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藤岡弘、には弘の後に「、」がついている。、「、」は文章の途中に打つものであるからして、これにはご本人いわくまだ自分は道半ばの未熟者だという自戒の念が込められているのだそうだ。個人が自分の資質にあった能力を、追求することは結構なことだし、この場合のあくなき追求にはゴールなどないのでおのずと謙虚にならざるを得ない。本来、能力が高まるのは道を追求した結果に過ぎないのであり、結果に胡坐をかいては道の追究にはならない。従って能力を高めることは、能力を高める事それ自体が目的化した結果ではないのである。
以上の観点から見ると、能力礼賛の社会的風潮と言うものには問題が山積みである。その中でも一番大きな問題は、人間の持つ能力と言うものは個人の資質により千差万別である上に、同じ能力一つにしても、その能力の高い低いというものは「賢い」と「馬鹿」のような二項対立的なものではなく、もっと緩やかなグラデーションに過ぎないという事である。つまり、能力のの高いものと低いものは対立しているのではなくて、程度の差でしかなく、お互いの立場としては相互に補完的なものなのである、これはよい意味でも悪い意味でも。
悪い意味としては、パラリンピックがそうである。あれは決して障害当事者の祭典ではない。あれは能力者による能力礼賛の祭典である。ステラヤングの言を借りれば、感動ポルノになるのだろうが、感動ポルノを生む社会的風潮と能力礼賛の社会的風潮は同じベクトルである。つまり、パラリンピックとは黒が忌み嫌われ、白が尊ばれる社会的風潮の中で、濃いグレーだった人が薄いグレーになったことに人々は感動しているだけの話なのである。なぜ白と黒が対立項としてあるのか?なぜ白だけがが尊ばれるか?という問いへの明確な説明も理解もないまま、本来、立体的で相互に補完し合っている人間社会の構造を、平面的な二項対立に変えてしまうことで本来この構造の犠牲になっている立場の人からさえもその自覚を奪っているのである。こうした個人の資質の違いを無視し、ひたすら能力の「高さ」と言う一本の物差しでのみ人間を評価する社会が、個人の資質に合う能力、と言うよりそのひと個人に合った「世界」の追究に寄与するとは到底思えない。こうした道の追究は長い時間を必要とし、決まった時に決まった結果が出るわけではない。単なる能力礼賛は、単に学んだだけの人間を量産し続けるが、永続的に学び続ける人間に必要な社会的条件とは、まずその人が係るべき世界へのアクセスを可能にし、能力礼賛の同調圧力で出たばかりの芽を圧殺しない社会である。
そしてまた今年も鹿児島は運動会の季節である。
能力礼賛システムとしての学校による能力礼賛見本市である。走りたくない子供もいるであろうし、踊りたくない子供もいるであろう。だが容赦はしない。
こんなものを見せられて喜んでいるだけの大人の多さには只々あきれるばかりだ。
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2016年10月02日
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