桃の香りに誘われて

北京オリンピックを分岐点に中国は・・

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西安から洛陽へ

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西安から洛陽へは、私たちが何回も経験した汽車を利用しての旅である。このときの車両も軟座車両のゆったりしたものであった。お昼は車内販売の弁当を買って食べられるほど、「汽車の旅にも慣れたものだ」と自分に感心してしまう。でも、ここ数年で、弁当にも変化が見られ、ひとつのケースにご飯とおかずが一緒になっていたものが、それらをきれいに仕切る等、盛り付け方にも工夫がみられるようになった。
今回の旅には、夫の母も同行している。70歳を過ぎても、体力はもちろん好奇心旺盛な母である。西安の城壁では、あのでこぼこ道を自転車で走り、西安の街中に位置する「碑林」という漢代から現代までの石碑、1,000点あまりを展示してある博物館では一つ一つに見入り自分のメモ帳に、いつ頃のものか、だれが書いたものか、など丁寧に書き留めていた。なかでも、流れるような文字を書く晋時代の書道の天才「王義之」の石碑では、その文字の美しさに溜め息をついている様子だった。何年も俳句を続けている母にとってこの旅は、興味深く、さらに自身の知識を高めるものだったに違いない。さらに、すっかりこの国に馴染んでしまった母は、この汽車の中で車外を眺めながら、私たちと同じ弁当を食べている。
西安から洛陽までは、汽車で約5時間。この距離を則天武后は何回も往復したのである。日本から派遣された遣唐使たちも、この都が大好きだったようだ。
芥川龍之介著「杜子春」の舞台ともなった「洛陽」。ここに、仙人は本当に住んでいるのかしら。

唐代の詩人、「長恨歌」で知られる「白居易」が晩年を過ごした香山の真向かいには、伊河を挟んで龍門石窟がある。幅200mもある伊河の流れは、雄大でごうごうという流音が、絶え間なく聞こえてくる。日本から訪れた空海さんも、その他の遣唐使たちもこの水音をBGMとして、この石窟を眺めていったのだろう。そして、ここで受け止めた感動を、日本に持ち帰り、様々な分野で模倣したのであった。この石窟群の中央には、権力旺盛だった頃の則天武后が「我が地位永遠」を込めて掘らせた、どでかい弥勒菩薩像がある。河の対岸からも、この像をはっきり眺める事ができるほど、その姿は大きい。たとえば、対岸に立ちこの像を背景に写真をとったとしても、背景が何であるか、現像後の写真を見て、一目でそれとわかるのである。

敦煌の莫高窟、大同の雲崗石窟に続く龍門石窟は、中国三大石窟の一つである。そして、前回訪れた大同のものより30年くらい遅れて開削された。大同の石窟の素材が砂岩だったのに対し、龍門の方は花崗岩であるため、作品に力強さが感じられる。大同石窟では、日本の仏像を基準にしてその大きさに驚いたものだが、この国に派遣された当時の日本人が、『自国にも、これよりもさらに大きなものを建立しよう』と夢を描き、それを実現するために、いろいろな角度から、その建立過程を学び、やがてはその夢を実現させた、その見本となるものがこの国にあるのは当然のことなのである。

龍門石窟は街の中心からタクシーをビュンビュンとばして一時間半位のところにある。この日も相変わらず私の目は、車外の人々の様子を追っている。すると、安全服を着て、先が1mくらい広がったホウキを両手でしっかり持ち、道路脇に溜まった塵芥をかき集めている大勢の男女の姿を見かけた。道路清掃車のかわりに、朝早くからこの仕事に携わっている人々だった。
洛陽は「ぼたん」の花の名所であり、花の時期になると国内外の観光客であふれかえるそうである。でも、私たちが行った時は、白馬寺の庭園にも王城公園にも、それらしき植物が広範囲にわたって植えられてはいるが、夏の高温から身を守るかのように葉っぱはカチカチ固く、その色は濃い緑というより汚く黒ずんでいる。それらが、ただ地面にへばり付くように広がっているだけで、それを見る限り、花の咲いたときの様子など想像もつかない。そんな寂しい風景だった。

いよいよ私たちの旅も終わりに近づいてきてしまった。
洛陽から離れるため空港カウンターでその手続きを済ませ、ロビーへ向かったその先で目・・・!の覚めるような光景に出くわした。洛陽名物ぼたんの花の描かれた掛け軸で壁面すべてが埋め尽くされていたのである。
若手芸術家がデモンストレーションのためこの場所で絵筆をとりながら描いたもので、花の色は、ピンクやオレンジばかりでなく真っ赤、黄色、紫など多色な色を使いこなしている。どうしてこんなにも色鮮やかに描くことが出来るのか聞いてみると、彼は、実際、花の咲く現場へ出向き、自身の眼で観察し、その色合いを研究するのだそうだ。
「それでは、白馬寺や王城公園の花もこんな風に咲くに違いない!」

