善いね

好きなオノマトペは、のたりのたりです

巻第二

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得るべくして得る

立派な人とは居るもので御座いまして、

そういう方の多くは、自身にとても厳しい方でらっしゃいます。

また、

立派な方が必ずしも幸せそうに暮らしてらっしゃるかと言えば

これは否、で御座いまして、

立派になるしかなかった、という人生を送ってらっしゃる方も、

居るもので御座います。

立派になるにはいろいろなものを犠牲にしなければならないという考え方が

その下地になっているのではないかと思われます。

じゃあ何故立派にならなければならないの?

そもそも、立派ってどういう事なの?

その答えを人から与えられている限りは、

立派にはなれても、

幸せにはなれないと思います。

どちらも得る。

そのためにどちらも追う。

その姿が、

本来の在るべき姿と言いますか、

人が自然に求める所、と思います。

どちらか一方だけを求めようとすることこそ、

「誰か」の意図が絡んだ、歪められた姿のように思います。









里仁第四

五.
子曰、富與貴、是人之所欲也、不以其道得之、不處也、貧與賤、是人之所惡也、不以其道得之、不去也、君子去仁、惡乎成名、君子無終食之間違仁、造次必於是、巓沛必於是、


子曰く、富と貴きとは、是れ人の欲する所なり。其の道を以てこれを得ざれば、處(お)らざるなり。貧しきと賤しきとは、是れ人の惡(にく)む所なり。其の道を以てこれを得ざれば、去らざるなり。君子、仁を去りて惡(いず)くにか名を成さん。君子は食を終うる間にも仁に違うこと無し。造次にも必ず是(ここ)に於いてし、巓沛(てんばい)にも必ず是に於いてす。



先生(孔子)は言われました。

「富と貴い身分とは、誰しもが求めるものです。

 然し、その道(それ相応の方法、勤勉や勤労、相応しい人格など)を以て得たのでなければ、

 そこには長く居れません。

 貧しさと賤しさとは、誰しもが嫌がるものです。

 然し、その道(それ相応の有態、怠惰や下劣な人格)を以て得たのでなければ、

(それをも受け入れ)そこから去ろうとはしないでしょう。

 君子は仁を離れてどうして名を成すことができましょうか。

 君子とは食事をしている間にも仁に違うことはなく、

 造次(急変の時)にも必ず此処に居り、

 巓沛(ひっくり返ったような、まさかの時)にも必ず此処から離れることはありません」


(おまけ)

造次巓沛(ぞうじてんばい)で四字熟語になっております。

造次は慌しい様子、

巓沛(てんばい)は躓き、ひっくり返ること。

思いも掛けない時、あっと言う間、などの意で使われます。









(俺なりの解釈での)解説

たまには生き急ぐぜー!

