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”私の視点、私の感覚、私の言葉で参加します。”
これは裁判員制度のキャッチフレーズである。
ここで「私の意思」は参加を認められておらず、求められてもいない。
これは、お前の視点、お前の感覚、お前の言葉を拠出せよと言う命令であって、
早い話が戦争中の勤労拠出なのである。
裁判所が裁判での動員をかけるという意味では勤労動員でもある。
こんなもんに参加させられるのが楽しいわけない。
かつて、アメリカの陪審員制度が始まった当初、それが民主主義の学校と呼ばれたことに因んで、
裁判員制度を民主主義の学校というような趣旨でとらえる人がいる。
子供たちには義務教育を受ける権利があるように、国民は裁判の民主化に直接参加し、民主主義を
発展させてゆく権利を有するという主張をする。
赤紙一枚で捕らわれの身になってしまう裁判員制度によって進められる民主化とは、大東亜共栄
圏建設ような民主化としか思えんが、制度の中身はともかく、こうした主張にも義務教育を民主主
義の産物ととらえている人々にとっては、一定の説得力があるように思われる。
なので問題の次元は異なるが、リンクする問題であるので一つ問いを発したい。
「赤紙一枚で人間が捕らわれの身になる事は、裁判員制度も義務教育も同じではないのか?」
建前が民主化であろうが大東亜共栄圏であろうが、赤紙は赤紙である。
ちなみに、俺には赤紙が来ないことが判明した。
裁判員に選ばれない「欠格事由」の定めるところによると、
・国家公務員法38条の規定に該当する人。(公務員になる資格のない人)
・義務教育を終了していない人。(終了したと同程度以上の学識のある人は除く)
・禁固以上の刑に処せられた人。
・心身の故障の為、裁判員の職務の遂行に著しい支障のある人。
とある。
義務教育を終了していないくらいで、こんなクダラナイものと関わらないで済むのなら楽チンなも
のであるが、ここでも学校に行かん人間は欠格者として積極的に排除されてるのである。
俺は世に出てから「職業選択の自由」というものが最低限、義務教育を修了した者の自由である事
を知った経緯があるので、そうした自由が「選ばれし者」の特権である事は知っていたつもりだ
が、裁判員制度の問題が自分の身に及ぶと考えていたという事はとんだ思い違い(思い上がり?)
であった。マトモな人間ではない「不登校」の「欠格者」は向こうからお断りであった。これで
は、もし裁判員に選ばれたらああしよう、こうしようと、あらかじめ考えていたおもろいプランも
台無しである。どうしてくれんのか。
しかし、どうやら今回は、むしろ「選ばれし者」の方がが気の毒な次第だ。まったく望みもせんの
なら、なおさらだ。
この度は誠にご愁傷様でおま。シクシク・・。
そう言えば、かつて日本列島にいながら、人知れず絶滅した「オゲ」とか「ポン」とか「カワラコ
ジキ」ような連中も民主主義の発展には無用の存在であった。市民権とは選ばれし者に付与される
のである。はて、この事は民主主義の何を語るのだろか。
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