洛陽に住む仙人は、最後の日に私たちに大きな贈り物をくださった。

                                  了

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西安の街の中心で…

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街を取り囲んでいる城壁も、西安のシンボルである。以前は、東西南北の城門に「鐘」と「太鼓」が一対をなしてそれぞれに設置されていた。唐の時代、夕方、時を知らせる鐘が一つ鳴り、また一つ鳴り、最後には四箇所の鐘の音が街中に響いた様子は異様でもあり、おごそかでもあったと思う。
城壁の上部は平遥のものより広く、20mくらいの幅を持つ。そこはもちろん石畳になっていて、水はけも十分考慮されているため、結構、傾斜している。その証拠に貸自転車に乗ってそこを走った時、でこぼこ道をこいでいるのと同じで、体は振動で上下するし、ハンドルはとられて運転しにくいし、楽をしようとしたサイクリングがかなりな重労働となってしまった。
自転車に乗りながら、先を見回すと城壁より高いビルがニョキニョキと顔を出し、唐時代の灰色の瓦で埋め尽くされた家屋の町並みの姿は、見当たらなかった。それどころか、城壁の周りに建つ古い家の壁には「折」という赤文字が大きく書き込まれている。夫が「その文字は、開発のためにいずれ壊されてしまう家に書き込むんだよ」と教えてくれた。
高度成長期にある中国にとって、これらの建物は必要なくなってしまい、その上、『北京オリンピックを意識しての開発かな?』と観光者が勝手な推測をしてしまう。
西安では市街地の至るところに、名所が散らばっている。その内のひとつである小雁塔へ行ったとき、こんな光景に出会えた。
ある写真館のマイクロバスで連れてこられた結婚衣装に身を包んだ、花嫁花婿のカップル数組が小雁塔の建物や庭の木々を背景に結婚記念撮影会を行なっていたのである。
彼らはモデルとかではなく、本当にこれから結婚生活を始めようとしている男女である。花嫁は、カメラマンの注文どおりのポーズに応えるため、埃っぽい草の上に、真っ白いウエデイングドレスの裾を広げて座ったり、横たわったりしている。
小雁塔は707年に建立され、唐の中宗が、供養のため自らの住宅を改築したのが始まりとされる。高さは43mあり、上部二層が崩れてしまったため、現在は13層の塔である。ここから南へ3km行ったところに、64mの高さを保ち、すっと空にむかって建っている大雁塔がある。小雁塔よりも半世紀先に建てられ、玄奘がインドから持ち帰った数々の経典や仏像が納められている。
さて、この撮影会であるが、日本では式当日に結婚写真を撮るのが常識とされているが、こちらでは、式前に二人だけの写真を撮るのが流行りである。写真館にはものすごい数の衣装が揃っており、必ず自分好みの服があるといった具合である。写真館の建物もこれらの衣装を収納するためのスペースや幾つかのスタジオを持ったもので、必然的に大きなものである。
記念写真というとお澄まししたポーズで堅苦しいのが定番のようになっているが、こちらでのカメラマンのポーズのとらせ方は実にプロ的で実物の二倍も三倍も、あるいはそれ以上の素敵な仕上がりにしてくれる。撮影時間にもたっぷり時間をかけるため朝から夕方まで、撮影する人も、される人も監禁状態となる。
その間、被写体である男性も女性もお好みの衣装の取替えが数回あり、その度に女性の髪形もドレスに似合ったものにしてくれる。これほどの念の入りようなので、一組の撮影に対して4〜5人のスタッフがつく。
撮影現場は屋内でも屋外でも、ほぼお客さんの要求通りの場所を選択できる。だから、この時の花嫁花婿も今後のふたりの門出にふさわしい場所としてここを指定したのかもしれない。
ここにも、古代に現代が共存しているのに、それを意識することもなく生活している、人々がいたのである。

