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先の一文にて、「生きること」と「生活すること」は違うと書いた。生きるとは、自分の人生を、太く短
く、あるいは細く長く、自分で決めて謳歌することであるが、生活とは、本来それに伴う二義的な手段に
すぎない。
しかし我々は、いつの間にか生活することによって、生かされているものと思うようになり、生活が困窮
する事で首を吊るというような、全く転倒した人生観を持つに至った。結局は学校へ行くということも、
第一には将来の「社会生活」のためであり、「社会」へとつながれた「生活」という生命維持装置がなく
ては、生きてゆけないものとして語られ続けている文脈の上に、学校への「登校」が存在するのである。
したがって、「不登校」とは社会へとつながれた生命維持装置を外された者たちであり、彼らが生命維持
装置を受け入れないのならば、むしろ彼らが生きる気力を失っていてくれたままの方が、学校側には都合
がよいのである。
しかしながら、この「生活」という生命維持装置は、明らかに人為的なシステムであり、無くても死ぬこ
とはないのである。そして、そのことを実感できる立場にあるのが「不登校」の扱いを受けている者たち
であろう。そう、二義的な手段など選ばなければ、人間いくらでも生きてゆけるのである。
最後になるが、詰まるところ生活とは、人間にとっての最大級のアキレス腱であるばかりか、絶え間ない
不安の源でもあり、この種の不安こそ、ひいては権力者に、民衆への見えざる生殺与奪権をもたらすので
ある。なので、学校側の文脈で語られる「社会生活」などは、実はでっちあげに基づく脅迫に過ぎず、こ
れからの「不登校」の者たちは、反逆者を自覚し、エンコーでもオヤジ狩りでも、引きこもりでも難なく
こなして、生きるための手段を選ばないように。
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