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西安には、歴史に登場した人物の墓も実に多くある。今、私たちが向かっている先にあるのは、唐の高宗、則天武后夫婦の墓、乾陵である。
武后は、唐の二代目皇帝李世民の側室であったが、その主人が亡くなったため、当時の風習に従って尼寺へ追いやられていた。たまたま、二代目皇帝の息子、高宗がここを訪問した事がきっかけで彼女は見初められた。これが二人の出会いのようになってはいるが、巷の噂では、すでに以前から二人は関係があったらしい。
いずれにしても、地位を望む武后の策略にまんまと引っ掛かってしまった高宗は、現皇后を殺害までして、その位をあっさり彼女に与えてしまったのである。しかし、皮肉にも、高宗の政治家としての素質が乏しかった分、替わって武后が徐々にその手腕を発揮するようになるのである。高宗亡き後は、もちろん女帝になるためのあらゆる画策をめぐらす。しかし、その地位に就くのに30年の月日を費やした。武后ですら、この時代の規律を歪めることは困難だったのである。
彼女は、唐を廃し国号を「周」と改めた。武后の政治センスの素晴らしさは誰もが認めるところだが、人格面になると多くの者が声をひそめながらも、それを非難している様子が窺える。権力保持のためにわが子や孫をも平気で葬り去るという凶悪さ、たとえば、その様子が、伴野 朗著「長安物語」のなかで窺える。
[李隆基、後の玄宗皇帝が臣下の名裁判官狄仁傑(てきじんけつ)を伴って、洛陽にある中国初の仏教寺院、白馬寺へ遠乗りに出かけた時の事。二人は白馬寺内の二つの石の上に、各々腰を降ろした。「王様、白馬寺の鐘は音の良いことで知られております」「さて、陛下のことでございますが、あの方の果断さは類をみないものでございます」「陛下の軍事才能もかくの如しです」と名裁判官は語る。「祖母様は唐という国家を消してしまわれた」と楚王が答える。狄仁傑は、歳まだ6歳の少年楚王の将来に期待していた。武后にいま楯をつき害されることがあってはならない。武后なら、実の孫でもそれをやり兼ねないのだ。そうならないために武后の凄さを密かに語ってやったのだ。−−−今は、武后様の天下です。いまは、隠忍自重のときです。―――そう言えないのがもどかしかった] と。
さらに、彼女は自分の気に入った男を回りに侍らせるという色好みでもあった。単なる薬売りから高僧にまで取り立てられた薛懐義(せつかいぎ)もそういう男たちのひとりであった。が、彼女にとって、邪魔な存在になったことが感じられるや、たちまち殺されてしまった。次に待医の沈(しんなんきゅう)という男を侍らせ、晩年には、歳まだ若き美しい二人の青年、張兄弟を、昼も夜も日がな一日中そばにおいたのである。権力絶好調のこのときの彼女に向かってそれらを諌めることは、だれにもできないことだった。
中国史に少しでも触れると、どんなに凄い権力保持者にも「終わり」というときが必ずやって来るということを否応無く理解させられてしまう。武后にも、そのときが来た。病気療養中のところへ、80歳の臣下を筆頭とするクーデター軍が襲ってきたのである。あれだけの勢力をはびこらせ、絶対的であった彼女もついに幽閉の身となり、78歳でその幕を完全に降ろしたのである。
武后の後を継いだのは、息子の中宗である。しかし、その妃、偉后は夫である皇帝に毒をもって殺害を図る。夫亡き後、武后を真似て権力を、我が物にしようとしたが、たちまち失脚してしまう。彼女と武后の決定的な差は、その政治センスにあったらしい。偉后は、ただ、地位ほしさの欲の強いおばさんだけのことだったのである。
ちなみに、当時20代であった後の玄宗もこの失脚劇に加わっている。
高宗と武后夫婦が眠っている巨大な墓、乾陵は梁山という70〜80mの山の南の峰を利用して造られている。当時、ふたりを一緒にすることについて、反対論もかなりあったらしいが、ともかく、合葬というかたちで現在に至っている。墓というにはあまりにも大きすぎるこの場所をみただけでも武后の凄さが身に染みて来る。
ガイドさん付きの観光車で、この巨大墓から今でも地下陵墓の壁画が鮮やかに残っている、永泰公主墓や章懐太子墓までゆっくり巡ってくれるコースがある。そこへ行き着くまでの間、天井も窓ガラスもない車に乗車したまま、この辺りに住む人々の生活の様子を、ちょっと失礼と思いつつも、ついつい垣間見てしまった。
農家の庭の真ん中に、束ねていない藁が山のように丸く積まれていたり、切り落としたままの枯れ枝が乱雑に散らばったままになっていたり…..どの家も大きな構えをしているのに、ガーデニングなどということには無縁といった庭である。この乱雑さがあまりにも気になってしまったので、付き添いのガイドさんにそのことを聞いてみたところ、「燃料にするのよ」と教えてくれた。「なるほど...」
でも、日本人が燃料用にと均等な長さに切り揃えた薪を軒下に整然と並べていることと比較すると、ずいぶん粗雑な保存の仕方である。
また、収穫後の真っ黄色に乾燥させた大量のとうもろこしを屋根の上や敷地内の木々にぶら下げて保存している農家の光景は、生活感にあふれたものであった。
「農民画」といって農家の人々の暮らしを色鮮やかに、ちょっとこどもタッチに描いた作品が西安の街では、売られている。それらは、農民同士の結婚式の様子だったり、ナツメを採るために一本の木に何人もの人がのぼっている様子だったり、放し飼いにされた鶏が庭のあちこちに卵を産み落としている様子だったりを描いたものである。
ほのぼのとした生活をテーマにしたこれらの絵画に惹きつけられて、清真大寺というイスラム寺院へ通じる化覚巷という横丁にある農民画専門の画廊に自然と足が向いてしまった。お店の人がとても親切で、高く積んであったB4版の画用紙に描かれている絵をゆっくり見てくれて結構だというので、その言葉に甘えて一枚一枚丹念に見ていくと、昼間、見てきたのと全く同じ風景を発見した。それは、真っ黄色のとうもろこしが所狭しと庭に積まれている風景だった。
この日は、西安の「過去」と「現在」に出会えた日であった。
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衝撃!「香里奈」まだ人気が出る前にアルバイトで出演したAVお見せします。(現在回収済み)
2008/2/26(火) 午後 1:20 [ 初めて見ました! ]