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			<title>桃の香りに誘われて</title>
			<description>2008年開催される北京オリンピックを分岐点に中国は…</description>
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			<title>桃の香りに誘われて</title>
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			<description>2008年開催される北京オリンピックを分岐点に中国は…</description>
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			<title>西安から洛陽へ</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-f1-65/no_bu_yo_ko/folder/356875/65/3337365/img_0?1204495980&quot; width=&quot;434&quot;&gt;&lt;br /&gt;
西安から洛陽へは、私たちが何回も経験した汽車を利用しての旅である。このときの車両も軟座車両のゆったりしたものであった。お昼は車内販売の弁当を買って食べられるほど、「汽車の旅にも慣れたものだ」と自分に感心してしまう。でも、ここ数年で、弁当にも変化が見られ、ひとつのケースにご飯とおかずが一緒になっていたものが、それらをきれいに仕切る等、盛り付け方にも工夫がみられるようになった。&lt;br /&gt;
今回の旅には、夫の母も同行している。70歳を過ぎても、体力はもちろん好奇心旺盛な母である。西安の城壁では、あのでこぼこ道を自転車で走り、西安の街中に位置する「碑林」という漢代から現代までの石碑、１，０００点あまりを展示してある博物館では一つ一つに見入り自分のメモ帳に、いつ頃のものか、だれが書いたものか、など丁寧に書き留めていた。なかでも、流れるような文字を書く晋時代の書道の天才「王義之」の石碑では、その文字の美しさに溜め息をついている様子だった。何年も俳句を続けている母にとってこの旅は、興味深く、さらに自身の知識を高めるものだったに違いない。さらに、すっかりこの国に馴染んでしまった母は、この汽車の中で車外を眺めながら、私たちと同じ弁当を食べている。&lt;br /&gt;
西安から洛陽までは、汽車で約5時間。この距離を則天武后は何回も往復したのである。日本から派遣された遣唐使たちも、この都が大好きだったようだ。&lt;br /&gt;
芥川龍之介著「杜子春」の舞台ともなった「洛陽」。ここに、仙人は本当に住んでいるのかしら。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
唐代の詩人、「長恨歌」で知られる「白居易」が晩年を過ごした香山の真向かいには、伊河を挟んで龍門石窟がある。幅２００ｍもある伊河の流れは、雄大でごうごうという流音が、絶え間なく聞こえてくる。日本から訪れた空海さんも、その他の遣唐使たちもこの水音をBGMとして、この石窟を眺めていったのだろう。そして、ここで受け止めた感動を、日本に持ち帰り、様々な分野で模倣したのであった。この石窟群の中央には、権力旺盛だった頃の則天武后が「我が地位永遠」を込めて掘らせた、どでかい弥勒菩薩像がある。河の対岸からも、この像をはっきり眺める事ができるほど、その姿は大きい。たとえば、対岸に立ちこの像を背景に写真をとったとしても、背景が何であるか、現像後の写真を見て、一目でそれとわかるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
敦煌の莫高窟、大同の雲崗石窟に続く龍門石窟は、中国三大石窟の一つである。そして、前回訪れた大同のものより30年くらい遅れて開削された。大同の石窟の素材が砂岩だったのに対し、龍門の方は花崗岩であるため、作品に力強さが感じられる。大同石窟では、日本の仏像を基準にしてその大きさに驚いたものだが、この国に派遣された当時の日本人が、『自国にも、これよりもさらに大きなものを建立しよう』と夢を描き、それを実現するために、いろいろな角度から、その建立過程を学び、やがてはその夢を実現させた、その見本となるものがこの国にあるのは当然のことなのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
龍門石窟は街の中心からタクシーをビュンビュンとばして一時間半位のところにある。この日も相変わらず私の目は、車外の人々の様子を追っている。すると、安全服を着て、先が１ｍくらい広がったホウキを両手でしっかり持ち、道路脇に溜まった塵芥をかき集めている大勢の男女の姿を見かけた。道路清掃車のかわりに、朝早くからこの仕事に携わっている人々だった。&lt;br /&gt;
