何かする自由と、何かしない自由ちゅうのがある。
何かする自由は、刑務所の中にもあるし、全体主義の国にもある。
「それをするのは構わんぞ」と、許可された自由も何かする自由の方に入る。
反対に「それをしてはならぬ」と言われれば、それは即不自由、自由の制限以外の何でもない。
何かをしない自由がある例として恋愛を考えてみる。
ある日、普段気に留めたこともない女友達から、「あなたが本命です付き合って♡」と書かれたチョコをもらった
とする。困惑しつつも、恋愛の自由は、嫌だと思えばそれをしない自由が担保になってる自由であるから、断る
ことができる。逆に言えば断ることができるからこそ、本物の恋愛が育つ余地がある。
しかし、もしここに、断られた彼女がかわいそうだという風潮が沸き起こり、「同じ日本人なのに!」と罵られ、
「がんばろう日本」とか「絆」とかゴチャゴチャ言われ、「嫌や!」といえなくなってしまったならどうだろう。
好きでもない女といやいや付き合う事になり、もはや何が恋愛なのかわからない。
その一方で、自由な感覚というのは、不自由の中にあってしか感じられないもんであるから、たとえそれが与え
られた自由(制限された自由)であってもそれなりに自由は満喫できてしまう。
仕事後の解放感や達成感には、単に拘束が解けたことの喜びのほかに、不自由からくる嫌悪感を持つ自分から
一時逃れることができた開放感があり、それは一定の義務をこなすことで、自己嫌悪への免罪符を手に入れた
瞬間でもある。
職業選択の自由なんちゅうものがあり、義務教育があり、それらは自由を得るための権利として示されているけ
ど、これらは何かをする自由ではあっても、何かをしない自由ではない。
人間はこの手の何かをする自由を受け入れるかわりに、何かをしない自由を不問に付す。
いつもその方が楽だと思ってしまう。
楽な方を選ぶことができたので、自分には何かする自由が保障されている気にもなれる。
何かする自由が保障されてるからには、あとは個人の自己責任であるような気もしてくる。
脱落者や落伍者は単に自助努力が足らんかっただけのような気がしてくる。
やがて、不問に付した方の自由、日々見過ごしてきた自由、自分自身に問うことがなかった自由、それらが毎
日毎日、大多数のその膨大な積み重ねの上に、ある日突然、歴史上の大きな事件として跳ね返ってくる。
巨大な嫌悪感の塊となって人々に跳ね返ってくる。
結局、物事の成り行きを見て見ぬ振りすることができても、己の嫌悪感を見て見ぬ振りすることはできなかった。
結局、何かを受け入れる自由とは物事の成り行きを傍観する自由に等しかった。
結局、自分の嫌悪感を自覚したなら、最初から嫌だと言えばよかった。
”何かをしない自由”は刑務所にも全体主義の国にもない自由で、したがってこの国では絶滅が危惧され
る貴重なものである。
先日、小学校の先生が、何かの意見に反対するときは必ずその理由と代案を示せ、と子供に教えていた。
子供に嫌だという以上の理由なんぞあんのかいな。
代案を示せないやつの自由は認められないちゅうのも悲しいなぁ・・・。