えっと、

思うて学ばざれば則ち危うしと申します。

幾ら自分なりに考えても、周りを見渡さなければそれは独善に陥る危険を孕むもので御座います。

自分なりに考えるという行為はとても立派なことで御座います。

それを独善から救う手立ては、

学ぶこと。

他と比較すること。

よく見聞きして先ず実情を把握すること。

詰まる所の、

観察で御座います。

書物からでもいいですし、

人様の在り様からでもいいですし、

テレビやネットからでも情報を集めることは出来ると思われます。

上の一文は様々な実情を観察した結果孔子が把握なさった現実であって、

孔子自身の思う所と一致しているかと言えば、

否、と思います。

つまり、富と貴きは誰しもが欲しがるものというのは多くの観察から得た情報であり、

孔子自身もそうであったかと言うと、それは違うと思います。

何故ここに拘るかと申しますと、

もし、

「みんなそうだし、私もそうだ」

と訳してしまいますと、

富と身分を求める在り様を、積極的に認めるニュアンスが強くなるからで御座います。

肯定の意味合いが強くなってしまうからで御座います。

君子は食飽かんことを求める事無く、居安からんことを求める事無しと申します。

また、

最も愛した弟子、顔回は富と貴きからかけ離れた人物で御座いました。

孔子は富と身分を追う姿勢に、

明らかに否定的であったと思われます。

無論、

「追ってはダメ」

というコトではないですよ。

それよりも先に、

追うべきものが在る筈だと仰っているのだと思います。

最も優先すべきことではないと仰っているのだと思われます。

だから、次の文、

貧しきと賤しきは誰しもが嫌がることだが、

その道を以て得たのでなければ(怠惰や下劣な人格が原因でそうなったのでなければ)、

それを避けようとはしない、

と、

こうなります。

まさに顔回で御座います。

なんかこう言うとモロに

「反経世!」

を謳っているように勘違いされそうなので追記いたしますが、

顔回に勝るとも劣らぬ有名なお弟子さん、

子貢

についてで御座いますけども、

この方は富と貴きとを両方手にした方で御座います。

富んでいても礼を重んじた立派な方で御座いまして、

長く其処(富と貴き)に居た方で御座います。

顔回は長く其処(貧しきと賤しき)に居た方で御座います。

どちらも君子で御座います。

少しでも志したならば

自分の十年、何十年という長い歳月を決定付ける日々といいますのは、

案外短いもののように思います。

あの日、

あの人と過ごした、

一年、二年という時間が、

その後の何十年という人生をどう使うか、

それに大きな方向性を与えているという方は少なくないと思います。

人の人格が形成されるのはかなりの早期で、

十代の内にその形はかなり「完成」に近い出来上がりを見せるように思います。

一度「完成」したものをちょっとずつ変えていくために、

人は何十年という長い歳月を費やすような気が致します。









里仁第四

四.
子曰、苟志於仁矣、無惡也、


子曰く、苟(いやし)くも仁に志さば、惡しきこと無し。



先生(孔子)は言われました。

「少しでも仁に志せば、悪い事はなくなるものです」







(俺なりの解釈での)解説

この一文は短いくせに読む人に依って色んな読み方、いろんな解釈がなされております。

子曰、苟志於仁矣、無惡也、

この字↑「苟」をどう読むかで先ず異なって参ります。




壱.まず「まこと」と読むと。

  苟(まこと)に仁に志さば

  本当に仁を志したならば、

  という、厳しいお言葉になります。




弐.「も(し)」と読むと。

  苟(も)し仁に志さば

  もし仁に志したならば、

  という、仮定のお話になります。




参.「いやし(くも)」と読むと。

  苟(いやし)くも仁に志さば

  少しでも仁に志したならば、

  となります。





次に、「惡」を「惡(あ)しき」と読むか「惡(にく)む」と読むかで、

異なって参ります。





一.惡(あ)しきこと無し。

  悪い事はなくなる、

  悪事に加担しなくなるとか、悪い道に進まなくなるとか、

  人様に迷惑を掛ける様々な短所、これがなくなるとか、

  これだけでも異説多々御座います。





二.惡(にく)むこと無きなり

  または、

  惡(にく)む無きなり

  または、

  惡(にく)まるること無し



  (ああもうめんどくせえなあ)

  要は、

  誰かを毛嫌いしたりしなくなる、

  若しくは、

  誰かに毛嫌いされることはなくなる、

  という意味で御座います。




過てば則ち改むるに憚ること無かれと申しますが、

それは姿勢のお話で御座いますね。

今日、

「俺は理想的な素晴らしい人物になるぞ!」

と志して、

その日の内に成れたら、こんな素晴らしいことはないです。

でもそんな事出来るんならもうみんな立派な人間になっとるっちゅーねん。

んで、

どういうのを指して「理想的な素晴らしい人物像」とするかも、

真剣に考えないとですしね♪

矢張り時間の掛かる事だと思います。

ほんで、

俺なりの解釈での解説です。





(大前提)