洛陽は「ぼたん」の花の名所であり、花の時期になると国内外の観光客であふれかえるそうである。でも、私たちが行った時は、白馬寺の庭園にも王城公園にも、それらしき植物が広範囲にわたって植えられてはいるが、夏の高温から身を守るかのように葉っぱはカチカチ固く、その色は濃い緑というより汚く黒ずんでいる。それらが、ただ地面にへばり付くように広がっているだけで、それを見る限り、花の咲いたときの様子など想像もつかない。そんな寂しい風景だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いよいよ私たちの旅も終わりに近づいてきてしまった。&lt;br /&gt;
洛陽から離れるため空港カウンターでその手続きを済ませ、ロビーへ向かったその先で目･･･！の覚めるような光景に出くわした。洛陽名物ぼたんの花の描かれた掛け軸で壁面すべてが埋め尽くされていたのである。&lt;br /&gt;
若手芸術家がデモンストレーションのためこの場所で絵筆をとりながら描いたもので、花の色は、ピンクやオレンジばかりでなく真っ赤、黄色、紫など多色な色を使いこなしている。どうしてこんなにも色鮮やかに描くことが出来るのか聞いてみると、彼は、実際、花の咲く現場へ出向き、自身の眼で観察し、その色合いを研究するのだそうだ。&lt;br /&gt;
「それでは、白馬寺や王城公園の花もこんな風に咲くに違いない！」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
洛陽に住む仙人は、最後の日に私たちに大きな贈り物をくださった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　了</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/no_bu_yo_ko/3337365.html</link>
			<pubDate>Mon, 03 Mar 2008 07:13:00 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
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			<title>西安の街の中心で…</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-f1-65/no_bu_yo_ko/folder/356875/29/3160829/img_0?1204236458&quot; width=&quot;99&quot;&gt;&lt;br /&gt;
街を取り囲んでいる城壁も、西安のシンボルである。以前は、東西南北の城門に「鐘」と「太鼓」が一対をなしてそれぞれに設置されていた。唐の時代、夕方、時を知らせる鐘が一つ鳴り、また一つ鳴り、最後には四箇所の鐘の音が街中に響いた様子は異様でもあり、おごそかでもあったと思う。&lt;br /&gt;
城壁の上部は平遥のものより広く、２０ｍくらいの幅を持つ。そこはもちろん石畳になっていて、水はけも十分考慮されているため、結構、傾斜している。その証拠に貸自転車に乗ってそこを走った時、でこぼこ道をこいでいるのと同じで、体は振動で上下するし、ハンドルはとられて運転しにくいし、楽をしようとしたサイクリングがかなりな重労働となってしまった。&lt;br /&gt;
自転車に乗りながら、先を見回すと城壁より高いビルがニョキニョキと顔を出し、唐時代の灰色の瓦で埋め尽くされた家屋の町並みの姿は、見当たらなかった。それどころか、城壁の周りに建つ古い家の壁には「折」という赤文字が大きく書き込まれている。夫が「その文字は、開発のためにいずれ壊されてしまう家に書き込むんだよ」と教えてくれた。&lt;br /&gt;
高度成長期にある中国にとって、これらの建物は必要なくなってしまい、その上、『北京オリンピックを意識しての開発かな？』と観光者が勝手な推測をしてしまう。&lt;br /&gt;
西安では市街地の至るところに、名所が散らばっている。その内のひとつである小雁塔へ行ったとき、こんな光景に出会えた。&lt;br /&gt;
ある写真館のマイクロバスで連れてこられた結婚衣装に身を包んだ、花嫁花婿のカップル数組が小雁塔の建物や庭の木々を背景に結婚記念撮影会を行なっていたのである。&lt;br /&gt;
彼らはモデルとかではなく、本当にこれから結婚生活を始めようとしている男女である。花嫁は、カメラマンの注文どおりのポーズに応えるため、埃っぽい草の上に、真っ白いウエデイングドレスの裾を広げて座ったり、横たわったりしている。&lt;br /&gt;
小雁塔は７０７年に建立され、唐の中宗が、供養のため自らの住宅を改築したのが始まりとされる。高さは４３ｍあり、上部二層が崩れてしまったため、現在は１３層の塔である。ここから南へ３ｋｍ行ったところに、６４ｍの高さを保ち、すっと空にむかって建っている大雁塔がある。小雁塔よりも半世紀先に建てられ、玄奘がインドから持ち帰った数々の経典や仏像が納められている。&lt;br /&gt;
