「不登校」

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教育馬鹿。

<教育>


一般的な知識や、技能の習得、社会人としての人間形成を目的としておこなわれる訓練。


狭義では学校教育を指す。


____________________________________________



辞書には書いてないけど、教育とは単にクソエゴである。


高尚ぶった、わざとらしいエゴの押しつけ以外の何でもない。


教えられる人間がいると考えるのはただの人間不信である。


教育とは例外なく人間不信の賜物だ。


手前の内部に前提する不信感には極めて無頓着で、そのくせ高尚な理想だけは声高に叫ぶ。


これがクソエゴでなくてなんであろうか。




たとえば、よく耳にするこういう主張。



”子供は声を上げることもできない弱い立場”


”まだ自分で物事を決定できない立場”。



こう言う主張をする人も、子供に教育が必要であるという立場を崩さんのはケッタイである。


声を上げることも自分のことも決められんのなら、子供が自ら「教育を受けさせろ」ともいえんや


ろがちゅうの。この手の論法は手前勝手なパターナリズムを肯定する論拠としてよく持ち出される


が、しかしなんでそれがお前の信じる理屈やないとイカンのかという論拠には全然なっとらんので


ある。




しかし、ホンマに子供は自分の事が決められんのやろか?


ホンマに、大人は自分の事を自分で決めてるのやろか?


自分のことを決めるのに、大人と子供をあえて区別する意味あんのやろか?


何も決められない個人に大人と子供の区別が必要か?


例えそれが何も決められない国家でも同じではないか。


ここであえてする区別とは持論を開陳するうえでの恣意的な区別でしかないんとちゃうのか。





俺は小学校を辞める時に学校の先生とクラスメートに決別文を書いた事があって、その時に


「俺は鎖に繋がれたまんまの犬みたいな生き方はしとうない」と書いた。


糞ダサい表現ではあるが、今でもその気持ちはそのまんまである。


子供は何も決められんと言う人よ。


俺のこの時の気持ちがあんたにわかるか。

学役とPTA。

義務教育とは要するに「学役」のことやろうと思う。


「学役」とは、俺が勝手に作ったもんやけど、


「兵役」「懲役」「学役」と三つ並べれば、同じ「役務」として捉えられんのとちゃうやろか。





刑を務める所が刑務所ならば、学を務める学校は、学務所であると思う。


9年間学役に服するのである。



学校は必要なもの、どちらかと言えば必要なもの、という認識が主流である。


大多数の人は、なぜ学校が必要かというより、主流であることが必要なのであるから、学校の必要


性は主流の必要性と同じことになる。して、その「主流」に馴染むことをここでは「社会性」と呼


んどるのであるから、学校は社会性をはぐくむための重要な場所だという認識にもなる。




しかし、刑務所の中で囚人同士が深い親交を結ぶのに、そこが刑務所でなくてはならん理由はない


ように、字義通りの社会性をはぐくむのに学役(義務教育)が必要と言う事もないと思う。


学役とセットになってる社会性が何を語っているかがミソなのであって、戦時中の「靖国の母」に


とっては「兵役」こそ立派な社会性であった事とよく似てるのである。


靖国の母たちにとっても”お天子様”を中心とした「主流」である事は心の支えであったことだろ


う。



なので、俺はPTAというものに靖国の母の影を見るのである。

教育

普段から学校と言うものに批判的な態度を取ってると、俺の事を学校とは異なる教育方針を持った人だと


勘違いされてしまう。


学校のやることを批判するにしても一定の論拠を置いているため、そこに何やら教育理念があるのだと


思われてしまうのである。


俺の一番言いたいことが教育理念などとはかけ離れていることを多くの人は理解しない。



第一、俺は人を教育しようなどと言う考え方をする奴が嫌いだ。


また、自分も教育される事で成長してきた(或はできなかった)などと信じてる人も然りだ。



もし、誰かに脳ミソのデザインを依頼することなく、自らの意欲に則ってのみ理解を深めてゆくならば、


この世の中に教材にならないものなどあるだろうか?


