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4月8日、今日は何の日?と問われて、
ピンとくる人はどれくらい居るでしょうか。
それでは12月25日は?と問われれば、 日本人のほとんどが、イエス・キリストの誕生日と答えることができるでしょう。 4月8日は花祭りの日です。と言っても、 まだ?な人が多いのかもしれません。
答えを言ってしまいますと、
今日は仏教の開祖である釈迦(しゃか)が生誕した日なんです。 イエス・キリストと比べると、 誕生日の盛り上がり具合に、どうしてこれほど差があるのか… まあ、いわゆるクリスマスは資本主義社会の商業ベースに しっかりと乗っかっているのに対し、 花祭りはそうではない…ということもあるんでしょう。 あとキリスト教と仏教の世界史的な影響力 (宗教の教義としての優劣ではない)もあるのでしょう。 釈迦は紀元前5世紀、今から二千数百年前に生まれたとされますが、 その実像はベールに包まれています。 生まれた時に、右手で天を指し、左手で地を指して、 「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん) と言ったという伝説めいた逸話に象徴されるように、 一時期はその実存さえ疑われていた時代もあったそうです。 仏舎利(ぶっしゃり)というものがあります。 入滅した釈迦が荼毘に付された際の遺骨などのことを言いますが、 世界各地の寺院におさめられています。 日本の寺院にもあります。 ところが世界中にある仏舎利を合わせると、 象ほどの骨の量のものが集まってしまうとか。 とにかくこの話に象徴されるように、 釈迦の実像は残ったものからは ほとんど窺い知ることができないのです。 しかし、釈迦の残したといわれる言葉が残っています。 釈迦本人の説法に最も近いものとされる言動を 収録した本が出版されており、 それを読んでみると、 後世の人間が後付けした聖人然とした釈迦像ではなく、
生の釈迦の姿のようなものが、 おぼろげながら見えてくるような気がします。
そこに浮かび上がる姿というのは、 冷徹な理論家であったり、人々から祭り上げられるカリスマの光を放っているというような、 クリーンできらびやかな宗教家の姿ではありません。 自分の足で、一人でも多くの人間に会いに行き、 会った人間と、とことん問答し、 その中でひとつひとつ真理を見いだしてゆく、 いわゆる実践家としての姿が浮かび上がります。 「過去を追うな。未来を願うな。 過去はすでに捨てられた。未来はまだやってこない。
だから現在の事柄を、それがあるところにおいて観察し、 揺ぐことなく、動ずることなく、よく見極めて行動せよ。 ただ今日なすべきことを熱心になせ。」 この宗教を信仰すれば、あなたの未来は薔薇色ですよ。 というような安易なことは決して言いません。 じっくりと地に足をつけて今をひたすら生きよ。 これほど実践的で、この世の幸せを追究した実(じつ)の思想があるでしょうか。 また釈迦は一般の人にもわかりやすいように、 このような譬えを用いて、人々に警告します。 「学ぶことの少ない人は、牛のように老いる。 彼の肉は増えるが、彼の知恵は増えない。」 今聞いても思わずドキッとするような警句です。 「愚かな者は生涯賢者に仕えても、真理を知ることが無い。 匙(さじ)が汁の味を知ることができないように。 聡明な人は瞬時(またたき)のあいだ賢者に仕えても、 ただちに真理を知る。舌が汁の味をただちに知るように。」 自分自身が聡明な知恵のある人間にならなければ、 仮に賢者と生活を共にしたとしても それは全く無意味なことだと釈迦は言います。 では聡明な知恵のある人間になるには、どうすればいいのでしょうか。 それに対し、釈迦はこのように答えています。 四方のどこにでも赴き 害心あることなく 何でも得たもので満足し 諸々の苦難に堪えて 恐れることなく 犀の角のようにただ独り歩め 寒さと暑さと 飢えと渇え(かつえ)と 風と太陽の熱と 虻と蛇と これらすべてのものにうち勝って 犀の角のようにただ独り歩め 貪ることなく 詐る(いつわる)ことなく 渇望することなく (見せかけで)覆うことなく 濁りと迷妄を取り去り 全世界に妄執のないものとなって
