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自分のことについて考え込んでばかりいる人と言うのは、自転車に乗りながら自分の足の動きばかり見ている人
のようなもんで、まっすぐ走れないばかりか、そのうち壁にぶつかるに決まってる。
視線は前に、手はハンドルに、足はペダルに。
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こんにちは、ゲストさん
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自分のことについて考え込んでばかりいる人と言うのは、自転車に乗りながら自分の足の動きばかり見ている人
のようなもんで、まっすぐ走れないばかりか、そのうち壁にぶつかるに決まってる。
視線は前に、手はハンドルに、足はペダルに。
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何事も「何に対して?」と言う問いが大事である。
人間が示す事が出来る立派な徳目の中でも、一つとしてそれ自体で立派なものと言うのはない。
「正義」や「友情」も何に対する正義であり、友情なのかがわからなければ、何も判断のしようがない。
アメリカが他国に軍事侵攻するときの正義など、正義ではないし、それに合わせて多国籍軍を構成する国が示
すアメリカへの友情など、奴隷根性以外の何でもない。
「がんばろう日本」や「絆」なるものもそれ自体は空虚で何の意味もないものである。問題はその使われ方と結果
である。放射能瓦礫を産廃利権の強欲さでもって推し進め、放射性物質を燃やすという狂った広域処理のの推
進に汲々とするのはただの拝金主義でしかない。
空虚で何の意味もないがらくたが、頭の中で思考の歯車の邪魔をすると、
何も考えない代わりに、人をポジティブでハイな状態にする。
ポジティブ・ハイ。
彼らはただポジティブであることが美徳であると信じている。
「頑張ろう」と言っても、「それが何に対してなのか?」をきちんと考えないもんだから放射能汚染地にも平気でボ
ランティアに出かけたりする。
人間にはそれ自体で立派な徳目などないのだから、
何に対してポジティブであり、何に対してネガティブであるべきかをその都度立ち止まって考えないと意味がな
い。そして一つ言えることは、ファシズムは間違いなくポジティブ・ハイの産物だということである。
「何に対して?」と問わなくなった民衆のポジティブさが集団的譫妄状態を呈しているのがファシズムだ。
戦時中の「非国民」と言う言葉も戦争に否定的なネガティブ人間に冠せられた言葉である。
世の大部分の人間は、戦争の結果など考えずにひたすらポジティブであろうとしていただけなのだ。
なので、「何に対して?」と問う習慣こそが唯一、ファシズムの防波堤になり得る。
幼いころより禁止や服従に慣らされ、スローガンを掲げてまい進することが教育として施された人々への自己点
検の材料として、「何に対して?」と問う習慣が、ファシズムの浸食に対する強力な自己免疫力につながることを
確信し、筆を置くのであります。
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人間は総じて弱者であるという見解は間違ってないと思う。
人間には、トラのような牙もなく、鷹のような爪もなく、脱兎のごとき健脚も持ち合わせていない。
原始時代では暗い洞窟で身を寄せ合い、徘徊する猛獣の目を逃れ、息を殺して夜が明けるのを待つしかなかった
弱弱しい動物である人間が、今日地上で敵なしの隆盛を誇るようになった理由はいくつかあげられると思う。
しかし、それらの理由の大前提には人間は自然界において弱者であるという事実がある。
人間は長い年月を経て、身体的に弱いまま、身体的強者に打ち勝つ知恵と工夫を凝らし発展してきたのであ
る。そしてこの構図は人間が自然界とは隔絶した文明社会に移り住んだ今日までも延々と引き継がれてきた。
人間社会における階級的序列。
「人類の歴史とは階級闘争の歴史である」というという有名なアレ。
人類が進歩してるかどうかは別として、人類が常に現状をよりよくする努力を続けてきたのは間違いないと思う。
ようするに人間が本質的弱者でなかったら最初からその必要はなかった努力を、今日もまだ続けているのであ
る。我々人類が続ける知的な努力は全て弱者の努力であるといって差し支えない。
人間の知性は人間の弱さを補ってなお余りあるものだからだ。
だが、ここで勘違いしてはならないのは、知性はあくまで人間の身体的弱さを補うものであり、知性が増したから
と言って決して本質的に強くなったのではないという事だ。
人間は本質的弱者のまま強者を屈服させる事が出来る稀有の動物になったのであるが、このややこしさが自然
界ではありえない人間界特有のヒエラルキー的パラレルワールドを生み出しているのである。
この辺については、マルクスの言う「階級」とニーチェの言う「位階」の違いについて考えてみるのも面白いけど、
要するに人間社会における社会的強者の層には本質的弱者の織り成す階層がダブっているという事であ
る。逆に社会的弱者の中に本質的強者が散見されることは、これはもうワタシ自身の目でも確認済みである。
臆病で頭でっかちの本質的弱者が権力を手にしたときに民衆に災難が降り注ぐ。
(続く)
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蒸し暑い夏の夕立前みたいに、戦争が近いと思う。
湿った空気が流れ込んで、ざわざわ、そよそよ、ヒューヒュー、してる今日この頃、
戦争と平和が実に紛らわしい、ややこしい今日この頃です。
先日、自衛官募集の広告にこんなキャッチフレーズがありました。
「平和を仕事にする職業」。
んなアホな!!
