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要するに、「仏教にとって、霊の存在が実際にあるかないかなんて、どうでもいいこと」なのではないでしょうか。だって、肝心なのは先ずは「無常」や「無我」をきっちり内面化することなのでしょうから(たぶんです。違ってたら本当にごめんなさい!)。全てが、それ自体に固有な本質的何かである「自性」(sva-bha:va。英訳でown-being)において「からっぽだ」(s~u:nya。英訳でempty)とするなら、その視線は、霊の実在といった事象もやすやすと回収するものであるはずですし、またそもそもその視線を発する本人にこそ最も苛烈に突きつけられ続ける(ふだん当然の前提としていられているような「私」は存在しない!)性質のものですので、そんな視線を有する人に霊の存在なんかにかかずらわっている暇は通常ないはずです(連日頻繁に霊に困らされて悩んでいるというケースは別ですが)。
“師(ブッダ)は答えた、「〈われは考えて、有る〉という〈迷わせる不当な思惟〉の根本をすべて制止せよ。内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ”(『スッタニパータ』第516詩。中村元訳『ブッダのことば』1992(第1刷1991、解説年1983)、ワイド版岩波文庫、p.200) なお、「ダライ・ラマだって霊魂の存在を否定している」とあちこちで吹聴なさっていたのもたしか宮崎哲弥さん辺りだったと記憶するのですが、その論拠とされたコメントは、以下のようなものでした。 “ダライ・ラマ 独立した我や霊魂というものは存在しません。仏教の考え方は脳についての科学的理解と極めて近い。これは仏教の利点の一つだと思います。/どこかに全てを司るモノがあるということはない。あらゆる意思決定は脳の様々な部位の共同作業によってなされるのです。これこそ縁起であり、創造主のような全てを司る中心的存在はないのです。”(08年1月号『文藝春秋』p.407) この、「独立した」という箇所が汲み取れるか汲み取れないかで、仏教理解の上では殆んど決定的ともいえるような大きな違いが生じてしまい得るとも思われるのですが、いかがでしょうか。 |
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