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西安には、歴史に登場した人物の墓も実に多くある。今、私たちが向かっている先にあるのは、唐の高宗、則天武后夫婦の墓、乾陵である。
武后は、唐の二代目皇帝李世民の側室であったが、その主人が亡くなったため、当時の風習に従って尼寺へ追いやられていた。たまたま、二代目皇帝の息子、高宗がここを訪問した事がきっかけで彼女は見初められた。これが二人の出会いのようになってはいるが、巷の噂では、すでに以前から二人は関係があったらしい。
いずれにしても、地位を望む武后の策略にまんまと引っ掛かってしまった高宗は、現皇后を殺害までして、その位をあっさり彼女に与えてしまったのである。しかし、皮肉にも、高宗の政治家としての素質が乏しかった分、替わって武后が徐々にその手腕を発揮するようになるのである。高宗亡き後は、もちろん女帝になるためのあらゆる画策をめぐらす。しかし、その地位に就くのに30年の月日を費やした。武后ですら、この時代の規律を歪めることは困難だったのである。
彼女は、唐を廃し国号を「周」と改めた。武后の政治センスの素晴らしさは誰もが認めるところだが、人格面になると多くの者が声をひそめながらも、それを非難している様子が窺える。権力保持のためにわが子や孫をも平気で葬り去るという凶悪さ、たとえば、その様子が、伴野 朗著「長安物語」のなかで窺える。
[李隆基、後の玄宗皇帝が臣下の名裁判官狄仁傑(てきじんけつ)を伴って、洛陽にある中国初の仏教寺院、白馬寺へ遠乗りに出かけた時の事。二人は白馬寺内の二つの石の上に、各々腰を降ろした。「王様、白馬寺の鐘は音の良いことで知られております」「さて、陛下のことでございますが、あの方の果断さは類をみないものでございます」「陛下の軍事才能もかくの如しです」と名裁判官は語る。「祖母様は唐という国家を消してしまわれた」と楚王が答える。狄仁傑は、歳まだ6歳の少年楚王の将来に期待していた。武后にいま楯をつき害されることがあってはならない。武后なら、実の孫でもそれをやり兼ねないのだ。そうならないために武后の凄さを密かに語ってやったのだ。−−−今は、武后様の天下です。いまは、隠忍自重のときです。―――そう言えないのがもどかしかった] と。
さらに、彼女は自分の気に入った男を回りに侍らせるという色好みでもあった。単なる薬売りから高僧にまで取り立てられた薛懐義(せつかいぎ)もそういう男たちのひとりであった。が、彼女にとって、邪魔な存在になったことが感じられるや、たちまち殺されてしまった。次に待医の沈(しんなんきゅう)という男を侍らせ、晩年には、歳まだ若き美しい二人の青年、張兄弟を、昼も夜も日がな一日中そばにおいたのである。権力絶好調のこのときの彼女に向かってそれらを諌めることは、だれにもできないことだった。
中国史に少しでも触れると、どんなに凄い権力保持者にも「終わり」というときが必ずやって来るということを否応無く理解させられてしまう。武后にも、そのときが来た。病気療養中のところへ、80歳の臣下を筆頭とするクーデター軍が襲ってきたのである。あれだけの勢力をはびこらせ、絶対的であった彼女もついに幽閉の身となり、78歳でその幕を完全に降ろしたのである。
武后の後を継いだのは、息子の中宗である。しかし、その妃、偉后は夫である皇帝に毒をもって殺害を図る。夫亡き後、武后を真似て権力を、我が物にしようとしたが、たちまち失脚してしまう。彼女と武后の決定的な差は、その政治センスにあったらしい。偉后は、ただ、地位ほしさの欲の強いおばさんだけのことだったのである。
ちなみに、当時20代であった後の玄宗もこの失脚劇に加わっている。
高宗と武后夫婦が眠っている巨大な墓、乾陵は梁山という70〜80mの山の南の峰を利用して造られている。当時、ふたりを一緒にすることについて、反対論もかなりあったらしいが、ともかく、合葬というかたちで現在に至っている。墓というにはあまりにも大きすぎるこの場所をみただけでも武后の凄さが身に染みて来る。
ガイドさん付きの観光車で、この巨大墓から今でも地下陵墓の壁画が鮮やかに残っている、永泰公主墓や章懐太子墓までゆっくり巡ってくれるコースがある。そこへ行き着くまでの間、天井も窓ガラスもない車に乗車したまま、この辺りに住む人々の生活の様子を、ちょっと失礼と思いつつも、ついつい垣間見てしまった。
農家の庭の真ん中に、束ねていない藁が山のように丸く積まれていたり、切り落としたままの枯れ枝が乱雑に散らばったままになっていたり…..どの家も大きな構えをしているのに、ガーデニングなどということには無縁といった庭である。この乱雑さがあまりにも気になってしまったので、付き添いのガイドさんにそのことを聞いてみたところ、「燃料にするのよ」と教えてくれた。「なるほど...」
でも、日本人が燃料用にと均等な長さに切り揃えた薪を軒下に整然と並べていることと比較すると、ずいぶん粗雑な保存の仕方である。
また、収穫後の真っ黄色に乾燥させた大量のとうもろこしを屋根の上や敷地内の木々にぶら下げて保存している農家の光景は、生活感にあふれたものであった。
「農民画」といって農家の人々の暮らしを色鮮やかに、ちょっとこどもタッチに描いた作品が西安の街では、売られている。それらは、農民同士の結婚式の様子だったり、ナツメを採るために一本の木に何人もの人がのぼっている様子だったり、放し飼いにされた鶏が庭のあちこちに卵を産み落としている様子だったりを描いたものである。
ほのぼのとした生活をテーマにしたこれらの絵画に惹きつけられて、清真大寺というイスラム寺院へ通じる化覚巷という横丁にある農民画専門の画廊に自然と足が向いてしまった。お店の人がとても親切で、高く積んであったB4版の画用紙に描かれている絵をゆっくり見てくれて結構だというので、その言葉に甘えて一枚一枚丹念に見ていくと、昼間、見てきたのと全く同じ風景を発見した。それは、真っ黄色のとうもろこしが所狭しと庭に積まれている風景だった。
この日は、西安の「過去」と「現在」に出会えた日であった。

