放言

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虚実皮膜



ラッキョウの、虚実皮膜を電球が

因果交流電球の、明滅する電球が

電球の誠実さは誠実と言えるのだろうか。

何に対して?

イスラム国

イスラム国。

絵にかいたような極悪人の塊。

誰も反論の余地がないくらいの極悪集団。

戦隊ヒーローものに出てくる悪党みたいにわかりやすい。

こいつらを退治するために戦うというならば、もはや反対者はおらん勢い。

外患内憂。

自己中のかわかむり様

拝啓、自己中の皮かむり様
 
今に始まったことではなく、ワタシはどこにいても「自己中だ!」と非難されることがしばしばである。
 
特にPTAなる組織のボランティア活動に参加しないでいると、逆恨み交じりの熱い眼差しで「勝手なやつ」と言う
 
視線を向けられる。が、陰でならともかく面と向かってそう言わず、ちょっとした嫌味交じりにあくまで暑い熱い視
 
線をこちらに投げかけてくるのがキミらの慣例だ。本能的に安全第一のキミらは自らトラブルの発端になるような
 
こと避けたいのだろうけど、やっかみ交じりの自己中な動機を相手に見透かされたのでは「自己中だ!」との非
 
難は当の自分にも返ってくるという恐れからか、一層悶々としているようにも見える。(こうした思考を持たぬ人は
 
何のためらいもなくワタシを攻撃してくるが)
 
このことから察するに、キミらを苦しめているものが私自身の行動と言うよりは、むしろ君たちの内面を巣食って
 
いる思考様式にあると思われる。ワタシはそれを自己の仮性包茎化のようなもんだと思っている、余計なお
 
世話だろうが、そのことについて懇切丁寧に説明して差し上げようと思う。
 
聞いてくれ。まずキミらは、ボランティアにいそしむ自分たちは決して自己中ではない、いやむしろそうであっては
 
ならないという前提に立って、話を進められている。
 
でも、これはおかしくないか?キミたちは自己中な動機なしにそんなことするだろうか?
 
もし仮に、キミたちのだれか一人がワタシのようにボランティア活動を完全無視して家で寝酒をしてたとしよう。
 
もちろんみんなそのことを知っている。さてこの間にキミは本当に心安らかな時間を過ごせるだろうか?
 
