らんどくなんでもかんでも 8

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「信長公記」太田牛一 ケータイ投稿記事

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ときは今
天(あめ)が下(した)しる
五月哉(さつきかな)



備中高松城で毛利と対峙している羽柴秀吉救援のため、
出陣直前の明智光秀が詠んだ歌。

新暦に直すと6月のちょうど梅雨真っ只中の今時分のこと。

一見、梅雨の時節の雨の情景を詠んだ歌にも思われますが、
土岐(とき)氏末裔の明智が、今こそ天下をおさめるという思いを露にしたものともいわれています。

この数日後、明智光秀は京都本能寺に乱入し、天下統一目前の信長は非業の死を遂げました。


ところで、この本能寺の変については、その時の信長の様子が事細かに世に知られています。



既に信長公御座所本能寺取り巻き、勢衆、四方より乱れ入るなり。
信長も御小姓衆も、当座の喧嘩を下々の者共仕出し候と思食され候の処、
一向さはなく、ときの声を上げ、御殿へ鉄炮を打入れ候。
是れは謀叛歟、如何なる者の企てぞと御諚の処に、
森乱申す様に、明智が者と見え申候と言上候へば、
是非に及ばずと上意候。
透をあせらず、御殿へ乗り入り、面御堂の御番衆も御殿へ一手になられ候。

(中略)

信長初めには御弓を取合ひ、二・三つ遊ばし候へば、
何れも時刻到来候て、御弓の絃切れ、
其後御鑓にて御戦ひなされ、御肘に鑓疵を被られ引き退き、
是れまで御そばに女共付きそひて居り申し候を、
女はくるしからず、急ぎ罷り出でよと仰せられ、追ひ出させられ、
既に御殿に火を懸け焼来たり候。
御姿を御見せ有間敷と思食され候歟、
殿中奥深く入り給ひ、内よりも御南戸の口を引き立て無情に御腹めされ候。




明智勢は完全に本能寺を取り囲み、四方から乱入してきた。
信長も小姓たちも、下々の者らが喧嘩を始めたぐらいに思っていたが、
やがて鬨の声や鉄砲の響きを聞くに及んで、
信長は、

「これは謀反か。誰の企てだ。」

と仰せられた。

それに対して、森蘭丸が

「明智の者と見ました。」

と答えたところ、

「是非に及ばず。」

と言って、ただちに御殿に入った。

表御堂の番をしていた者たちも御殿の人々に合流した。

(中略)

信長は、初めは弓を持ち、二度三度それを射たが、弓の弦が切れてしまった。

その後は、槍をとって戦ったものの、肘に槍疵を受けたため退いた。

この時まで側に付き添っていた女房たちに、

「女は苦しからず、急ぎ、罷り出よ」

と仰せになって、脱出を促した。

御殿には火が燃え広がり、自身の姿を見せまいと思ったのか、
殿中の奥深くに入り、内側から御納戸の口を引き立てて、
無念にも御自害なされた。




まるで、その場にいたかのような臨場感あふれるこのエピソード。
実は、これは太田牛一という信長に仕えていた武士が、
本能寺の変から数年して、実際に本能寺の変から逃げ延びた人を探し求めて、
事情を聴取し、それを書き取ったものなのです。

太田牛一は、信長がまだ桶狭間の戦いの前のごく若い頃から、その間近で仕えていました。
最初は弓の名手として、後には事務官僚として、信長の傍らにて活躍しますが、
計数などを扱う事務は彼の性に合っていたのでしょう。
彼は、若き頃から、日々会った人物の名前、見たものの大きさや数や配置など事細かに、
克明に日記に書きつけるのを常としていました。


その彼が、本能寺の変後、長く仕えた主君織田信長のことを、
世に知らしめようと書き記したのが、今回紹介する「信長公記(しんちょうこうき)」です。

彼は序文でこう述べます。


毎日書いていたものが積み重なり、このような形になった。

私の書くものに作り話は一切ない。
もし一つでも偽りを書けば天罰を受けるであろう。


信長公記は、基本的に、編年体で1年1冊の形で織田信長の事跡を書き表しており、

全部で16冊に及びます。
太田牛一は取材や聞き取りに時間を費やし、20年をかけて、それを完成させました。

信長という人は、さまざまな創作においてデフォルメされていて、
彼ほど色々と知られていながら、その実像が分かりにくくなっている人物もおりません。 
贔屓も多いが、アンチも多い人物で、
シンパから言わせると、神のような存在ですが、アンチから言うと悪魔のような魔王。


