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スピリチュアルブーム批判を展開した識者のおひとり、宮崎哲弥さんは「仏教おたく」との立場から、次のようなコメントもされていました。
“だが、(筆者注。「絶対的な死」の恐怖を抱く)少数は確実にいる。わが本師ブッダがそうだった。「スッタニパータ」で彼はこう嘆いている。「ああ短いかな、人の生命よ、百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ」(中村元訳『ブッダのことば』岩波文庫)/本来の仏教は、余命や加齢とは関係のない「絶対的な死」を考えずにはいられない者のためにある。仏教のみならず、他の宗教も当初は「万人の必需品」ではなかったのでは?/ちなみに私は、先の「スッタニパータ」の一節をブッダが輪廻思想を本気で信じていたはずはない証拠の一つとみている。ブッダが生まれ変わりを信じ、それを中心課題に据えていたとすれば、短き生やその果ての死を、あえて言挙げする必要などないからだ。”(08年5月29日号『週刊文春』p.132) えっ!?その本でそんな印象、しなかった……というわけで出典を再確認してみました。 “ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ。/人々は「わがものである」と執著した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまっていてはならない。/人が「これはわがものである」と考える物、――それは(その人の)死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理〈ことわり〉を知って、わがものという観念に屈してはならない。”(『スッタニパータ』第804〜806詩。中村元訳『ブッダのことば』1992(第1刷1991、解説年1983)、ワイド版岩波文庫、p.181) うーん……先ず、「お釈迦さまが個人的慨嘆を思わず吐露」みたいな下りとはちょっと読めません。ただ単に生死に関する事実としての「苦」の一般論を述べて、「すべて無常です」「『わがもの』への執著を捨てましょう」「出家しましょう」と説かれているだけの箇所なのではないでしょうか。最初の一文はその枕ですので、“あえて言挙げ”する必要は、大アリなのでは。 [【2-2】に続く] |
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