|
それに対し今の日本で、輪廻や生まれ変わりといった語から通常喚起されるのは、「生まれ変わって、きっとまた君に逢いたい」的なロマンティックというかセンチメンタルというか、そういう「(せめてもの)希望」のような何かの託されたイメージだと思います。またそうした風潮を横目に、宮崎哲弥さんのような、「どうせ死んだってその先に続きがあるなら、死なんて怖くないはずじゃん」という思考回路を辿った覚えのある人も、きっとさほど少数派ではないのでは。
でも、「永遠に生まれ変わりを繰り返す」ということは、「永遠に死を繰り返す」のと同じです。何も「絶対的な死」なんてこ難しい抽象的なターム持ち出さなくても、「個別的な死」がじゅうぶんに恐怖と悲しみの対象であるなら、それを死後さえ延々と繰り返し体験し続けなければならないというのは――もう最凶に悲痛で不当な拷問、という感じがして来ませんか? つまり、着目されているポイントが違うのです。「何度でもまた生きられる」ではなく、「何度でもまた死なされる」。この恐怖と悲惨への認識を欠いたままで仏教成立期の事情をあれこれ推測しても、余り意義のある結論には帰着し得ないのではないでしょうか。 「否定」というのも、それが「実在の有無の判定」なのか、それとも「拒否や離脱の(意志・完了)表明」なのか、区別が必要かと思われます。 通常の理解としては、お釈迦さまはさとりをひらき、輪廻から解脱した、ことになっています。ですから、「さとり後」のお釈迦さまも輪廻(や当然、死)への恐怖や悲しみに案じた、というシナリオはありえなかったのでしょう。しかしそれは「実在の有無の判定」としての「否定」ではなく、「離脱の完了表明」としての「否定」です。 またそうであれば、「さとり前」たる我々一般凡夫はまだ、厳然として輪廻の只中にある、ということにもなります。けれどもお釈迦さまの後に続き、そのさとりを目指すという仏教徒の「否定」、これもまた「拒否や離脱の意志表明」としての「否定」です。 「自分は最初から輪廻の実在なんて認めていないから、自分はさとっている」というのも、また「お釈迦さまは輪廻を超えたんだから、自分も(さとってはいないが)超えたことにしておく」というのも、きっと仏教徒としては本来おかしな考えとなってしまうでしょう。 [【2-4】へ続く] |
宗教関連
[ リスト ]





