の考えとは別の物になってしまっているように俺には見えます。

ですから孔子の言葉ではないというのは先ず押さえておかないといけないと思います。

そして、じゃあ誰が代弁したものなのか。

ここでは曾子、孔子を常日頃からよく観察し、熟考を重ねたであろう方のお言葉で御座います。

これはかなり

「孔子の考えを代弁したものである」

と考えていいんじゃないかなあと、

俺は思っております。

好きなこと、やりたいことが仕事になれば、

こんなに素晴らしい事は無いと思われます。

然しそれはなかなか難しいで御座いますね。

それを難しい事にしている要因はいろいろと考えられると思いますが、

その一つは矢張り学校教育だと思われます。

世には実に様々な業種が存在致しますが、

そのどれに就くにしても、基礎的な学力といいますのは就く人を助けるもので御座います。

教育を受けるのは日本人の義務の一つで御座いますが、

義務なんてとんでもない、

大変な助けで御座います。

然し、

どこでどう間違ったのか、

学校で教わる事は、多くの子供にとって、

「テストで良い点数を取るための知識」

という認識に止まっているように見受けられます。

そこには面白いも面白くないも無い、

楽しいも楽しくないも存ずる余地を許さない、

やるより他に無いという正に「義務」で御座います。

学ぶ、って、

すっげー面白いです♪

そこを改めれば、

多くの人が当たり前のように好きなこと、やりたいことを仕事に出来るのではないかと思います。











里人第四

子曰、不患無位、患無以立、不患莫己知、求爲可知也、


子曰く、位無きを患(うれ)えず、立つ所以を患う。己れを知ること莫(な)きを患えず、知らるべきことを爲(な)すを求む。



先生(孔子)は言われました。

「地位の無さを憂うのではなく、

 何故取り組むかの理由にこそ思いを巡らせるように。

 周りが自分を分かってくれないと嘆くのではなく、

 周りに分かってもらえるだけの事を自らが成すことを求めましょう」






(俺なりの解釈での)解説

ある本で読んだのですが、

何かを解説する際の留意点の一つは「感想は控えめに」ですって。

客観的に観て、誰が見ても異論が無いであろう事を、出来るだけ淡々と書くべきだと、

そんな趣旨のコトが載ってました。

良し悪しの判断は読む人に任せるべきだと。

でないと、

すっげー善いっす!

超最高っす!

などと、書いてる方が一人で盛り上がっていると、読んでいる人は「そうか?」と冷める、と。

成程、成程。

それを踏まえた上で、

以下、俺なりの解釈での解説で御座います。




えっと、

いきなりで恐縮で御座いますが、

論語ってすっげー善いっす!

超最高っす!

むちゃくちゃ好きです。

読む度にその思いを新たに致します。

あ、

冷めないでね、

ちゃんと真面目に解説もしますから。


最初の一文、

不患無位 (位無きを患えず)

は、多くの訳を見ましても、

「地位の無い事を憂う(思い患う、気に掛ける)のではなく、」

で共通しておりますが、次の一文、

患無以立 (立つ所以を患う)

で若干の差異が見られます。

論語の入門書と呼ばれる物等に見られる最もポピュラーと思しきものは、

「地位を得るための(正しい)方法を気に掛けることだ」

という訳で御座います。

他にも、

「地位を得るに相応しい能力を養うことを思う」

という訳も御座います。

「立つ」を「地位を得る」、

「所以」を「方法」、

と訳したので御座いますね。

もう読みから変わっているものも御座いまして、

「以って立つ無きを患う」(患無以立)

