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成れるのなら、世界で一番の物知りさんになりたいです。
然し、新聞に目を通したり、本を読んだり、
いろんな方のブログを拝見致しますと、
この人たちはなんて物知りさん!
と、愕然としてしまいます。
知識というものはとても取り扱いが難しいもので御座いまして、
例えばある分野の専門家の方が居られたとしましょう。
その方に、
「あなたは何を知っていますか?」
と、指折り数えて頂いたとしましょう。
その方はある分野に於いては膨大な量の知識をお持ちですが、
それら全てを「ある分野の知識」として一つに纏めてしまい、
指一個分とさせて頂いたとしましょう。
仮に、
その方が、四本目五本目と次々に指を折る事が出来なかったとしたら、
その方は物知りと言えるのか。
答えは否、と思います。
じゃあ、この方は物知りではないのか。
これまた否、と思います。
一方で、
広く浅くの雑学に長けた人、
この人は物知りと言えるのかと言いますと、
言える、と思います。
ならば、この人は先の専門家の方よりも物知りなのかと言いますと、
それは否、と思います。
んん、
難しいぜ、物知りさん。
矢張り、記憶の量は限りが御座いますので、
記憶に留めなくとも済むものが有れば便利で御座いますね。
それは写真や文章などの記録であり、
今起こっている事をリアルタイムで見ることの出来る目、で御座います。
世界中の至る所を見て取れる目が欲しいです。
だって、
分かんねえことだらけですもの。
人の心も、
そうで御座いますね。
八佾第三
十一
或問禘之説、子曰、不知也、知其説者之於天下也、其如示諸斯乎、指其掌、
或る人禘(てい)の説を問う。子曰く、知らざるなり。其の説を知る者の天下に於けるや、其れ諸(こ)れを斯(ここ)に示(み)るが如きかと。其の掌(たなごころ)を指す。
禘(てい) … 帝を中心に宗祖をあわせ祭る大祭の名前、だそうに御座います。前述。
ある人が禘(てい)の説を問いました。
先生(孔子)は言われました。
「分かりません。
その説を知る者が居たら、その者にとっての天下とは、
その諸々をここで見るようなものでしょう」
孔子はその手のひらを指差されました。
(俺なりの解釈での)解説
「禘」(てい)とは、先日のお話で出て参りました例の大祭の名で御座います。
孔子が
「地に酒を注ぐ儀式(灌)が済めば、後は見る気がしません」
と仰っていた、あれで御座います。
「禘」(てい)は、元々は天子のみが執り行う秘儀だったんですって。
だからその詳細については、
天子以外は誰も知らないのだそうに御座います。
「説を問う」の「説」は即ち「説明」と解して問題無いようで御座います。
「意義を問う」とか、「内容を問う」とか訳されます。
説明を求めた、と考えてよいと思われます。
孔子は「知りません」と答えます。
天子以外は誰も知らない筈の事を知る者が在れば、
その者にとっては、天下の諸々も自分の手のひらを見るようなものでしょう。
こんな具合になります。
なれるものなら俺はそうなりたいですし、
俺ですらなりたいと思うのですから、
孔子は尚の事、
そりゃ、知る事が出来るのなら知りたいさ
と、思ってらっしゃったのではないかなと思われます。
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