さて、この撮影会であるが、日本では式当日に結婚写真を撮るのが常識とされているが、こちらでは、式前に二人だけの写真を撮るのが流行りである。写真館にはものすごい数の衣装が揃っており、必ず自分好みの服があるといった具合である。写真館の建物もこれらの衣装を収納するためのスペースや幾つかのスタジオを持ったもので、必然的に大きなものである。&lt;br /&gt;
記念写真というとお澄まししたポーズで堅苦しいのが定番のようになっているが、こちらでのカメラマンのポーズのとらせ方は実にプロ的で実物の二倍も三倍も、あるいはそれ以上の素敵な仕上がりにしてくれる。撮影時間にもたっぷり時間をかけるため朝から夕方まで、撮影する人も、される人も監禁状態となる。&lt;br /&gt;
その間、被写体である男性も女性もお好みの衣装の取替えが数回あり、その度に女性の髪形もドレスに似合ったものにしてくれる。これほどの念の入りようなので、一組の撮影に対して４～５人のスタッフがつく。&lt;br /&gt;
撮影現場は屋内でも屋外でも、ほぼお客さんの要求通りの場所を選択できる。だから、この時の花嫁花婿も今後のふたりの門出にふさわしい場所としてここを指定したのかもしれない。&lt;br /&gt;
ここにも、古代に現代が共存しているのに、それを意識することもなく生活している、人々がいたのである。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/no_bu_yo_ko/3160829.html</link>
			<pubDate>Fri, 29 Feb 2008 07:07:38 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>西安には歴史に登場した人物の墓も多くある…</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-f1-65/no_bu_yo_ko/folder/356875/58/3013858/img_0?1203977682&quot; width=&quot;178&quot;&gt;&lt;br /&gt;
西安には、歴史に登場した人物の墓も実に多くある。今、私たちが向かっている先にあるのは、唐の高宗、則天武后夫婦の墓、乾陵である。&lt;br /&gt;
武后は、唐の二代目皇帝李世民の側室であったが、その主人が亡くなったため、当時の風習に従って尼寺へ追いやられていた。たまたま、二代目皇帝の息子、高宗がここを訪問した事がきっかけで彼女は見初められた。これが二人の出会いのようになってはいるが、巷の噂では、すでに以前から二人は関係があったらしい。&lt;br /&gt;
いずれにしても、地位を望む武后の策略にまんまと引っ掛かってしまった高宗は、現皇后を殺害までして、その位をあっさり彼女に与えてしまったのである。しかし、皮肉にも、高宗の政治家としての素質が乏しかった分、替わって武后が徐々にその手腕を発揮するようになるのである。高宗亡き後は、もちろん女帝になるためのあらゆる画策をめぐらす。しかし、その地位に就くのに30年の月日を費やした。武后ですら、この時代の規律を歪めることは困難だったのである。&lt;br /&gt;
彼女は、唐を廃し国号を「周」と改めた。武后の政治センスの素晴らしさは誰もが認めるところだが、人格面になると多くの者が声をひそめながらも、それを非難している様子が窺える。権力保持のためにわが子や孫をも平気で葬り去るという凶悪さ、たとえば、その様子が、伴野　朗著「長安物語」のなかで窺える。&lt;br /&gt;
 [李隆基、後の玄宗皇帝が臣下の名裁判官狄仁傑（てきじんけつ）を伴って、洛陽にある中国初の仏教寺院、白馬寺へ遠乗りに出かけた時の事。二人は白馬寺内の二つの石の上に、各々腰を降ろした。「王様、白馬寺の鐘は音の良いことで知られております」「さて、陛下のことでございますが、あの方の果断さは類をみないものでございます」「陛下の軍事才能もかくの如しです」と名裁判官は語る。「祖母様は唐という国家を消してしまわれた」と楚王が答える。狄仁傑は、歳まだ6歳の少年楚王の将来に期待していた。武后にいま楯をつき害されることがあってはならない。武后なら、実の孫でもそれをやり兼ねないのだ。そうならないために武后の凄さを密かに語ってやったのだ。－－－今は、武后様の天下です。いまは、隠忍自重のときです。―――そう言えないのがもどかしかった]　と。&lt;br /&gt;
さらに、彼女は自分の気に入った男を回りに侍らせるという色好みでもあった。単なる薬売りから高僧にまで取り立てられた薛懐義（せつかいぎ）もそういう男たちのひとりであった。が、彼女にとって、邪魔な存在になったことが感じられるや、たちまち殺されてしまった。次に待医の沈（しんなんきゅう）という男を侍らせ、晩年には、歳まだ若き美しい二人の青年、張兄弟を、昼も夜も日がな一日中そばにおいたのである。権力絶好調のこのときの彼女に向かってそれらを諌めることは、だれにもできないことだった。&lt;br /&gt;