犀の角のようにただ独り歩め 最高の目的を達成するために努力策励し こころが怯むことなく 行いに怠ることなく 堅固な活動をなし 体力と智力とを具え 犀の角のようにただ独り歩め ちょっと宮澤賢治の「雨ニモ負ケズ」の詩を彷彿とさせるものがあります。 宮澤賢治の詩も「(自ら)行ッテ(物事を為せ)」という実践の精神によるものでした。 http://blogs.yahoo.co.jp/no1685j_s_bach/7640478.html この釈迦の言葉はそれと全く同意義に感じます。 「犀の角のようにただ独り歩め」 というのは、犀は動きの鈍(のろ)い動物の代表みたいなものですが、 その角は頭の前についているものです。 ですから、ゆっくりでもいいから一歩ずつ一歩ずつ、 犀の角のように、ただひたすら前を向いて歩んで行け というようなことを意味しているのだと感じます。 釈迦は、その死の直前に次のように弟子達に語ったといいます。 「私が地上を去った後も、 あなた方は、長年私が説いてきた教えを、心の糧として生きていけ。 私の教えを心の糧として、 誰に照らしてもらうでもなく、自分自身で心に灯をともして,
自分自身の行く先を照らしてゆけ。
自分の心に法灯をともして、しっかりと生きていけ。 私が説いてきた教えは、自分をつくる教えであり、 自分をつくりつつ、他人を救っていく教えである。
もろもろの事象は過ぎ去るものである。 怠ることなく修行を完成させなさい。」 誰でもない、自分自身の力で自分の心に灯をともして 歩んでいかなければいけない。
常に、真理の光で、自分自身の心にともった灯を磨き、 より大きく輝かせなければいけない。 そしてその灯で他人を明るく照らし、 その人自身も自らの灯をともして歩んでゆけるよう、助けてあげなさい。 時はすぐ過ぎ去ってしまい、 油断していると、自分の心の灯はどんどん小さくなっていってしまう。 だからゆめゆめ修行を怠らず、心の灯を絶やさないように精進しなさい。
いかがでしょうか。 若干自分の意訳も含みますが、 今までになかった釈迦像が、皆さんの心の中にイメージできたでしょうか。 そのようなものが少しでも浮かんでいただけたなら、 仏教の寺の家系の端くれとして、嬉しい限りです。 |
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Dangoさん、
今この記事を読み返すと
ちょっと文章長すぎた(-.-;)
ものすごい間延びしてしまっています(^^;)
でもどうしても釈迦の言葉を皆さんに伝えたかったんです。
釈迦の言葉には力があります。
光があります。
ですから釈迦の言葉は生き残るでしょう。
日本仏教はわかりません。
たずさわる人の悟り次第、精進次第だと思います。
2013/4/17(水) 午前 8:30 [ もたんもぞ ]
こんにちは〜
不勉強のためコメントが降りて来なく、さかのぼってお邪魔しました(汗
近所のお寺では、その1年の間に生まれた赤ちゃんの「初参式」と、音楽法要として ハンドベルの演奏をします。
子どもたちに混じり、母親たちも続けています。
昔若妻、今はばぁばになった人もいますが(笑
自分自身で心に灯をともして,自分自身の行く先を照らしてゆけ。
深い言葉ですね。
2013/4/17(水) 午後 0:27 [ 白玉 ]
白玉さん、なにかの巡り合わせで小難しい記事ばかりになってしまい
申し訳ありません(^_^;)
週末ちょっと楽しい記事も書こうと予定しています。
「自分自身で心に灯をともして、自分自身の行く先を照らしてゆけ。」
記事で紹介した釈迦の言葉で、
この言葉が最重要なものに自分は感じます。
誰が照らしてくれるわけでもない。
自分の心に灯りをともして、それを頼りに人生を歩んでゆく。
これこそが究極の人生の極意だと感じますね。
2013/4/17(水) 午後 3:21 [ もたんもぞ ]
上の続きですが、宗教の目的は「魂の救済」となっています。
つまり死後に天国へ行けるだとか、悟りを開いて解脱するとか、永遠の理想郷へ行けるとかそういった類の、最終目的の事ですね。
それで教義の性質や種類を大別すると、予定説と因果律に分かれます。
予定説は今の所キリスト教しかないようですが、「救済されるかどうかは既に生まれる前より神によって決められており、善人か悪人かなんて一切関係がない。」という、とても乱暴で恐ろしい論理です。
救われるか救われないか、全ては神の胸三寸次第であり、善行を積もうが悪行三昧を働こうが、神が定めた予定に変更はない、というものです。
だから最後の審判で、善人が永遠の死を与えられる事もれば、悪人が永遠の生を与えられる事もあると。
