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利他的

 
 
自分の関心以外のこと。
 
人間はそれをしえない。
 
どんな重大な事実、ご高説とて、自己PRがそれをのたまうように、
 
ひとえに己の関心は利己的であるからにして、そこから出る表現もまたしかり。
 
利他的な人はなく、そういう世界を頭に描いた自己PRの幽霊が徘徊てるだけ。
 
 

伝え方

 
伝え方のうちで、一番高等な伝え方は、伝えたいことは何もないような伝え方だろう。
 
「自然が人間にとって心地よいのは自然が人間に対して何も意見しないからである」
 
みたいなことをニーチェが言ってるけど、そんな感じ。
 
「聖人は不言の教えを行う・・」
 
みたいなことを労使が、いや老子言ってるけどそんな感じ。
 
意見と言う形をとると、どうしてもわざとらしくなるので、どうしても伝えたい人にこれは極力避けたい。
 
どうしても伝えたい人には、言葉による以上に、普段からの自分自身の癖やしぐさで伝えねばならない。
 
意見をするのが癖になってしまっているのなら、それこそ一番に改めねばならない。
 
さすれば、どうしても伝えたい人は必ずや振り向いてくれるであろう。必ずや。
 
 
で、伝え方として一番下等でよろしくないのが、教師タイプの伝え方である。
 
そもそも、いびつな関係の上でしか成立しない伝え方であることに当人が全く気付いていないことが問題だが、
 
何より教師としてふるまえるのは他人にではなく、唯一自分に対してのみであるという事にも気付いてない事はさ
 
らに問題である。他人は人に教えられるのではなく、自分勝手に学ぶのである。
 
本来、己の身を挺して人様の教材とすべきところを、自分の意見と知識の披露でねじ込んでくる最も野蛮な伝え
 
方、教師タイプ。テレビも新聞もこんな奴らのご託宣ばっか。
 
真似したくない。
 
 

闇の奥

 
「人間の中には、道を踏み外すことさえできないほどの馬鹿もいれば、闇の力を意識することさえできない鈍感なやつもいる。馬鹿が悪魔に魂を売った例はない。そして、僕らの大多数の人間というのは、馬鹿でもなければ、聖者でもないのだ」
 
コンラッドの闇の奥のセリフに、こんなのがあった。
 
何度か反芻しながら思う。
 
確かに俺らはバカではない。
 
本当のバカではない。
 
バカではないのに、時にバカのふりもする。
 
バカなら素直に騙されるところを、騙されたふりをしてスルーしてしまう。
 
このスルーしたものは人間の内と外に広がる闇の奥に葬り去られる。
 
そして、重大な結末をもたらす主な要因は、故意にせよ不意にせよ、日々僅かづつ見過ごされ、スルーしてきた
 
小さな出来事の積み重ねである場合がほとんどだったし、これからもそうだろう。
 
個人としてのなバカは自分の人生において学習能力を持たないが、
 
俺らは歴史において全く学習能力を持たない。
 
 
 
 

責任の取り方

俺は責任と言う言葉が嫌いです。
 
なんでかと言うとそれはスローガンと同じく、フィクションだからです。
 
それも呪詛がかった気持ち悪いフィクションだからです。
 
なんでフィクションかと言うと、ま、要するに一切の運命を制御することがかなわぬ人間に、その悪い結果だけ重
 
荷として背負わせようとしたとき、そこに何らかの正当性を求めなくては気が済まんだけの作り話だからです。
 
よく企業献金などで不祥事が起こりニュースになったりとかすれば、会社の社長や政治家やらは責任取って辞
 
めるわけですが、それを見ている我々は「ザマミロ」とばかりに溜飲を下げることはできても、この場合の責任と
 
言うものの発生源や最終的な帰属先を決定することなど本来、不可能なはずです。
 
そもそも、ある行為がある行為として立ち現れる要因と言うものには無数のバリエーションがある。
 
例えば同じ窃盗でも、万引き趣味による退屈しのぎの窃盗と、乳飲み子を抱えた貧しい母親がミルクを窃盗する
 
のでは行為が同じでも動機は違う。やってることは同じなのだから責任も同じでないとおかしいのだが、それで
 
は母親が哀れだという。
 
だから、「母親には情状酌量の余地があるが、万引き趣味には厳罰を!」と言うことになる。
 
実際、ここだけを見れば、我々の感情は母親の心情になることはあっても、万引き常習者の心情にはならない。
 
現実には社会的背景が異なる運命の糸が複雑に絡まり合い、いつ両者の立ち位置が入れ替わってもおかしくな
 
いのだけど、こうした人生劇場をを見る観客は我々の感情であっても、断じて想像力ではない。
 
感情はフィクションを現実のものとして取り込むことなど朝飯前。なのですっかり騙されて、歴史は繰り返すわけ
 
です。
 
だから、責任を取らせるなんて言うものはなるべくそれ以上考えずに、(考えてもわからないので)ただ憂
 
さ晴らしとしての効用を珍重しているすぎんのであります。我々はただ政治家や社長が責任をとるというフィクシ
 
ョンに満足しているだけなのです。
 
力でたたき伏せなくてはどうにもならん連中を相手に、こんなフィクションでは話にならんので、エライさんの
 
の処世術に過ぎない責任問題などはホンマどうでもええ。
 
重要なのは、フィクションではなく、東電・清水や勝俣をボコボコにして、こっちがスカッすることであります。
 
反原発の論者の中には、全ての騙された大人にも責任があるから、我々はその責任を取らなければならない、
 
と言う人もいますが、これはその人から全員に向けられた呪詛以上の意味は持たないでしょう。
 
なにせ、誰の手にも負えない物の責任を、全員に持てと言っとるのですから。
 
ただ憂さ晴らしがしたいだけなら、責任うんぬんより酒でも飲んでる方がはるかにましなのであります。
 
そして、清水・勝俣、その他テレビで見たことある御用のおっさん、おばはんを街中で見かけたら必ずボコボコに
 
することであります。こういうことを、大人げないからと言ってやらない大人は結局何にもやらない大人。
 
絶対ボコボコにして必ずムッソリーニの晩年にしてやることです。
 
 では。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

刹那

この世は諸行無常だという。
 
この世が諸行無常であることについては何にも変わらんのだという。
 
何にも変わらんのだよ、チミ。
 
何にも変わらんのだよ、永遠に。
 
諸行無常て、諸行通常なんですよ、実は。
 
元旦から通常営業なんですよ、通常とは。
 
で、時間は無限で、物質は有限ということは、要するに万華鏡ですねん。
 
万華鏡をほら、永遠に回し続けるとどうなるか?
 
そのうちに恐らく一度や二度、いや永遠やから永遠回、同じ配置の構図ができるはずやないですか。
 
あ、これ前にも見たことある!てな感じのデジャビーな構図ができるはずやないですか。
 
何回も何回も。
 
こんな人生嫌や!思うてもまた一から。
 
何回も何回も。
 
ばあさん、飯はまだか? おじいさんさっき食べたばかりでしょ!
 
ばあさん、飯はまだか? おじいさんさっき食べたばかりでしょ!
 
何回も何回も。
 
おお、永劫怪奇。
 
で、そんなこんなが当たり前のように永遠に続いているにもかかわらず、生きるという事は永遠から閉ざされたと
 
ころで細切れになってる一片の刹那やないですか。
 
当たり前じゃなくて、刹那。
 
ごっつい切なさの刹那野郎。
 
ソウイウモノニワタシハナリタイ。
 
 
 
 
 

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