平和を仕事にすんのに何でイージス艦やら強襲揚陸艦やら空母もどきやらがいるの?
そう思った人も少なくないのではと思います。
格闘家が体を鍛えるのは闘うためであって安静にするためではない。格闘家が闘いながら安静にはで
きないように、戦争しながら平和でいることはできないし、平和でありながら戦争をすることもできない、戦争と平
和は水と油で相容れることはないはずです。
戦争の訓練をしながら平和を仕事にするという発想には、戦争と平和を意図的に同じ地平において、それら
を都合よく混同しようという意図が透けて見えます。
例えば「戦争が終わり次の戦争が始まるまでが平和」というような「平和」観。
武力と武力の均衡が保たれている間だけある「平和」観。
ようするに、平和とは武力やら戦争やらの間に挟まれて存在しているとするオセロ平和観です。
こうしたオセロ平和観においての民衆とは受動的で為政者が作り上げた歴史の流れに組み込まれて従うだけの
存在でしかありませんが、そこに至るには「邦人保護」だの「テロリストからの救出」だのと美辞麗句が踊り、平和
とは真逆の、それこそオセロみたいに戦争一色へのステップを駆け上っていくことに人々が喝采を送るようにな
る仕組みがあります。
いつの時代も平和を守るために戦争をするという事の内実は、「戦争をするために平和を捨てる」ことでしかあり
ませんでした。
かつて、敗戦間際に特攻隊を志願した若者は、郷里にいる親兄弟を守るつもりで死んでいったのかもしれませ
んが、間違ってはならないのは彼らとて平和を守るために死んでいったのではなく、戦争継続のために命を
差し出したという事です。彼らは戦争の遂行者であり、百歩譲って犠牲者ではあっても、平和の使者などではあ
りません。平和を守るために死ぬのなら戦争には反対しなければなりませんが、そんなことをす
れば郷里の親兄弟は非国民のそしりを免れえない上に、当人にもあらゆる不名誉と艱難辛苦が浴びせられたこ
とでしょう。人間、周りから悪く思われるよりかは、いいように思われたい。不名誉と心中するより名誉と心中す
る方が容易い。特攻隊の勇ましさや悲しさだけををうんぬんし、故意に戦争の遂行者を平和の使者のように奉る
映画や小説はたくさんありますが、特攻隊員から人間本来の弱さを見て取ることは、そんなこと以上に重要な歴
史的教訓を含んでいるように思えます。
と言うのも、人間の弱さというのは、人間自身の弱さを直視することに耐えられない弱さでもあるからからで
す。
歴史が来た道を繰り返すのは単に人が忘れっぽいだけではないようなのです。
「権力は少数者を腐らせるが、弱さは多数者を腐らせる」
と言ったのがエリックホッファー。
雲行きの怪しさは、戦後を通り過ぎて今や戦前。
戦争は人の弱さの発露です。
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「私は常に他人の幸せを願っております。嘘じゃありません、なぜなら私の幸せは他人の幸せだからです」
「なるほど、つまりほかのだれより、自分のことを考えて生きているという事ですな」
「・・・・・・・」
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