キリスト教とは元来はこういうとんでもない教義の宗教で、後世その実態をごまかしてばかりだと。
そこが同じ一神教でも、ユダヤ・イスラム教とは大きく異なる点でしょうか。
それにユダヤ・イスラムとは違って、キリスト教には戒律らしい戒律がないですし。
2013/4/17(水) 午後 6:59
浄土宗や浄土真宗は、「南無阿弥陀仏を唱えれば(唱えなくても)、阿弥陀如来が否応なしに救ってくれて、極楽浄土へ行ける。
例え行きたくないと思っていても、強制的に連れて行ってくれる。」という、キリスト教とは間逆の予定説です。
そこが浄土宗・浄土真宗があらゆる仏教諸宗派の中でも特異な点です。
キリスト教と同じく、戒律らしい戒律がないですし。他の諸宗派は因果律なのにね。
だからこそ私は上で、
>特に浄土宗に浄土真宗なんて、あれらはもう戒律を完全否定な上に、ユダヤ・キリスト・イスラム教と同じ一神教ですし(笑)。
>特にキリスト教と全く同じ物だと見て良いでしょうね。
と言ったのです。
さてもう一方の因果律とは「原因があるからこそ結果がある」というもので、「救済されるにはこれこれをやれ、どれそれをしちゃいけない」と、救済の為のマニュアルがあり、それらを遵守・実践する事で救済へと近付いて行き、最終的に救済されるという類のものです。
そして禁忌を破れば地獄行きとか。だから仏教なんてその最たるものでしょう。
2013/4/17(水) 午後 7:01
ユダヤ教も「唯一神」ヤハウェとの契約である戒律を守る事で、約束の地カナンへと導かれる事が最終目的です。
しかしヤハウェとの契約(戒律)を破ってはヤハウェの怒りに触れ、その神罰としてジェノサイド(大虐殺)を何度も繰り返されたり。
イスラム教も基本的には戒律を守り、実践する事で、死後に永遠の楽園(名前忘れましたが)へ行けるというものです。
だからユダヤ・イスラムも仏教と同じ因果律です。
儒教も因果律です。天子とか為政者に徳があれば、政治だけでなく自然界も順調に回転し、徳がなければ政治が乱れるだけでなく、天変地異が起こると。
だから因果律とは「良因良果、悪因悪果」という性質の教義です。
そして救済の単位が「個人」か「集団」か、ですが。
ユダヤ教は集団救済です。ユダヤ民族やユダヤ教徒全員を一斉に救うというものですから。
儒教も集団救済です。天下全体を一時に救済するもので、個人の事情などに一々構ってはくれません。
それに比べてキリスト教・イスラム教・仏教は個人救済です。
2013/4/17(水) 午後 7:02
各個人の信仰心とか、教義の実践具合が問題となるのであって、祖先や子孫や家族などは無関係であり、「先祖の因縁」とか、「親の因果が子に報い」とか、「子孫にまで祟る」なんて事はありません。
だから例え先祖や子孫が救済されなくとも、自分は救済されるし、反対に自分は救済されなくとも、先祖や子孫は救済されなかったりと。
ただ、仏教も元は個人救済でしたが、後に改良(?)されて集団救済の仏教も作られました。「大乗仏教」と呼ばれる諸宗派です。
大乗仏教の「大乗」とは、「大きな乗り物」という意味だそうで、個人救済の宗派を見下して「小乗仏教」と呼んだりします。
つまり人々を救済するのを、乗り物に乗せて運搬する事に喩えて、自分たち(大乗)のは「一度に大人数を乗せて行ける、船や飛行機やバスや電車のような大きな乗り物」だとし、個人救済の宗派(小乗)を「駕籠やバイクや自転車のような一人乗り用の小さな乗り物」という意味だそうです。
以上ですが、そういう分類法もあるのです。
2013/4/17(水) 午後 7:04
ZODIAC12さん、
丁寧にいろいろありがとうございます。
おかげでいろいろと整理することができました。
宗教というのはやはり世俗的権力と結びついてしまうと、
より大きな権力を手に入れようと
その教義なども、なるべく多くの人間を取り込むように
解釈されてしまったり、改変してしまったりするところがあるようです。
多くの人を取り込めるのだから、
魅力があるようにも感じますが、
人々の不安や恐れにつけ込んだりなど、
必ずしも多くの宗徒イコール魅力的な教義というわけでもないようです。
日本でなにげに多いのは、自分の家がずっとこの宗派(お寺)だから…
というのが意外に?一番多いような気がします。
江戸幕府は寺を檀家制度により民衆を管理させ、寺は今でいう市役所のような役割を果たしていたわけで、
