小山公認会計士税理士事務所・文人を目指す小山登の独白

名を成すは常に窮苦の日々にあり・・・今の精一杯を・・・

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経済的に困難な今こそ先人の故事に習い

国や地方自治体は

教育や福祉にもっとお金と力を注いで欲しいと思います。

長岡市のホームページから<米百俵の由来>

http://www.city.nagaoka.niigata.jp/kurashi/bunka/komehyaku/kome100.html

以下はホームページからの引用・転載です・・・

幕末維新の風雲は、戊辰戦争で長岡城下にも及んだ。

長岡藩は、軍事総督・河井継之助の指揮のもと、

奥羽越列藩同盟に加盟し、新政府軍と徹底的な戦闘を行った。

このことは、司馬遼太郎の歴史小説「峠」で広く紹介されている。

その結果、250年あまりをかけて築き上げた城下町長岡は焼け野原となり、

石高は7万4千石から2万4千石に減らされた。

(中略)

長岡藩の窮状を知った三根山藩から米百俵が見舞いとして贈られてきた。

藩士たちは、これで一息つけると喜んだ。

食べるものにも事欠く藩士たちにとっては、のどから手が出るような米であった。

しかし、藩の大参事小林虎三郎は、

この百俵の米は文武両道に必要な書籍、器具の購入にあてるとして米百俵を売却し、

その代金を国漢学校の資金に注ぎ込んだ。

こうして、明治3年6月15日、国漢学校の新校舎が坂之上町

(現大手通2丁目、大和デパート長岡店の位置)に開校した。

国漢学校には洋学局、医学局も設置され、

さらに藩士の子弟だけでなく町民や農民の子どもも入学を許可された。

国漢学校では、小林虎三郎の教育方針が貫かれ、

生徒一人一人の才能をのばし、情操を高める教育がなされた。

ここに長岡の近代教育の基礎が築かれ、

後年、ここから新生日本を背負う多くの人物が輩出された。

東京帝国大学総長の小野塚喜平次、解剖学の医学博士の小金井良精、

司法大臣の小原直、海軍の山本五十六元帥……。

この国漢学校は現市立阪之上小学校に引き継がれ、

「米百俵」の精神は長岡市のまちづくりの指針や人材教育の理念となって今日に至っている。

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