中国史に少しでも触れると、どんなに凄い権力保持者にも「終わり」というときが必ずやって来るということを否応無く理解させられてしまう。武后にも、そのときが来た。病気療養中のところへ、80歳の臣下を筆頭とするクーデター軍が襲ってきたのである。あれだけの勢力をはびこらせ、絶対的であった彼女もついに幽閉の身となり、78歳でその幕を完全に降ろしたのである。&lt;br /&gt;
武后の後を継いだのは、息子の中宗である。しかし、その妃、偉后は夫である皇帝に毒をもって殺害を図る。夫亡き後、武后を真似て権力を、我が物にしようとしたが、たちまち失脚してしまう。彼女と武后の決定的な差は、その政治センスにあったらしい。偉后は、ただ、地位ほしさの欲の強いおばさんだけのことだったのである。&lt;br /&gt;
ちなみに、当時20代であった後の玄宗もこの失脚劇に加わっている。&lt;br /&gt;
高宗と武后夫婦が眠っている巨大な墓、乾陵は梁山という７０～８０ｍの山の南の峰を利用して造られている。当時、ふたりを一緒にすることについて、反対論もかなりあったらしいが、ともかく、合葬というかたちで現在に至っている。墓というにはあまりにも大きすぎるこの場所をみただけでも武后の凄さが身に染みて来る。&lt;br /&gt;
ガイドさん付きの観光車で、この巨大墓から今でも地下陵墓の壁画が鮮やかに残っている、永泰公主墓や章懐太子墓までゆっくり巡ってくれるコースがある。そこへ行き着くまでの間、天井も窓ガラスもない車に乗車したまま、この辺りに住む人々の生活の様子を、ちょっと失礼と思いつつも、ついつい垣間見てしまった。&lt;br /&gt;
農家の庭の真ん中に、束ねていない藁が山のように丸く積まれていたり、切り落としたままの枯れ枝が乱雑に散らばったままになっていたり…..どの家も大きな構えをしているのに、ガーデニングなどということには無縁といった庭である。この乱雑さがあまりにも気になってしまったので、付き添いのガイドさんにそのことを聞いてみたところ、「燃料にするのよ」と教えてくれた。「なるほど．．．」&lt;br /&gt;
でも、日本人が燃料用にと均等な長さに切り揃えた薪を軒下に整然と並べていることと比較すると、ずいぶん粗雑な保存の仕方である。&lt;br /&gt;
また、収穫後の真っ黄色に乾燥させた大量のとうもろこしを屋根の上や敷地内の木々にぶら下げて保存している農家の光景は、生活感にあふれたものであった。&lt;br /&gt;
「農民画」といって農家の人々の暮らしを色鮮やかに、ちょっとこどもタッチに描いた作品が西安の街では、売られている。それらは、農民同士の結婚式の様子だったり、ナツメを採るために一本の木に何人もの人がのぼっている様子だったり、放し飼いにされた鶏が庭のあちこちに卵を産み落としている様子だったりを描いたものである。&lt;br /&gt;
ほのぼのとした生活をテーマにしたこれらの絵画に惹きつけられて、清真大寺というイスラム寺院へ通じる化覚巷という横丁にある農民画専門の画廊に自然と足が向いてしまった。お店の人がとても親切で、高く積んであったB４版の画用紙に描かれている絵をゆっくり見てくれて結構だというので、その言葉に甘えて一枚一枚丹念に見ていくと、昼間、見てきたのと全く同じ風景を発見した。それは、真っ黄色のとうもろこしが所狭しと庭に積まれている風景だった。&lt;br /&gt;
この日は、西安の「過去」と「現在」に出会えた日であった。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/no_bu_yo_ko/3013858.html</link>
			<pubDate>Tue, 26 Feb 2008 07:14:42 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
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			<title>西安の街から西へ行くと…</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-f1-65/no_bu_yo_ko/folder/356875/40/2962940/img_0?1203891217&quot; width=&quot;296&quot;&gt;&lt;br /&gt;
さて、今日はいよいよ西へ向かう旅に出る。すなわちシルクロードへつながるルートである。当時のシルクロードの出発地点であった道路脇には、駱駝に乗った商隊一行のでっかいモニュメントがあり、観光客の目を楽しませている。シルクロードという言葉の響きに、私の気分も上々である。しかし、私たちの乗ったタクシーの運転手は『どうして、日本人はシルクロードとう言葉にロマンを感じるのでしょうか？』と聞いた。『私たちにとってシルクロードとは苦難の旅に通じます。旅に出たほとんどの者が故郷へは戻れず、仮に戻れたとしても10代で出かけた者が戻った時には60代にもなっているのですよ』と……&lt;br /&gt;