そういう意識がずっと続いてきているような。
お寺さんも江戸時代の残映たる檀家制度で
黙っていても食うには困らないですから、
まあ、精進を怠ってきたお坊様も少なからず
いらっしゃるように見受けられます。
(続き)→
2013/4/18(木) 午後 0:13 [ もたんもぞ ]
(続き)→
では庶民の我々は何を頼りに日々を歩めばよいのかですが、
やはり多くの人の手が加えられていない
一番最初に最も近い言葉によるのが
ひとつではないかと思うんです。
例えて言えば、ツナばかり食べていて、
これがマグロの味かと信じ込んでいた人に
生の刺身を食べてもらって、
最も元の味、オリジナルな味のようなものを味わってもらう。
そうすることでツナの味の立ち位置のようなものもわかってくるというか。
少なくとも今回、元の、本来の手を加えていない味ようなものを味わっていただいて、
ある種の「新鮮さ」みたいなものを
感じていただけたのではと思います。
2013/4/18(木) 午後 2:42 [ もたんもぞ ]
>宗教というのはやはり世俗的権力と結びついてしまうと、より大きな権力を手に入れようとその教義なども、なるべく多くの人間を取り込むように解釈されてしまったり、改変してしまったりするところがあるようです。
>多くの人を取り込めるのだから、魅力があるようにも感じますが、人々の不安や恐れにつけ込んだりなど、必ずしも多くの宗徒イコール魅力的な教義というわけでもないようです。
宗教というのは人工的なものですから、どうしても不自然さがどこかに出てしまいます。
今のキリスト教、イエスが唱えたものとは全く別物だそうですし。
弟子のパウロが狂信的な性格だから、イエスの教えを歪めてしまったとか。
現在のキリスト教はイエスの教えを歪めたパウロの唱えた教義がベースになっているみたいで、実質的には「パウロ教」とでも言うべき代物だそうです。
ゲルマン民族に布教する時に、祖先崇拝の強固なゲルマン民族には最初は拒絶されました。
2013/4/25(木) 午前 10:06
宣教師がゲルマン人に、
「信仰しない者は地獄へ落ちる」
なんて言ったものだから、
「じゃあその神を知らなかった俺たちの祖先は皆、地獄へ落ちたと言うのか?」
「そうなるな。」
「だったら俺たちは、そんな神など信じたりしないぞ。祖先のいない天国へ行くよりも、祖先がいる地獄へ行きたい。」
と言い、宣教師がほとほと困ったと。それでその妥協案として、
「アンタらの祖先は天国には行けなかったものの、地獄の一歩手前の「煉獄」という世界にいる。」
というおかしな代物を拵えました。煉獄なんてそんなもの、聖書のどこ探したって書いてないのに(笑)。
昔のカトリック教会の涙ぐましい営業努力ですよ(笑)。
2013/4/25(木) 午前 10:08
フランシスコ・ザビエルだったか、他のイエズス会の宣教師だったか、戦国時代に日本に来て、無学無教養な庶民を相手に布教をしたものの、教義上の矛盾を指摘されて反論に詰まったりとか(笑)、日本人は昔から知的レヴェルが高かったです。
そして新井白石とイタリア人宣教師シドッチとの有名な遣り取りで、白石がシドッチを論破したりと。その詳細は↓↓です。
http://www.geocities.jp/todo_1091/bible/night-tale/011.htm
2013/4/25(木) 午前 10:09
弓さん、自分が読んだ本は、
「ブッダのことば スッタニパータ」岩波文庫 中村元
というものです。
普通に書店においてあるようなので、
興味があったらご覧になってみてください(^^)
2013/4/25(木) 午前 11:51 [ もたんもぞ ]
ZODIAC12さん、おっしゃる通り、現在我々が読むことができる聖書は
パウロの影響を受けているといえるでしょう。
キリスト教(カトリック)はローマ帝国による国教化以来、
ずっと世俗的な権力に深く結びついてきました。
ですからそういう時代時代の世俗的理由で、
イエスの言った言葉も変容を受けてしまっていることも
多々あるのでしょう。
日本は古来から仏教というものが諸派にわかれて深く根づいていましたから、
宗派ごとの主張の区別くらいは、
普通の民衆もできたのかもしれませんね。
そういう意味ではアフリカや東南アジアなどの
当時の素朴な民間信仰みたいな宗教を信じる人々とは違っていたのでしょう。
それがよいかどうかはまた別問題ですけれども。
