桃の香りに誘われて

北京オリンピックを分岐点に中国は・・

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今日の旅は、西安の街から東へ向かう旅であった。その昔、人々は中国大陸で産出される様々な物資を求めて東へと旅だった。
東の門から車で30分位行ったところに、渭水の支流である灞水という川が流れており、そこに架かる橋を灞橋という。「ここは、東へ旅する人を送るメッカであった。送る人、送られる人は、この川岸で送別の宴を張る。送る人が、川岸の小枝を折って葉をまるく環状に結んで送られる人の髪に挿してやるのである。「環」が「還」と同音であるところから、旅人の無事な生還を祈る心ずくしの儀式である」と、伴野朗著書の「国士無双」にこの場面が登場する。事実、詩人李白が玄宗皇帝の怒りにふれ、長安の街を離れなければならない日、親友であった阿倍仲麻呂と他の友人は、彼をここまで見送りに来、ここで別れの宴を催したのである。
文化大革命以前は、この場所にたくさんの石碑が立ち並んでいたそうであるが、今はそれらもなく、まだ成長もしていない柳の木が川岸にそって数本あるだけだった。東方面には、玄宗皇帝と楊貴妃の愛を育んだ華清池もある。
玄宗35歳の時、楊貴妃は誕生した。もともとは息子の妃だった彼女を、玄宗が見初め息子から取り上げる形で自分のものとしてしまった。則天武后の孫である玄宗は、親族の女たちの権力争いに揉まれながら、幼少期を過ごしている。若かりし頃の玄宗は、幼少期の経験を生かし、部下を見極める力、その者たちの意見を聞く力を持ち、そして何より、ずば抜けた判断力を持ち備えていた。国家を統率するにふさわしい人物であり、歴史に残り得る名君であった。しかし、楊貴妃との出会いは彼を変え、国を滅ぼしてしまう程、その判断力まで、にぶらせてしまったのである。
「傾国の美女」といわれる楊貴妃の妖艶な美しさに一歩でも近づきたくて、驪山のふもとにある、この温泉を私たちは訪ねた。約2,700年前に発見され、今でも人肌の温度のお湯が湧き出ている。秦の始皇帝もここを訪れたし、楊貴妃と出会う前から、玄宗皇帝も冬の寒さを防ぐためここで過ごすことがお気に入りだった。
もちろん、楊貴妃が使用した湯殿の後も残っている。幾つもの燭台をまわりにおいて自分に付き添う幾人もの女性を待機させながら、燭台の薄暗い光の中で白い肌を湯につけている若い女性を思い描いてみた。


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