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さて、今日はいよいよ西へ向かう旅に出る。すなわちシルクロードへつながるルートである。当時のシルクロードの出発地点であった道路脇には、駱駝に乗った商隊一行のでっかいモニュメントがあり、観光客の目を楽しませている。シルクロードという言葉の響きに、私の気分も上々である。しかし、私たちの乗ったタクシーの運転手は『どうして、日本人はシルクロードとう言葉にロマンを感じるのでしょうか?』と聞いた。『私たちにとってシルクロードとは苦難の旅に通じます。旅に出たほとんどの者が故郷へは戻れず、仮に戻れたとしても10代で出かけた者が戻った時には60代にもなっているのですよ』と……
それを聞いた瞬間、奈良の薬師寺へ数年前行った時、寺の中庭で解説係の若いお坊さんが修学旅行生たちにこの寺の生い立ちやその時代背景について講義していたことを思い出した。その話のなかで彼は、『シルクロード、それはイコール、ロードクルシなのである』といっていた。『なぜなら、想像もつかないほど困難な道程であったから』と落語の調子でいうものだから、生徒達はくすくす笑っているだけだし、後ろの方で、その説明を盗み聞きしていた私だって、その厳しさなど想像もせず生徒たちに混じって笑っていたのである。意外にも「ロードクルシ」の話をここ西安で現地の人から聞くことになるとは、思いもしなかった。そういうことであれば、僧「玄奘」が天竺までの旅を成し遂げ、そればかりか、たくさんの経典まで持ち帰ったということが、いかに偉大であったかがよくわかる。そして、それをもとにした小説「西遊記」が誕生したこともうなずける。

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今日の旅は、西安の街から東へ向かう旅であった。その昔、人々は中国大陸で産出される様々な物資を求めて東へと旅だった。
東の門から車で30分位行ったところに、渭水の支流である灞水という川が流れており、そこに架かる橋を灞橋という。「ここは、東へ旅する人を送るメッカであった。送る人、送られる人は、この川岸で送別の宴を張る。送る人が、川岸の小枝を折って葉をまるく環状に結んで送られる人の髪に挿してやるのである。「環」が「還」と同音であるところから、旅人の無事な生還を祈る心ずくしの儀式である」と、伴野朗著書の「国士無双」にこの場面が登場する。事実、詩人李白が玄宗皇帝の怒りにふれ、長安の街を離れなければならない日、親友であった阿倍仲麻呂と他の友人は、彼をここまで見送りに来、ここで別れの宴を催したのである。
文化大革命以前は、この場所にたくさんの石碑が立ち並んでいたそうであるが、今はそれらもなく、まだ成長もしていない柳の木が川岸にそって数本あるだけだった。東方面には、玄宗皇帝と楊貴妃の愛を育んだ華清池もある。
玄宗35歳の時、楊貴妃は誕生した。もともとは息子の妃だった彼女を、玄宗が見初め息子から取り上げる形で自分のものとしてしまった。則天武后の孫である玄宗は、親族の女たちの権力争いに揉まれながら、幼少期を過ごしている。若かりし頃の玄宗は、幼少期の経験を生かし、部下を見極める力、その者たちの意見を聞く力を持ち、そして何より、ずば抜けた判断力を持ち備えていた。国家を統率するにふさわしい人物であり、歴史に残り得る名君であった。しかし、楊貴妃との出会いは彼を変え、国を滅ぼしてしまう程、その判断力まで、にぶらせてしまったのである。
「傾国の美女」といわれる楊貴妃の妖艶な美しさに一歩でも近づきたくて、驪山のふもとにある、この温泉を私たちは訪ねた。約2,700年前に発見され、今でも人肌の温度のお湯が湧き出ている。秦の始皇帝もここを訪れたし、楊貴妃と出会う前から、玄宗皇帝も冬の寒さを防ぐためここで過ごすことがお気に入りだった。
もちろん、楊貴妃が使用した湯殿の後も残っている。幾つもの燭台をまわりにおいて自分に付き添う幾人もの女性を待機させながら、燭台の薄暗い光の中で白い肌を湯につけている若い女性を思い描いてみた。

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