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「人」の定義は難しゅう御座います。
それでも医学的な、生理学的な定義が御座いましょうし、
哲学的な定義が御座いましょうし、
実態に基づいた定義が、何かしら与えられているもので御座います。
然し矢張り、
「人」を定義付けようという試みは、とても難しいと思われます。
一人ひとりが、まるで違うからで御座います。
八佾第三
十六
子曰、射不主皮、爲力不同科、古之道也、
子曰く、射は皮を主とせず。力の科を同じくせざるが為なり。古えの道なり。
射 … 弓を射る礼の儀式。射礼、で御座います。
皮 … 的。当時の的は皮で出来ていたようで御座います。
先生(孔子)は言われました。
「射礼では、的に当てる事を第一とはしません。
技量は人それぞれで同じではないからです。
それが古代のやり方です」
(俺なりの解釈での)解説
上の現代語訳は、多くの訳されたものを参考に致しました。
非常に気に入りません。
なんか、
意味が良く分かりません。
「射は皮を主とせず」
射礼(弓を射る儀式)に於いては、矢を的に当てる事を第一とは致しません。
これは、分かります。
「力の科を同じくせざるが為なり」(新注)
力(力量とも腕力とも訳されます)の科(等級)が人それぞれによって同じでないからです。
んん?
だから的に当たる人も居れば当たらない人も居てOK、ってコトか。
因みに古注では、
「力を為すこと科を同じくせず」
力役(力仕事の労役)も科別があって、腕力の有る人と無い人で同じ仕事をさせることはなかった。
となります。
上の射礼とは関連性を持たせない文であるとしております。
「古(いにし)えの道なり」
古代のやり方です。
ああ、やっぱ訳分かんねえ!
新注だと、
「射礼では矢を的に当てるのが第一ではないですよ。
技術が人それぞれで違いますからね。
それが古代のやり方です」
(それが今は的に当てることばかりが大事とされるようになった。と、嘆く孔子)
古注だと、
「謝礼では矢を的に当てるのが第一ではなかったものです。
また、力役には腕力に応じて科別が有りました。
それが古代のやり方です」
(恐らく孔子が素晴らしいと仰っていた周の文化を紹介するような意味)
で御座いましょうか。
え〜っと、
此処から先は、
補足で御座います。
そして完全な主観で御座います。
長いよ。
そもそも謝礼って何よ?
と申しますと、
世の中には様々な礼が御座いまして、
それを紹介した書が、
『儀礼』(ぎらい)
や、
『礼記』(らいき)
で御座います。
その中に射礼が記されております。
「弓を射る礼とは?」の詳細は大胆に省きますが、
弓を射る際、その人の人となりや心の内が射形(弓を射る動作、姿勢)に現れるのだそうで御座います。
俺自身の弓道経験からいっても、これは真実で御座います。
日本の弓道と中国の射礼では全く異なるかなと思ったのですが、
数年振りに「弓道教本」を引っ張り出してきましたら、
中国の礼節が大きな影響を与えたそうに御座いまして、
人となりや心の内が射に現れるという概念は、どちらにも等しく見られるもので御座いました。
いくら教えられても、
せっかちな人はせっかちな引き方をしますし、
強引な人は強引な引き方をするもので御座います。
おもしろいように性格が反映されていたなあと、
懐かしく思いました。
弓道に於いて、放った矢が的を射抜くか否かは、
結果論で御座います。
正しい射形、美しい射形を身に着けると、
矢は自然と的に当たるので御座います。
的は正しい射形を身に着けたか否かの「目安」で御座いまして、
目的はあくまでも正しく美しい射形を身に着けることで御座います。
元々は的を射抜く「競技」では無かったので御座います。
間違った射形で小手先の技術を用いて的に当てても、
それは何の意味も無いので御座います。
「射礼」は礼の儀式で御座います。
礼の儀式に於いて最も重要視されるべきなのは、
その想いの部分で御座います。
想いの現われが形で御座いますれば、
弓の礼に於いては、
何よりも射形が大切。
的に当てようという意識が先に在っては本末転倒と言うもので御座います。
子曰く、射は皮を主とせず。
射は的に当てるのを第一としません。
その真意は、先の如くかと存じます。
力の科を同じくせざるが為なり。
これを、
「的に当てる技術には個人差が有るから」
と解釈してしまうと、台無しで御座います。
的に「当てる」力量
ではなく、
的に「当たる」力量
と解釈致しましょう。
恐らく、孔子の時代になると、
弓の実用的な部分とは切り離された「礼」の概念が薄れてしまったのでは
と思われます。
射礼に於いて、弓を射る、という行為は、
当たり外れとは違う所を観られるべきもので御座いました。
古えの道なり。
のお言葉は、
「元々はそうだったんだよ」
というお教えであると、俺は解釈致します。
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