孔子はそのご自身の人生経験から、

とても生活感の在る現実的な事を仰います。

理想的なお言葉を残されておられますが、

決してムチャな事は言いません。

理想的なお言葉を残されておられますが、

決してムチャな事は言いません。

二回言うたった。

だから、「一片の邪心も無く仁に志せ!然すれば一切の悪も身に留まる事無し!」と、

おいおい、そりゃ理想論でっせ、根性論ですやん、

という、どこか鼻白む押し付けは、しない人だと俺は思っております。





子曰、苟志於仁矣、無惡也、


少しでも仁に志せば、

悪いことは無くなって行きます。


例えば、

何も考えずに、タバコを吸いたい時に吸う人が居たとしましょう。

その人が友人とご飯を食べに出掛けたと致しましょう。

で、友人の方が先にご飯を食べ終えたと致しましょう。

友人も喫煙者だったとしましょう。

その人は何も考えずに食事を進めます。

友人に遅れること数分、やっと食べ終えたその人に、

友人はにっこり笑って言いました。

「吸っていい?」

これは優しさで御座います。

気遣いで御座います。

今まで何も考えずに、自分が吸いたい時に吸っていたその人は、

そこでハッとしたと致しましょう。

そうなると、

これまでのように、吸いたい時に吸うことが難しくなって参ります。

これまでと違って、

あ、今は吸ったらイカン場面だったかな

と、

どこか心に引っ掛かるものを感じるようになって参ります。

そうやって少しずつ、

吸うべき時と、吸うべきでない時との分別を、

自分で行うようになって行ったと致しましょう。




勿論タバコに限らずのお話で御座います。

誰かに優しくされたり、

大切に扱われたり、

ちょっとでも何かしら心の琴線に触れることがあれば、

そこに「仁」を見出すことは出来ると思います。

それを尊いと感じることが出来たら、

いきなりは難しいですけども、

少しずつ、少しずつ、

悪い所は無くなっていくように俺は思います。




あの日、

あの人と過ごした、

僅か数年という短い時間に、

仁を見出すことが出来たなら。


その後の何十年という長い時間を掛けてでも

人はそれぞれの道を追うもので御座います。

人を想う人

義を見てせざるは勇無きなり。

他人に対して怠惰や傲慢を行うは罪で御座いますが、

これを見逃すのもまた罪で御座います。

悪い人間の話を見聞きして、

「世の中そんなもんですよ」

などとしたり顔をするのもまた罪と思います。

心の底から大切な人が居ると致しましょう。

もしその大切な誰かが心無い者の手によって苦しめられたら、

沸き立つ怒りを抑え切れぬと思います。

大切だという気持ちが強ければ強い程、です。





里仁第四


子曰、惟仁者能好人、能惡人、


子曰く、惟(た)だ仁者のみ能(よ)く人を好み、能(よ)く人を惡(にく)む。



先生(孔子)は言われました。

「ただ仁の人のみ、よく人を愛し、よく人を憎む」





(俺なりの解釈での)解説

よく人を愛し、よく人を憎む。

能と書いて「能く」(よく)と読みます。

これは英語でいう所の「Can」で御座いまして、

〜出来る、という意味で御座います。

だから頻度を仰っている訳では御座いません。

よく人を愛す、

これは「しょっちゅう人を愛す」という意味ではなく、

「人を愛することが出来る」という意味で御座います。

同じ様に、

ただ仁の人のみ、

よく人を憎むと孔子は仰っておられます。




追伸.

怒りは感情の類で御座いますから、

憶えて当然のもので御座います。

それに任せて心の内を怒り一色に染めてしまいますと、

礼を失います。

後できっと後悔する筈です。

だから、

怒りを憶えてもそれを育ててしまわないように。

とても優しい方が俺にそれを教えてくれました。

一方で、

礼という概念そのものが欠けている者も確かに存在します。

非難されて然るべき者達を野放しにするのもまた罪だと思います。

闘うことを知ってらっしゃる方たちが、

俺にそれを教えてくれました。





追伸の追伸(と言うか余談)

と言うか蛇足。

ホントはもっとほのぼのしたのが書きたいので御座いますよ。

でもやっぱおかしいモンはおかしいので御座いますよ。

なんでこんなのが許されるんだろうと不思議でしょうがないことが多くて御座います。

塩野七海さんも仰ってましたように、

「馬鹿は相手にしない」

で善いと思いますが、

介護や医療に携わる人間が馬鹿なのはやっぱマズいですって。

他にも公的な機関に属する人間、大勢の人間と関わる立場の人間が馬鹿なのはおかしいデス。

なんで多くの人は平気なのか分かんないです。

しょうがないとか、

自分が気を付けるしかないとか、

それじゃ黙認と同じじゃねえくわっ!