しかし、どちらもその真実を伝えてもいないと自分は感じます。
語る者の偏(かたよ)った思い入れが、このようなデフォルメを助長しているのだと思うところがあります。

しかし、太田牛一の記述には、対象に対する客観的な観察があります。
そして、それは彼自身も言っていますが、
それは、毎日の細やかな観察の書き付けが積み重なったもの。
今以てなお、信長公記が、織田信長に関する第一級の資料とされる所以です。

なによりも自ら名付けた信長「公」記という題名に、

太田牛一の心意気がかいまみえるではありませんか。

この牛一の著書を、「愚にして直」と評し、批判する向きもありますが、
むしろこれは端的に彼の特長をとらえた褒め言葉ではないかとすら感じます。


実際に信長がどういう人間だったかということを知りたい方は、
まずもってこの「信長公記」をお奨めします。

世に知られた桶狭間の戦いや長篠の合戦、

本能寺の変後、焼失してしまった安土城の詳細な様子、
信長と家臣、民衆たちとのふれあい、敵方とのやりとり、人質になった人々の悲しい最期など、
戦国に生きた人々の息づかいが思わず聞こえるような作品です。
何か特別なレトリックを用いてるわけでもない淡々とした文章なのですが不思議な感じすらします。
観察の妙とでもいいましょうか。

これを読んでみれば、きっと、知ってるようで知らなかった信長の姿が、
読む者の目の前に現れてくるものと思います。


なお、その他に、その人物の素の姿を表すものとして、手紙が挙げられると思います。
特に内々にインフォーマルに出されたものについては、
その人の性格が如実に表れていることがあります。
以前秀吉の妻おねに信長が送った手紙の記事を書いたことがありますので、
それも併せて掲載しておきます。








閉じる コメント(29)

> 花子さん
豊臣秀頼も織田信長も共に自害した遺体が見つかっていないんですよね。
ですから、ひょっとしたら・・・という思いが、いろいろなファンタジーを生む気持ちわかるような気がします(^-^)
それを想像するのは歴史ファンとしても愉しいものです。

2016/6/26(日) 午後 5:51 [ もたんもぞ ]

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信長公記、面白そうですね。信長って遺体が出てこなかったといわれていて、光秀が必死に探したが見つからなかったそうですね。
生存説もあり、その辺も興味があります。
ただ、多くの証言者、目撃者がいるんで生きてはいなかったと思いますし、自害したあと側近が痕跡をなくしたのが真相でしょうね。

2016/6/26(日) 午後 6:08 atts1964

> kn172514さん
信長公記の信憑性についてもいろいろ言われていますね。
死んでいたはずの人物が登場している、日にちの辻褄が合わないなどなど。
確かに記憶違いということはあるかもしれません。
それに太田牛一は信長の家臣だったので主君びいきなところもあるでしょう。

しかし、それを差し引きしても、
自分が読んでみて、その歴史的価値は非常に高いと感じます。
太田牛一には対象を客観的に観察する視点が感じられますし、
彼は20年をその著作のためにかけており、事象の確定にとても慎重です。
ぜひ一読をお奨めしたいですね。

2016/6/26(日) 午後 6:39 [ もたんもぞ ]

> チャー坊さん
織田信雄の末裔の御当主が信孝氏というのは、ちょっと因縁めいたものを感じます(^_^;)

信長が普通の人であるはずがない。というのは自分の持論です。
信長の感性というのは並外れたものがあります。
それが正しいかじっくりと自ら検証して行動に移していったクールな視点もあります。
信長の発想は並外れているがゆえに家臣といえども理解できている人はあまりいなかったでしょう。
だから、信長は合議で物事を決めなかった。
彼の発想は頭にある構想のうちは理解されないだろうと彼自身思っていたでしょう。
家臣たちも訳のわからないまま引っ張り回されて、
半信半疑で言う通りにして、
気付いたら信長の言う通りの結果になっていたというところではないでしょうか。

