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「仏教おたく」との立場からスピリチュアルブーム批判を展開された宮崎哲弥さんは、【1-1】で引用させて頂いた『週刊文春』記事(06年10月5日号、p.123)にもある通り、どうやらその論拠を秋月龍ミン『誤解された仏教』(2006、講談社学術文庫。『誤解だらけの仏教』1993、柏樹社の改題・文庫化)に大きく置いていたようです。
そこで一応その本も先程、読了したところなのですが―― “はっきり知っていただきたいことは、「仏教には無我にて候」(蓮如)である、ということである。(中略。お釈迦さまは)「無我」説を主張されたのである。「自我」ないし「霊魂」の存在をはっきり否定されたのである。だから、もともとない霊魂が祟るはずなどあり得ない。”(p.22) “釈尊も確かにヒンドゥ思想伝来の輪廻説から出発した。ただし釈尊の問題は、そうした輪廻転生の生死〈しょうじ〉(中略)の苦からの解脱にあった。釈尊は菩提(悟り・覚)によって仏陀(悟った人・覚者)となって、生死を解脱した。だから、悟ったのちの釈尊が、輪廻説などに立ったわけはない。「後有〈ごう〉を受けず」と宣言したゆえんである。”(p.25) “釈尊は「霊魂」について何も語らなかった。その意味で、仏教ははっきり「無霊魂」論だといってもよい。/先に「仏教は〈無神論〉である」といったときも注意したように、ここにいう「無霊魂」論というのは、あくまで私のいういい方でという限定つきでの話である……。/ほんとうは、仏陀は「〈霊魂〉はない」といったのではない。実は〈有る〉とも〈無い〉ともいったのではない。「私にはそんなものは問題でない」といわれただけである。/こんな話がある。(中略。「毒矢のたとえ」。【1-4】参照)これが有名な「毒矢の喩え」である。「霊魂」とか「死後の世界」とか、いや、有限か無限かなどという、無用の形而上学的問題には関わっているひまなどない(これは答えられない、というより答えないのである。これを「無記」という)。大事なのはまず毒矢を抜くことだ。先ず即今〈いま〉の人生苦の解決という実存の問題の処理である――それが仏陀が教えたところの大事であった。”(p.55〜56) はっきり言って、宮崎さんがこの本をちゃんとお読みになり、なおかつ誠実さを以て引き合いに出されたとはとても思われない、そんな……そんな良書でした。 |
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