自分が気を付けるのは自衛としてとても大切なことですけども、

それとは別に怒るトコは怒っときましょうぜ。



そんな些細な事で怒らなくてもいいじゃんという場面でめちゃめちゃ怒り、

コレどう考えても怒る場面だろ!という所は黙認している。

多くの人は俺の目にはそういう風に映り、

なんでこうなんだろうと不思議でしょうがないので御座いました。




(あじさいさんのお母様に安寧の日が訪れますように)

理想の中心

理想を高くに置いている人は満足しないもので御座います。

この満足しない人、

これも一括りには出来ず、はっきりとその在り様が分かれるもので御座います。

常に不満を漏らしイライラしている人。

楽しみながら、すくすくと伸びようとしている印象を与える人。

この違いはどこに起因するのか。

恐らく、

描く理想の違いだと思われます。

極端な例ですが、

何かの切っ掛けで日本人の八割が貧乏になったとしましょう。

その日の食事も食うや食わずの生活を強いられるようになったとしましょう。

そうなると今現在の我々の生活水準は遥か高みで御座います。

常に不満を漏らしイライラしている人は、

今の我々の暮らしを理想像として描くと予想されます。

楽しみながら、すくすくと伸びようとしている印象を与える人は、

描く理想の像に大きな変化は見られないのではないかと思われます。





里人第四


子曰、不仁者、不可以久處約、不可以長處樂、仁者安仁、知者利仁、


子曰く、不仁者は以て久しく約に處(お)るべからず。以て長く樂しきに處るべからず。仁者は仁に安んじ、知者は仁を利とす。



先生(孔子)は言われました。

「不仁の者は長く貧しい生活には居れません。

 また、長く安楽な生活にも居れません。

 仁者は仁に落ち着き、

 知者は仁を利とします」






(俺なりの解釈での)解説

俺の好きな小説の中に、

「バスケのピボットターンのように、

 自分の身の置き場を決めて、そこを中心にくるくる回るように生活を楽しめばいい」

といった主旨の言葉が在りました。

高価なバックは買えなくても、

安くてもお気に入りのバックを見付けて、

自分に出来る範囲でおしゃれを楽しむことも出来るじゃない♪

大体こんな意味でした。

もうこういう考え方って大好きでして、

説明して貰わないと違いが分からない程の些細な違いで値段が跳ね上がったりする物よりも、

こういう所がお気に入りとハッキリ言える物を持っている人の方が、

おしゃれな人だなあという印象を受けるもので御座います。

おしゃれ = 金が掛かる

の図式を崩したいで御座いますよ。

この延長線上で、

夢が叶う = お金持ち

という図式も、

多くの人の中に概念として在るのではないでしょうか。


不仁者は以て久しく約に處(お)るべからず、

以て長く樂しきに處(お)るべからず。

不仁の人は「約」に居れない。

倹約の約で御座いまして、

貧しい暮らしと訳されます。

貧しさの中にも楽しみや喜びを見出す事が出来ず、心が荒み、

盗みや不正を働くようになる、という解釈が一般的で御座いますし、

俺もそう思います。

また、

長く「樂」にも居れない。

これは安楽の楽で御座います。

恵まれた生活にも慣れてしまい、

有る物よりも無い物を見てしまう。

充実している筈の生活の中にも、不満を覚えるようになってしまう。

という意味で御座います。

これは主に生活水準の高低のお話と見ても良いと俺は判断致します。

貧しかろうが、富んでいようが、

常にその場を離れたがる、動きたがる、ということで御座いましょう。

一方で、

仁者は仁に落ち着きます(仁者は仁に安んじ)。

不仁の者のようにソワソワと動こうとする事はないと仰っております。



はて、最後の一文なんですけども、


知者は仁を利とす。


この「利」は利用の利と解釈されるのが通常で御座います。

物事の善し悪しの判断の土台に仁を置き、

仁を用いる、

仁を利用する、

その姿勢を崩さない、其処から動かない、という風に解釈されております。

俺自身は、

利益の利、で善いんじゃないかなあと思っております。

仁は貴いものだと、

自分にプラスを齎してくれるものだと、

知者はそれを知っている。

そういう意味で捉えております。