2016/6/26(日) 午後 6:58 [ もたんもぞ ]

『信長公記』も太田牛一も名前は知ってますが、一度も読んだ事ないですね。だから書物に関しては何とも言えません。


信長はあらゆる面で規格外の天才だったと思います。そして日本史上のみならず、世界史上でも特筆大書すべき存在だと思います。
だからこそ同時代人は信長の思考や行動を理解出来なかったでしょうね。やはり天才を理解できるのは天才のみ、なのでしょうか・・・

そしてこの本能寺の変の真相が、未だにハッキリ結論出てないんですよね。
光秀を裏で操ってた黒幕は京の公卿衆だったと言われてますけど、私は黒幕なんていなかったんじゃないかと思います。

2016/6/26(日) 午後 8:28 ZODIAC12

そしてこの事件を家康は教訓にしたのです。
現当主(信長)だけでなく、現場から近い場所にいた世嗣ぎ(信忠)まで一緒に殺されてしまいました。
これが祟って織田家は跡目争いの内紛状態、ついには秀吉に乗っ取られてしまいました。

だからこそ家康は天下を取った後に、「江戸の現将軍」と「駿府の大御所」というふうに、二頭体制を布いたのです。
万一何か変事が起こった時に、一所に両者がいると、どちらも討たれる恐れがあるので、その為のリスクヘッジです。
どちらか一方でも生き延びられれば、何とか持ち堪えられますから。


さて、当方から拙記事をTBします。
京都旅行へ行った折に、本能寺へ足を運びましたので。写真も3枚ばかり掲載しました。

2016/6/26(日) 午後 8:29 ZODIAC12

> ぼたんさん
本能寺のお笑いのネタ、今回、この記事を書いた時初めて知りました。
こんなの流行っていたんですね(^_^;)

今でこそ映像などもありますが、昔はそういうものもありませんから、
確かに想像は膨らむところはあります。

自分が興味あるのは、信長は一体どんな声だったのかということなんです。

2016/6/26(日) 午後 10:04 [ もたんもぞ ]

> 明智紫苑さん
自分の御先祖も美濃の明智郡の出自ですけれど、
寺を焼かれた武田家に恨みはあっても信長公にはそのようなものはありません(笑)

信長と曹操、確かにタイプは似てるかも。
あと、高杉晋作、平清盛あたりも同系列かも。

2016/6/26(日) 午後 10:09 [ もたんもぞ ]

> morinomituさん
信長はサディスティックというよりは、
感性の鋭い人に有りがちな敏感さといいますか、そういうものを感じます。
それに触ったら最後、手がつけられなかったかもしれませんね。
信長の感性は独特のため、その思考の源がどこから出ているのかわからず、
まわりの人々はおろおろするばかりだったのかも。
三英傑の中ならば、秀吉をお奨めします。
信長は予測不能、家康はコンプレックスなのに比べ、
マメで気配りがある。現代女性にも適応できる柔軟性が感じられます。
一番コミュニケーションがとれるのは秀吉でしょう。

2016/6/28(火) 午前 8:39 [ もたんもぞ ]

> リリィで〜すさん
信長公記読みましたか(^-^)
盆踊りの時、村の長老たちに団扇であおいであげたり、
大蛇がいるという噂の池に自ら飛び込んで探しに行く話など、
面白い話もたくさんありましたよね。

2016/6/28(火) 午前 8:47 [ もたんもぞ ]

> atts1964さん
本能寺における信長の死は彼らしいエピソードに溢れていますね。
最後に発したとされる言葉「是非に及ばず」。
非常に信長らしい言葉ですし、
あと死体が見つからなかったという事実。
煙のように信長という存在が消え失せて、この世から消えてしまった不思議。
事実は小説より奇なり。
まさにそれが本能寺という感じですね。

2016/6/28(火) 午後 4:05 [ もたんもぞ ]

> ZODIAC12さん
信長公記を読まれたことがないとは意外でした。
ぜひお読みください。
原文の方がお奨めです。
信長像を確定するには必須の作品だと思います。
目からウロコの部分、きっと出てきますよ。

2016/6/28(火) 午後 4:10 [ もたんもぞ ]