と読む方も居られますが、

訳の内容は殆ど同じで御座います。

自分が「立つ」だけのものを持っていないことを憂いなさい、と、こうなります。

何れも「立つ」イコール「出世」と捕らえる事が出来るように思います。

俺、思いますに、

役職や肩書き等は、先ずそれが上の方に在って人が其処まで上り詰めていく、

といった類の物ではないと思うのです。

まあ実際はそうなってますけどね。

それよりも、努力し精進を重ねた人に追随する、単なる呼び名だと思うのです。

亦、そう在って欲しいと望むのです。

「政治家に相応しい人物」

ではなく、

「この人には政治家こそ相応しい」

であって欲しいのです。

位無きを患(うれ)えず、立つ所以を患(うれ)う。

これは多くの物で

地位が無いのを憂うのではなく、地位を得るに相応しい人物になりなさい

といった訳され方をされております。

俺が描く孔子像はもっと「動機」の部分を大切になされる方ですので、

上のような、先ず地位というものが上の方に在って、其処を目指すに当たって、といった発言が、

どうもピンと来ないと言いますか、

孔子っぽくないと感じてしまいます。

「立つ」=「取り組む」「行動する」「志す」

等の訳の方が、やあ、孔子っぽいなあと思われます。

社会的な地位の有無を憂うのではなく、

自分がどう成りたいか、

どう在りたいか、

それを大切にしなさい。

と、

仰っているように思いました。

長くなったので急ぎますね。

不患莫己知、求爲可知也、(己れを知ること莫(な)きを患えず、知らるべきことを爲(な)すを求む)

この、

周りが自分を分かってくれない、評価してくれない、正しく知ってくれない、

それを憂いてはいけませんよというお言葉は、

論語の中に違う表現で度々登場致します。

孔子も特に大切にされてらっしゃった考えであると思われます。

人様を贔屓目も好き嫌いも無く正確に評価するのはとても難しいと思いますし、

また、

周りが分かってない、という考え方は、

己を磨くのに大変な邪魔になると孔子はお考えでらっしゃったのではないかと思われます。

最後の一文、求爲可知也(知らるべきことを爲(な)すを求む)も矢張り、

自らがどう在るべきかを大切にするためのお言葉であると思いました。

譲り合うには

先を争うの経路は狭しと申します。

我先に、我先に、と他人を抑えようとしますと、

同じように他人を抑えようとする人達とモミクチャな状態を招きますね。

自分は待つ、若しくは一歩退いて、

どうぞ、と先を譲る事が出来たら、

狭い道も一人ずつ悠々と渡る事が出来るので御座います。

先日地下鉄にて、若い女性が

「優先座席に座ればよくない?」

と言っているのが聞こえてきて、大変驚きました。

この女性を、「なんて常識の無い!」と罵るのは簡単ですが、

このコ一人の問題ではないと思うのです。

そんな簡単なものではないと思うのです。

今の世は「先んずれば人を制す」をより尊ぶ風潮が御座いますから、

先の若い女性の発言も社会全体の産物のように思います。

そのコ一人を責め、恥を憶えさせるのではなく、

俺らみんなが恥ずかしいと思わねばならない事のように思います。










里人第四

十三.

