無題

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「不登校」なるもの。
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繰り返し

 
 
東日本大震災は原発震災であり、被災地には大量の放射性物質が降り注いでおり、除染は不可能であり、未だ
 
にフクイチからは毎時一千万ベクレル(東電発表の控えめな数値で)が放出され続け、セシウムだけではなくア
 
メリシウムのようなプルトニウムをしのぐ強力な毒性がある超ウラン元素でさえ、関東、東北を走る車のエアーフ
 
ィルターから検出されており、そして俯瞰的には2万平方メートルにも及ぶ大地が法律上の放射線管理区域に
 
なり、原発震災以降、日本の人口は減少に転じている。
 
阪神大震災の時のようにすべてが復興できるわけないのに、バカの一つ覚えのように、復興!復興!と言う声
 
が喧しく、国民的アニメのサザエさんを使ってまでPRされ続ける「復興」とやらを妨げるものにはなんであれ「風
 
評」であると、非国民の最新バージョンの烙印が押される。
 
被災地の農民や漁民をどん底に叩き落とした張本人が、今度はそうした弱者の側に立って、「風評」と「復興」の
 
二本立てで攻めに出ているが、要するに盗人が猛々しく他人のふんどしで相撲を取っているのである。
 
総理大臣はと言えば戦闘服姿て戦車に乗り込み、「日本を取り戻す」気であるが、こいつは日本を取り戻す前
 
に、正気を取り戻すことが急務だ。
 
 
はっきり言って風評被害などと言うもんは存在しない。
 
放射性物質は北半球全体にまんべんなくばらまかれ、どんなに少量でもその量に応じたリスクは避けられな
 
い。つまり、害があるのだ。
 
しかし、「風評被害」と言った言説を垂れ流す連中にそうした事実は重要ではない。
 
害があるなことなら連中にもわかりきっている。
 
連中にとって重要なのは、はっきりした事実ではなく、両論併記的記述が醸し出す世の中の雰囲気の方である。
 
つまり、害があるという説と、ないという言う説の両方を、同時に聞かされた時の人々の反応である。
 
こうした場合の人々は、ただテレビの前にぽつねんと座って、専門家同士の論戦を蚊帳の外で聞かされる
 
だけなのである。自分たちが直面している切羽詰まった現実問題がいつの間にか専門家の論争の議題になり、
 
人々から取り上げられてしまう。
 
そしてその間にも、3.11がそうであったように、現実に迫りくる放射性プルームに何の対処もできない
 
まま、人々はただのみこまれてゆくのである。
 
これは繰り返しである。
 
今また繰り返されている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

仕事

 
自分自身と直接かかわることができるのは自分だけである。
 
自分に関することだけが唯一自分の仕事である。
 
自分のしたことに対する評価は、実際はその反響である。
 
自分自身とかかわる術があるときはレーダーみたいに使えるが、
 
自分自身と関わる術がないと、その反響もただの騒音と区別がつかない。
 
騒音にかき消されて、自分の仕事が見えんようになることのなんちゅう多いことか。
 
自分の仕事をすることにかけては、クモやミノムシのほうが自分よりはるかに上手である。

刹那

この世は諸行無常だという。
 
この世が諸行無常であることについては何にも変わらんのだという。
 
何にも変わらんのだよ、チミ。
 
何にも変わらんのだよ、永遠に。
 
諸行無常て、諸行通常なんですよ、実は。
 
元旦から通常営業なんですよ、通常とは。
 
で、時間は無限で、物質は有限ということは、要するに万華鏡ですねん。
 
万華鏡をほら、永遠に回し続けるとどうなるか?
 
そのうちに恐らく一度や二度、いや永遠やから永遠回、同じ配置の構図ができるはずやないですか。
 
あ、これ前にも見たことある!てな感じのデジャビーな構図ができるはずやないですか。
 
何回も何回も。
 
こんな人生嫌や!思うてもまた一から。
 
何回も何回も。
 
ばあさん、飯はまだか? おじいさんさっき食べたばかりでしょ!
 
ばあさん、飯はまだか? おじいさんさっき食べたばかりでしょ!
 
何回も何回も。
 
おお、永劫怪奇。
 
で、そんなこんなが当たり前のように永遠に続いているにもかかわらず、生きるという事は永遠から閉ざされたと
 
ころで細切れになってる一片の刹那やないですか。
 
当たり前じゃなくて、刹那。
 
ごっつい切なさの刹那野郎。
 
ソウイウモノニワタシハナリタイ。
 
 
 
 
 

ぶらぶら病

 
「原爆被爆者の中で、最もつらい思いをされたのは全身ケロイドにされた人ではなく、一見すると健康な人と見分
 
けがつかない原爆ぶらぶら病の人である」
 
 
原爆投下から間もない広島で、自らも入市被曝し、内部被曝について詳しい報告をされている肥田俊太郎医師
 
がそんなことをおっしゃっいた。
 
その理由は、全身ケロイドの人の苦痛と言うのは、周りの人間の想像力を十分に喚起するが、ぶらぶら病の人
 
の苦しみは本人にしかわからない上、医者からも理解されず、周りからは怠け者扱いされてしまうからであると。
 
 
 
人間には不思議なところがいっぱいあるけど、その一つに回りからの理解が想像以上に大きな力を生むという事
 
があると思う。周りからの理解さえあれば、たいていの精神的苦痛は緩和され、肉体的な苦痛も乗り越えてしま
 
う。逆に、周りの理解が取り付けない苦しみが人間を蝕む威力と言うのもまた、すさまじいものがある。
 
当然、自分の苦しみが神経の繋がっていない他人に分かるはずもなく、寸分たがわぬ理解などあろうはずもな
 
い、そんなことは誰でもわかっている。
 
それでも、誰かに訴えかけずにいられないのは、人間はどんな時も常に周りからいいように思われていたい生き
 
もんだからである。
 
 
 
 
広島でさく裂したウランから放出された死の灰は、およそ700グラムと言われている。
 
対してフクイチで生成された死の灰は、およそ30トン。
 
原爆の死の灰が爆風によって成層圏まで巻き上げられ、広範囲に拡散していったのに対し、フクイチでは高濃
 
度のプルームが地を這うように人々の生活空間にまとわりついた。
 
およそ2万平方キロメートル(四国より広い面積)が法律の定めるところの放射線管理区域となってしまった。
 
これは単に大地が汚染されたことだけを意味するのではなく、生物循環の中に放射性物質が取り込まれてしま
 
ったという事、生物濃縮によってもう取り返しのつかない不可逆的変化が始まったという事である。
 
ぶらぶら病は昔のことでも、他人事でもなく、これからのこと、自分自身のこととなってしまった。
 
 
 
ケロイドの人を見て、その苦痛を思いやることはできても、ぶらぶら病の人が単に怠けてるようにしか見えなかっ
 
たのはなぜだろか?
 
 
これは、いつぶらぶら病になってもおかしくない、日本中の働き者は真剣に考えないとまずいと思う。
 
せめて、地獄に落ちた時のショックで死なんでも済むように。
 
 
 
 
 
 
 
 

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人の死

 
子供のころからやけど、
 
人一人が死んでも、世の中は何の代わりもなく移ろいで行くのを見て何やらやるせない気持ちになる時がある。
 
葬式が終われば、もうそんな奴は最初からいなかったように何もかもが過ぎてゆく。
 
自分が死んでも恐らくそうなのであろう、そんな時に感じる無力感には、何やら妙な疎外感がある。
 
誰かにハブにされたわけでもないのになんでやろ。
 
 

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