だから、全ての知者は須らく仁へ向かうと思っておりますし、

また、

そうであったら善いなあと

思っております。

心の置き場

例えば本を読んだり、

例えばドライブに出掛けたり、

好きな事に興じる時間は楽しいもので御座います。

然しいまいち気分が乗らないと言いますか、

好きな事でも楽しめない時というのも在ると思います。

マンガを読むにしろゲームをするにしろ、

ただそこに在るからぼんやり取り組んでいるだけ、という時間も、

確かに在ると思われます。

好きな事を楽しめているか否かで、

自分の状態が分かるような気が致します。






里仁第四


子曰、里仁爲美、擇不處仁、焉得知、


子曰く、仁に里(お)るを美しとなす。擇(えら)んで仁に處(お)らずんば、焉(いづく)んぞ知なるを得ん。



先生(孔子)は言われました。

「仁に居ることこそ素晴らしい。

 あれこれと選んで仁を外れるようならば、

 どうして知者と言えるでしょう」






(俺なりの解釈での)解説

はい、ちょっと余談ー!

論語に収められている言葉は殆どが断片的な短いもので御座います。

その配列の順序に規則性は無く、

孔子やお弟子さんの言葉がばらばらに並べられている、とするのが一般的な見方で御座います。

全十巻二十篇から成りますが、

その篇名は文の最初の二文字を取っただけで御座います。

今回は「里仁爲美」(仁に里るを善しと為す)から始まります第四篇で御座いますので、

里人第四の篇名になるので御座います。

ほんで、この里人第四で御座いますけれども、

八佾第三にあまり見られなかった

「子曰く〜」

の形で始まる言葉が一杯御座いますよ。

やはり論語と言えば我々の頭にぱっと浮かぶのはこの形で御座いますね。

いつの時代にも通用する、身近な心構えの指針みたいなものが沢山出て参ります。

すごく好きです。

はい余談終わりー!


最初の一文、

里仁爲美

上は里を里(お)ると読んで、居と同じとするの説で訳しております。

次の文、擇不處仁(選んで仁に處(お)らずんば)では「處」を「おる」と読むのを考慮すると、

同じ「居」の意味合いなのに字が変わるのは不自然なのでは?と思われるかも分かりませんが、

「處」は「処」と同じで御座いまして、

読みは同じ「お」ですが、こっち(處)は場所を示す字で御座います。

なので不處(おらず)で、「外れる」とか「至らない」とかの訳になります。

そのまま、「対処しない」という訳も御座いました。

今一つ、

新注では

「里は仁を美しと為す」

と読みます。

里を「身の置き場」として捉えると上と同じ訳し方が出来ます。

然し、本来の里の意味通り「人の集まる場所」として捉えると、

コミュニティの在り様を説いたものと解釈が変わってきてしまうのでややこしいです。

やはり個人の気持ちの在り方として個々に訴えているものと俺は捉えますので、

仁に里(お)るを美しと為す

で読み下しと致しました。

前置き長えな、おい。


内容に参ります。

仁に居る。

これは在り様の美しい、立派なことですよと孔子は仰っております。

別の所では「仁に親しむ」、つまり、仁を身近に置きなさいという仰り方をされてます。

常に心に仁を留めておくように。

逆か、

常に心を仁に留めておくように。

善くない手本が世の中にはいっぱい御座いますのでね、

異端を攻(おさ)めるのはただ害あるのみで御座いますから、

そういうのはなるべく遠〜くに置いて、

仁を近くに置けたら素晴らしいなあと思います。

じゃあ仁って何よ?という疑問がまたまたやって参りますが、

あれやこれやと模索して仁から外れるようであれば、

それは知者とは言えないと孔子は仰っております。

そう、

「知」で御座います。

あらゆる学問の基礎は知識で御座います。

沢山の知識を得ることは、

とても大切なことで御座います。

その全体像から仁は見出せるのではないでしょうか。

学校で教えることは記憶中心で御座います。

それは仁に役立っているのかなあと、

何処か虚しさを憶えました。

全ての知識は、

仁の人になるためのものであって欲しいと、

そう思います。


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