普段自分が誰かとするひそひそ話がどこからか聞こえてきやしないだろうか。
 
それはキミにとって耐え難い苦痛の時間と、耐え難い人間関係のしこりを残すことにしかならず、一時の享楽を
 
得る対価としてはあまりにも割に合わない。そう、だから君はボランティア活動に心ならずとも参加するわけだ。
 
体はきつくとも、心の平安は得られるので、対価としては十分見合うだろうから。
 
 
また違うキミのケースを考えてみよう、キミは本当にこのボランティア活動にやりがいを感じている。いい汗をか
 
いてみんなと談笑し、親として、地域の一員として、責任を果たしており、作業後の達成感もすがすがしい。
 
キミはやっかみの眼差しをワタシに向けることもない。
 
どうやら本気で充実しているようだ。少なくともキミには、自己の充足か従属かわからなくなってしまった感はな
 
い。キミは作業することに満足している。ワタシとは対角線上の位置での満足だが、立場こそ違えど、寝酒で
 
やり過ごそうとするワタシの場合の動機とさしたる違いはない。なにはともあれまず第一に自
 
分の満足を得ることがが中心的動機であることに変わりはないのだから。
 
ただキミとワタシには共通点があることだけ付け加えておこう。
 
それは自己の満足を得るうえで、もっともらしいお題目を必要としないことだ。それは同時に反対者に対して自己
 
中であるとか自分勝手であるといった出来合いのレッテルも必要としないという事だ。
 
ワタシにとってもキミにとっても不快なものは単に不快なだけで、それ以上でも以下でもない。
 
してみると、キミは自己中のかわかむりではないらしい。
 
もしキミがファシストになったら本物のファシストになるだろう。
 
そんなキミにとって心地よいPTAが、ワタシには不快なだけだ。
 
 
それから、自己中であることのワタシなりの心得を書き留めておきたいと思う。
 
ワタシは定置網漁師で生計を立てているから、身近なところから話すと、ワタシは毎日何十トンもの魚を殺して
 
生きている。思うに、どんなきれいごとが並んでもワタシが魚を殺している事実は変わらない。
 
なんぼ子供に「命をくれたお魚に感謝して食べなさい」とか「残さず食べろ!」とお題目を唱えても殺した魚が返っ
 
てくるはずもない。殺生を美化しようとする行為は当人の罪の意識に根差しているが、もし漁師
 
が罪の意識に囚われたならノイローゼになってしまうだろう。魚を殺すことに罪の意識などみじんも感じないから
 
毎日健康でいられる漁師の生き方を道徳的には肯定することはできない。されど、この道徳こそ人間社会の鉄
 
壁のお題目であるわけで、この場合、漁師は道徳の彼岸でのみ自己中心的に健康でいられるのも、まぎれもな
 
い事実である。
 
そしてワタシが言いたいのは、誰であれ、程度の差こそあれ、善悪の彼岸から自己中心的に得られる健康があ
 
るという事だ。だから、ワタシは努めて自己をむき出しにし、皮がかむらないように、ひたすら鋭敏でありたい
 
と思う。そうしないとどれがだれにとっての健康かわからなくなるからだ。
 
自己中の皮かむり様におかれましては、まず何よりご自愛ください。
 
乱筆にて失礼
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

伝え方

 
伝え方のうちで、一番高等な伝え方は、伝えたいことは何もないような伝え方だろう。
 
「自然が人間にとって心地よいのは自然が人間に対して何も意見しないからである」
 
みたいなことをニーチェが言ってるけど、そんな感じ。
 
「聖人は不言の教えを行う・・」
 
みたいなことを労使が、いや老子言ってるけどそんな感じ。
 
意見と言う形をとると、どうしてもわざとらしくなるので、どうしても伝えたい人にこれは極力避けたい。
 
どうしても伝えたい人には、言葉による以上に、普段からの自分自身の癖やしぐさで伝えねばならない。
 
意見をするのが癖になってしまっているのなら、それこそ一番に改めねばならない。
 
さすれば、どうしても伝えたい人は必ずや振り向いてくれるであろう。必ずや。
 
 
で、伝え方として一番下等でよろしくないのが、教師タイプの伝え方である。
 
そもそも、いびつな関係の上でしか成立しない伝え方であることに当人が全く気付いていないことが問題だが、
 
何より教師としてふるまえるのは他人にではなく、唯一自分に対してのみであるという事にも気付いてない事はさ
 
らに問題である。他人は人に教えられるのではなく、自分勝手に学ぶのである。
 
本来、己の身を挺して人様の教材とすべきところを、自分の意見と知識の披露でねじ込んでくる最も野蛮な伝え
 
方、教師タイプ。テレビも新聞もこんな奴らのご託宣ばっか。
 
真似したくない。
 
 

責任の取り方

俺は責任と言う言葉が嫌いです。
 
なんでかと言うとそれはスローガンと同じく、フィクションだからです。
 
それも呪詛がかった気持ち悪いフィクションだからです。
 
なんでフィクションかと言うと、ま、要するに一切の運命を制御することがかなわぬ人間に、その悪い結果だけ重
 
荷として背負わせようとしたとき、そこに何らかの正当性を求めなくては気が済まんだけの作り話だからです。
 
よく企業献金などで不祥事が起こりニュースになったりとかすれば、会社の社長や政治家やらは責任取って辞
 
めるわけですが、それを見ている我々は「ザマミロ」とばかりに溜飲を下げることはできても、この場合の責任と
 
言うものの発生源や最終的な帰属先を決定することなど本来、不可能なはずです。
 
そもそも、ある行為がある行為として立ち現れる要因と言うものには無数のバリエーションがある。
 
例えば同じ窃盗でも、万引き趣味による退屈しのぎの窃盗と、乳飲み子を抱えた貧しい母親がミルクを窃盗する
 
のでは行為が同じでも動機は違う。やってることは同じなのだから責任も同じでないとおかしいのだが、それで
 
は母親が哀れだという。
 
だから、「母親には情状酌量の余地があるが、万引き趣味には厳罰を!」と言うことになる。
 
実際、ここだけを見れば、我々の感情は母親の心情になることはあっても、万引き常習者の心情にはならない。
 
現実には社会的背景が異なる運命の糸が複雑に絡まり合い、いつ両者の立ち位置が入れ替わってもおかしくな
 
いのだけど、こうした人生劇場をを見る観客は我々の感情であっても、断じて想像力ではない。
 
感情はフィクションを現実のものとして取り込むことなど朝飯前。なのですっかり騙されて、歴史は繰り返すわけ
 
です。
 
だから、責任を取らせるなんて言うものはなるべくそれ以上考えずに、(考えてもわからないので)ただ憂
 
さ晴らしとしての効用を珍重しているすぎんのであります。我々はただ政治家や社長が責任をとるというフィクシ
 
ョンに満足しているだけなのです。
 
力でたたき伏せなくてはどうにもならん連中を相手に、こんなフィクションでは話にならんので、エライさんの
 
の処世術に過ぎない責任問題などはホンマどうでもええ。
 
重要なのは、フィクションではなく、東電・清水や勝俣をボコボコにして、こっちがスカッすることであります。
 
反原発の論者の中には、全ての騙された大人にも責任があるから、我々はその責任を取らなければならない、
 
と言う人もいますが、これはその人から全員に向けられた呪詛以上の意味は持たないでしょう。
 
なにせ、誰の手にも負えない物の責任を、全員に持てと言っとるのですから。
 
ただ憂さ晴らしがしたいだけなら、責任うんぬんより酒でも飲んでる方がはるかにましなのであります。
 
そして、清水・勝俣、その他テレビで見たことある御用のおっさん、おばはんを街中で見かけたら必ずボコボコに
 
することであります。こういうことを、大人げないからと言ってやらない大人は結局何にもやらない大人。
 
絶対ボコボコにして必ずムッソリーニの晩年にしてやることです。
 
 では。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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