この意味においては俺が批判する「学校教育」においてすら教材足りうるのである。


それは「教育」など、なくても十分足りうるのだ。


どんな害毒も人間が持つ誠実な好奇心の前には完璧な栄養になる。


自分の脳を鍛え、デザインできるのは、ほかならぬ自分自身だけなのである。


そのことが分からん奴が多すぎるのである。


教え導かれる人間を想定せずにおれないのは、自分自身への不信と虚弱体質を前提にした一種の信仰だ。


よくもまぁ、そこまで己を卑下できるもんである。


こうした自己欺瞞と軽蔑に基づいて、知識の占有化が権力によりすすめられてゆくのである。


大学にある膨大な知識にアクセスするのになぜ受験戦争が必要なのか?なぜ義務教育が必要なのか?


まず、その事を真面目に考えようではないか。

入学式

うちの長男坊が学校に行くようになって一年が過ぎた。


で、今年もまた入学シーズン到来である。


去年の入学式の頃は、まだブログを始めていなかったので、この件についてはまだ何も書いていない。


なので去年のちょうど今頃、入学式での出来事と、その時の感想について書く。


学校などという施設に足を踏み入れるのは、大凡20年ぶりのことであった。


多くの親たちが正装して集まっている中、体育館の演壇の上には日の丸が掲げられ、来賓席の方には市議


会議員や商工会の役員らしき人物などがずらりと並んで座っていた。


挨拶が一通り終わると、まず最初に校長の手によって現防衛大臣の浜田靖一からの祝辞が読み上げられ、


みんな拍手する。


その後に市長やら、各方面のオエラ方の祝辞が読み上げられる。


その冒頭と最後に校長は腰を90度に曲げて、いちいち礼をするのだが、この動きがまるでロボットみた


いにぎこちなく、思わず噴き出しそうになる。


だが、周りを見渡せば、みな大真面目に黙って演壇を凝視しているので、寒気がした。


で、全員起立の号令がかかり、なんかの話が始まったと思ったら、フェイントかけるように、いきなり



「国歌斉唱」。



すかさず着席すると、見回りの先生がジェスチャーで以て起立を促をしてきた。


当然シカトする。


来賓席では、なんかエラソーなのがこっちを睨んでやがるので、俺も睨み返す。


粛々と進んでいた式に不協和音が生じているのをみんな察知しだす。


横目で俺を見ていた保護者の男と眼が合う。


が、合った瞬間、眼を逸らす。他にも何人かの先生や保護者と眼が合うが、皆すぐに逸らす。


好奇心はそそられるが、関わりたくはないらしい。いや、あるいはおれの眼つきが悪いからか?


結局、不起立、不斉唱は俺一人だった。


その後にみんなで記念撮影。校長が真ん中に座って、バックに日の丸。


校長と日の丸の間にサンドウィッチにされて、はいチーズ。


みんな仲間だ。日本国民だ。一致団結だ。火の玉だ。


てな具合でセレモニー終了。


儀式で以て団結を促さなければならんようなとこには、最初から団結の必然性などない。


必然性がないからこそ、それらはスローガンとして声高に叫ばれる。


そんなとこには、最初から類も友もないので、必然的に既成事実の方が重要になってくるのである。



学校の存在は既成事実でしかない。


学校は必要ない。


義務教育などは廃止して、教育を受けるのも受けないのも、各自勝手にしやがれだ。


「勝手にしやがれ」で全部、済むのである。


例えば、こんな俺みたいな親に反感を感じて、子供が俺と正反対の人間になったとしても、それは、それ


で勝手にしやがれなのである。


もっと、もっと、勝手にしやがれ!

ポゴ党。


ドイツ無政府主義ポゴ党。


すべての労働は糞である。

義務教育の廃止。

警察の廃止。

最低限所得補償制度の確立。

ただ飲んで飲んで飲んだくれるだけの日々。


俺としても同意できるものばかりである。

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