新井白石とシドッチのやりとりは自分も読んだことがあります。
学者でもある白石はどちらかというとカトリックの教義より
西洋の博物学的なものに興味をもったようですね。
その人物を惜しんだようです。
2013/4/25(木) 午後 0:05 [ もたんもぞ ]
今も盛んな聖母マリア信仰はもともとのキリスト教にはなく、
というかイエス自体の言葉で、マリアの神性を明確に否定している聖書の記述もあるくらいで、
もともとはゲルマン人の女神信仰に引っ掛けて、
ゲルマン人布教の際に、マリアの存在を押し出したということがあるようです。
女の神という存在は素朴で原始的な母胎信仰のような感じで
世界の各地にあったようで、
マリアを前面に押し出すことは
非常に有効な部分があったようです。
それは日本でもそうでして、
宣教師の日記には、イエス及びその父たる神よりも
母マリアを信仰してしまうので、
困っているという記述があったとか、なかったとか。
2013/4/25(木) 午後 0:14 [ もたんもぞ ]
「戒律」という言葉も元は仏教用語ですね。「戒」と「律」に分かれていて両者は全く異なる概念です。
「戒」が仏教徒として絶対に守らなければならないルールで、「律」がそれぞれのサンガごとのルールです。
ちなみに御存知かも知れませんが、「サンガ」とは「共同体」「出家者の集団、教団」の事で、漢音訳すると「僧伽(そうぎゃ)」となります。「僧」「僧侶」の語源ですね。
例え「律」は破ったとしても、「戒」は決して破ってはなりません。
何故なら律、つまり各サンガごとのルールを破ったとしても、罰としてせいぜいそのサンガから追放されるだけで済みます。
そうなっても他所のサンガに新しく所属する事が出来ます。まあ必ずしも受け入れてくれるとは限りませんが。
けれど全仏教徒共通のルールである戒を破ってしまったら、もう仏教界から追放となり、どこのサンガでも受け入れてくれなくなります。だから戒を破るのは致命的です。
シャカが開いた悟りと、デカルトの有名な言葉「我思う。故に我あり。」というのは、全く同じものだと聞いた事がありますが、もたんもぞさんは聞いていますか?
2013/5/16(木) 午後 2:53
ZODIAC12さん、
いろいろ丁寧な説明ありがとうございます。
戒律や僧侶のお話は、あーそういえばそうだったかな?
くらいの知識定着率です。
自分、どちらかというと本能のおもむくまま生きているので(笑)
でもデカルトと釈迦が似たことを言ったというのは
感覚でピンとくるものがあります。
ついでにいいますと老子もそうなような気がします。
要は無駄なものを削ぎ落として削ぎ落として、
最後に残ったものが本質的なものだから
それを大切にしろってことを言っていると思うんです。
その最後に残ったものが何かというのは、
いろいろ説明の違いはあるでしょうけど…
と自分的には認識しています。
2013/5/16(木) 午後 3:33 [ もたんもぞ ]
4月8日の花祭りは、実は結婚するまで知りませんでした。
妻が寺の娘なもので、知った次第ですが、
それでももう20年以上も前のお話ですが・・・
一部の宗教学者の間では、仏教はそもそも宗教なのかと言う
議論もありますよね。
自助の精神の集大成ともいえる側面があり、
それは宗教でなく、哲学であると!
実に面白いうと思ったことがあります。
あるがままに受け入れることは、やはり日本の原始宗教と
結びつきやすかったろうと思わざるを得ません。
2014/3/27(木) 午前 5:06 [ gak*1*66* ]
哲学と宗教というのは人間というものを掘り下げる点については共通しており、
いろいろな区別があるとは思うのですが、
自分なりに考えますと、
哲学とは人の心の内奥を探究し、その構造を解明することに力点を置くもの、
宗教とは人を救済する点に力点を置くもの
というように捉えています。
とするならば、この記事に掲載した釈迦の言葉を仏教の原典、本質と捉えるならば、
やはり仏教は宗教であると感じます。
なぜならそこに書かれている言葉は、
平易な言葉で末端の人々まで救おうという
温かい思いに満ちていると感じるからです。
2014/3/27(木) 午前 5:37 [ もたんもぞ ]
こんばんは。
そうでしたか、
仏教の寺の家系の方でしたか。
お仕事ご苦労様です。
クリスマスにお仕事。
いっそう頑張ってる感がでて、
カタルシスあるかもです。
2018/12/23(日) 午後 7:04