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蒸し暑い夏の夕立前みたいに、戦争が近いと思う。
湿った空気が流れ込んで、ざわざわ、そよそよ、ヒューヒュー、してる今日この頃、
戦争と平和が実に紛らわしい、ややこしい今日この頃です。
先日、自衛官募集の広告にこんなキャッチフレーズがありました。
「平和を仕事にする職業」。
んなアホな!!
平和を仕事にすんのに何でイージス艦やら強襲揚陸艦やら空母もどきやらがいるの?
そう思った人も少なくないのではと思います。
格闘家が体を鍛えるのは闘うためであって安静にするためではない。格闘家が闘いながら安静にはで
きないように、戦争しながら平和でいることはできないし、平和でありながら戦争をすることもできない、戦争と平
和は水と油で相容れることはないはずです。
戦争の訓練をしながら平和を仕事にするという発想には、戦争と平和を意図的に同じ地平において、それら
を都合よく混同しようという意図が透けて見えます。
例えば「戦争が終わり次の戦争が始まるまでが平和」というような「平和」観。
武力と武力の均衡が保たれている間だけある「平和」観。
ようするに、平和とは武力やら戦争やらの間に挟まれて存在しているとするオセロ平和観です。
こうしたオセロ平和観においての民衆とは受動的で為政者が作り上げた歴史の流れに組み込まれて従うだけの
存在でしかありませんが、そこに至るには「邦人保護」だの「テロリストからの救出」だのと美辞麗句が踊り、平和
とは真逆の、それこそオセロみたいに戦争一色へのステップを駆け上っていくことに人々が喝采を送るようにな
る仕組みがあります。
いつの時代も平和を守るために戦争をするという事の内実は、「戦争をするために平和を捨てる」ことでしかあり
ませんでした。
かつて、敗戦間際に特攻隊を志願した若者は、郷里にいる親兄弟を守るつもりで死んでいったのかもしれませ
んが、間違ってはならないのは彼らとて平和を守るために死んでいったのではなく、戦争継続のために命を
差し出したという事です。彼らは戦争の遂行者であり、百歩譲って犠牲者ではあっても、平和の使者などではあ
りません。平和を守るために死ぬのなら戦争には反対しなければなりませんが、そんなことをす
れば郷里の親兄弟は非国民のそしりを免れえない上に、当人にもあらゆる不名誉と艱難辛苦が浴びせられたこ
とでしょう。人間、周りから悪く思われるよりかは、いいように思われたい。不名誉と心中するより名誉と心中す
る方が容易い。特攻隊の勇ましさや悲しさだけををうんぬんし、故意に戦争の遂行者を平和の使者のように奉る
映画や小説はたくさんありますが、特攻隊員から人間本来の弱さを見て取ることは、そんなこと以上に重要な歴
史的教訓を含んでいるように思えます。
と言うのも、人間の弱さというのは、人間自身の弱さを直視することに耐えられない弱さでもあるからからで
す。
歴史が来た道を繰り返すのは単に人が忘れっぽいだけではないようなのです。
「権力は少数者を腐らせるが、弱さは多数者を腐らせる」
と言ったのがエリックホッファー。
雲行きの怪しさは、戦後を通り過ぎて今や戦前。
戦争は人の弱さの発露です。
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ホンマはケーサツは犯罪をなくすのが仕事、消防隊員は火事をなくすのが仕事、軍隊はセンソーをなくすのが仕事。ほなけど、それやってもうたら失業するから、そこまではやらんしする。
センソーとヘイワはコインの表裏。
ホンマは、センソーの反対は平和やのうて、安定。愛の反対は憎しみやのうて無関心だす。
2015/3/18(水) 午前 0:26
ずいぶんとご無沙汰です。長いこと放置コメントにしたままで申し訳ありませんでした。低人さん節はバッチリ御健在なようですが、低人さんご自身はお元気でっしゃろか?暮らし向きは悪くなる一方のご時世ですが、末永くお達者で^^!
2015/5/31(日) 午前 4:56 [ タガメ太郎 ]