「信長の棺」は読んだことあります。
牛一さんが主人公で、本能寺の変についても詳しく描かれています。
本当に、想像力を掻き立てられますね。
「信長公記」そのものは未読なので、いずれ読みたいです。
で、「信長の棺」では、牛一さんはかなりモテてるみたい・・・

2016/6/29(水) 午後 4:25 [ 白玉 ]

> 白玉さん
「信長の棺」、太田牛一が主人公なんですか。
それは知らなかったです。一度見ておかないといけませんね。
太田牛一は若い頃は弓の名手として鳴らしましたし、計数にも長けた頭の良さもあります。
文武両道の人ですから、今の感覚なら、かなりモテる人だったでしょうね(^-^)

2016/6/30(木) 午前 8:16 [ もたんもぞ ]

「牛一」って珍しい名前ですね。調べてみたら元は「太田信定」という名だけど、信長の死後に牛一に変えたとか。

『信長公記』は淡々とした客観的事実の羅列だそうで、ドラマティックで物語性に富んだ筆致ではないとありましたね。
司馬遷の『史記』とは対照的な趣向なのでしょうか。

ところで、私のプロフィール画像に使っている肖像画の人物を御存知でしょうか?信長と似たタイプの人物ですが。

2016/7/1(金) 午前 1:25 ZODIAC12

> ZODIAC12さん
牛一の名前そうでしたか。
勉強になりました。
なんでも太田家は代々「牛」の字の一字を名前につけており、
十何代目かの今の御当主も牛のついた名前だったかと思います。

信長公記事は客観的な記述に徹してますけれど、
単なる羅列などではなく、不思議なダイナミックさ、ドラマティックさを感じさせるものがあります。
司馬遷は彼の生きている時代から数百年前のことも書いていますから、
ある程度、解釈といいますか、主観に流れるのは仕方ないところがあります。
太田牛一は全てオンタイムの出来事ですから。
しかも登場人物に直接会っている強みもあります。

2016/7/2(土) 午前 9:44 [ もたんもぞ ]

> ZODIAC12さん
プロフィール画像誰でしょう(^_^;)
東欧系の人物っぽいですね。
イワン雷帝かな?

2016/7/2(土) 午前 10:04 [ もたんもぞ ]

という事は『信長公記』は、ルポルタージュやノンフィクション作品の趣があるという事ですか。
現代なら「実録・織田信長」といったタイトルにでもなりそうな感じの。


>東欧系の人物っぽいですね。

お!鋭いですね!やはり衣装とかが東欧系っぽく見えますか。
この人物はイワン雷帝ではないです。15世紀のワラキア公国(かつて現在のルーマニアにありました)の君主だったヴラド・ツェペシュことワラキア公ヴラド3世です。

「ツェペシュ」とは綽名で、意訳すると「串刺公」です。もう一つの綽名が「ドラキュラ」です。
ブラム・ストーカーの創作した怪物「吸血鬼ドラキュラ伯爵」のモデルとなった人物です。

串刺し刑という残忍な処刑法を多くやり、悪名高いですが、オスマン・トルコ、ハンガリー、ポーランドといった周辺の強国の脅威から、祖国の独立を守り抜いた英雄です。
コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)を陥落させ、オスマン・トルコ帝国の新しい首都とした「征服帝」ことメフメット2世が生涯最も恐れた相手です。

今から十何年も昔に、銀座のルーマニア料理店で撮影した画像です。

2016/7/6(水) 午後 2:27 ZODIAC12

> ZODIAC12さん
そうですね。
「実録」「ノンフィクション」と言ってもいいのではないかと思います。
にもかかわらず詩情豊かなところかあり、
そこがこの読書のブログで取り上げた理由でもあります。

2016/7/6(水) 午後 4:56 [ もたんもぞ ]

> ZODIAC12さん
ドラキュラのモデルになった人でしたか。
言われてみれば、いたなと思いますが、
具体的にイメージするほどの知識がなく、
わかりませんでしたね(^_^;)
外国の戦争は異民族間のものでは、日本人の想像のできない残酷さがあります。
信長の場合、特筆するものとしては、比叡山や長島のエピソードですが、
まだ合理性があるといいますか、異民族だからみたいな酷い殺戮とは少し印象が異なります。

2016/7/6(水) 午後 6:42 [ もたんもぞ ]

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