子曰、能以禮讓、於爲國乎、何有、不能以禮讓爲國、如禮何、


子曰く、能く禮讓(れいじょう)を以って國を爲(おさ)めんか、何か有らん。能く禮讓を以って國を爲めずんば、禮(れい)を如何。



先生(孔子)は言われました。

「もし譲り合う心を以って国を治める事が出来たなら、

 何の問題が有りましょう。

 譲り合う心を以って国を治めるのでないならば、

 (形だけの)礼があってもどうしようというのでしょう」






(俺なりの解釈での)解説

何度も前述しておりますが、

孔子は今で言う大臣として実際に政治に携わった経験をお持ちですから、

法令禁制等の定めの大切は、

誰に言われるでもなく、身を以って十分にご承知の筈と存じます。

そういった法律の類の重要性を踏まえた上でのお言葉で御座います。

キレイゴトでも何でもない、

実践論で御座いますよ。

譲り合う心で国を治める事が出来たなら、

何の難しい事が有ろうか。

何の問題が有ろうか。

先日、学校で正式な教科として道徳を育もうとする試みが頓挫致しましたけれども、

現状として、

学校や家庭や社会で人々の徳を育む事が出来ているかと申しますと、

各個人に委ねられている、

というのが正確な評価かと存じます。

ある所では大切に育まれ、

ある所ではないがしろにされている、

それでしょうがないんじゃない?というのが、

今在る答えのように感じられます。

俺ら一人ひとりの気の持ちようという言葉もよく耳に致しますが、

そんなコトもうどれくらい前から言われ続けている事か、

そんな言葉だけでは、今在る歪みは治せないように思います。

あまりにも経済にウェートが乗っかってしまった現代、

もっと政治的に徳に取り組む時代が来ているのではないかと思われてなりません。

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「自分の代わりは居ない」という認識が強くなればなる程、

態度が傲慢になりやすいもので御座います。

それは己の特別意識を上げ、

大切に扱うよう周囲に配慮を押し付ける素となり、

多少横柄であっても許されるという歪んだ自信及び自愛の素となるもので御座います。

因ること、その親を失わざれば、亦た宗とすべしと申します。

頼るには、頼られて態度が大きくなってしまったりして、親しみを失くしてしまう人でなければ、

頼ってもよいでしょうという意味で御座います。

自分の代わりは居ないという意識、

自分は頼られているという意識、

これは自尊心を醜く太らせる素に成り得る危険を孕むもので御座います。

(勿論、それを責任感として善い方に働かせる素晴らしい方も居られますけどもね)

自分の代わりが居ないという結果、自分は頼られているという結果、

それが「利」に繋がるのであれば、

周りはどんどんその人から遠ざかって行くでしょう。











里仁第四

十二.

子曰、放於利而行、多怨、


子曰く、利に放(よ)りて行えば、怨み多し



先生(孔子)が言われました。

「利益にばかりもたれて行動していると怨まれることが多い」







(俺なりの解釈での)解説

放 = 依

として、放(よ)る、と読む他に、

放(ほし)いままにする、

と読む方も居られます。

どちらも同じような訳になり、

利益ばかり追求していると多くの人から怨まれる、という内容で御座います。

特に解説も要らないのではないかと思われます。

殆どの場合「利」はお金で御座いますけれども、

それ以外のものも御座います。

例えば、

立場。

自分が上であるという立場。

精神的優位な立場。

これも自らにとって「利」と呼べるものと思われます。

細かく言えば、親と子に於ける親であったり、

兄弟姉妹に於ける年長者であったり、

先輩後輩に於ける先輩であったり、

上司と部下に於ける上司であったり、

恋人同士でより「好き」が勝っている方に対する恋人であったり、

友達や同僚で相手に対する依存がより強い方に対するもう一方などで御座います。

こういう優位な立場を事有る毎に持ち出す者は、

やはり多くの怨みを買い続けるものと思われます。

何者でも無し

どんな肩書きを持った人でも、

職場を一歩離れたらただの人で御座います。

街を歩く大勢の人達と同等の目で見られます。

自分が職場で何と呼ばれているのか、

どれ程重要な位置を占めているのか、

周りの人からしたら、知る由も無い事で御座います。

にも拘らず、

職場の自分を外に持ち出す者も結構多く御座います。

医師や政治家や学校の教員の中には、

外へ出ても自分は「先生」であると、

態度に出ている者も御座います。

他にも社長や部長、先輩など、

自分の土俵を持ち歩く様は、

見ていて気分のよくないもので御座います。












里仁第四

十一.

子曰、君子懷徳、小人懷土、君子懷刑、小人懷惠、


子曰く、君子は徳を懷(おも)い、小人は土を懐う。君子は刑を懷い、小人は恵を懷う。



先生(孔子)は言われました。

「君子は徳を思い、小人は土を思う。

 君子は刑を思い、小人は恵を思う。」





(俺なりの解釈での)解説

小人は土を思う、の土で御座いますけれども、

これはそのまま「土地」と訳されるものが多くて御座います。

それは郷里を愛する事を否定するように思えて、

なんか孔子っぽくないなあと思えたので違うと思います。

矢張り井の中の蛙が井戸ごと持ち歩こうとしている様を言うのだと思います。

次の文、

君子は刑を思い、小人は恵を思う。

韻を踏んでますね。

善いですね。

「刑」は法則と解されます。

道理でも善いかと思います。

小人はそういったものを無視して、

己への恵みばかり考えるもので御座います。

他にも、

「刑」を刑罰とし、

統治者(為政者)が刑罰を考えるのに対し、

被治者(民)は恩恵を考える。

という訳も御座います。

度々、君子=為政者 とする訳が見られますが、

俺はこれが好きくないので、

前者で考えております。

君子は徳を思い、

仁から離れる事は御座いませんので、

職場でも、またそこから離れた場所でも、

同じように謙虚で、立派に在られると思います。


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