それを聞いた瞬間、奈良の薬師寺へ数年前行った時、寺の中庭で解説係の若いお坊さんが修学旅行生たちにこの寺の生い立ちやその時代背景について講義していたことを思い出した。その話のなかで彼は、『シルクロード、それはイコール、ロードクルシなのである』といっていた。『なぜなら、想像もつかないほど困難な道程であったから』と落語の調子でいうものだから、生徒達はくすくす笑っているだけだし、後ろの方で、その説明を盗み聞きしていた私だって、その厳しさなど想像もせず生徒たちに混じって笑っていたのである。意外にも「ロードクルシ」の話をここ西安で現地の人から聞くことになるとは、思いもしなかった。そういうことであれば、僧「玄奘」が天竺までの旅を成し遂げ、そればかりか、たくさんの経典まで持ち帰ったということが、いかに偉大であったかがよくわかる。そして、それをもとにした小説「西遊記」が誕生したこともうなずける。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/no_bu_yo_ko/2962940.html</link>
			<pubDate>Mon, 25 Feb 2008 07:13:37 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>西安の街から東へ行くと…</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-f1-65/no_bu_yo_ko/folder/356875/40/2789640/img_0?1203631736&quot; width=&quot;375&quot;&gt;&lt;br /&gt;
今日の旅は、西安の街から東へ向かう旅であった。その昔、人々は中国大陸で産出される様々な物資を求めて東へと旅だった。&lt;br /&gt;
東の門から車で３０分位行ったところに、渭水の支流である&amp;#28766;水という川が流れており、そこに架かる橋を&amp;#28766;橋という。「ここは、東へ旅する人を送るメッカであった。送る人、送られる人は、この川岸で送別の宴を張る。送る人が、川岸の小枝を折って葉をまるく環状に結んで送られる人の髪に挿してやるのである。「環」が「還」と同音であるところから、旅人の無事な生還を祈る心ずくしの儀式である」と、伴野朗著書の「国士無双」にこの場面が登場する。事実、詩人李白が玄宗皇帝の怒りにふれ、長安の街を離れなければならない日、親友であった阿倍仲麻呂と他の友人は、彼をここまで見送りに来、ここで別れの宴を催したのである。&lt;br /&gt;
文化大革命以前は、この場所にたくさんの石碑が立ち並んでいたそうであるが、今はそれらもなく、まだ成長もしていない柳の木が川岸にそって数本あるだけだった。東方面には、玄宗皇帝と楊貴妃の愛を育んだ華清池もある。&lt;br /&gt;
玄宗３５歳の時、楊貴妃は誕生した。もともとは息子の妃だった彼女を、玄宗が見初め息子から取り上げる形で自分のものとしてしまった。則天武后の孫である玄宗は、親族の女たちの権力争いに揉まれながら、幼少期を過ごしている。若かりし頃の玄宗は、幼少期の経験を生かし、部下を見極める力、その者たちの意見を聞く力を持ち、そして何より、ずば抜けた判断力を持ち備えていた。国家を統率するにふさわしい人物であり、歴史に残り得る名君であった。しかし、楊貴妃との出会いは彼を変え、国を滅ぼしてしまう程、その判断力まで、にぶらせてしまったのである。&lt;br /&gt;
「傾国の美女」といわれる楊貴妃の妖艶な美しさに一歩でも近づきたくて、驪山のふもとにある、この温泉を私たちは訪ねた。約２，７００年前に発見され、今でも人肌の温度のお湯が湧き出ている。秦の始皇帝もここを訪れたし、楊貴妃と出会う前から、玄宗皇帝も冬の寒さを防ぐためここで過ごすことがお気に入りだった。&lt;br /&gt;
もちろん、楊貴妃が使用した湯殿の後も残っている。幾つもの燭台をまわりにおいて自分に付き添う幾人もの女性を待機させながら、燭台の薄暗い光の中で白い肌を湯につけている若い女性を思い描いてみた。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/no_bu_yo_ko/2789640.html</link>
			<pubDate>Fri, 22 Feb 2008 07:08:56 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>秦の始皇帝の陵墓の内部が明かされる日は…</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-f1-65/no_bu_yo_ko/folder/356875/78/2698178/img_0?1203459214&quot; width=&quot;106&quot;&gt;&lt;br /&gt;
ここから１．５ｋｍ離れたところに秦の始皇帝の陵墓がある。皇帝墓の一番はじに位置するのがこの兵馬俑で、それが偶然発見された訳だとしたら、まだ何も手の付けられていない陵墓の地下宮殿の中はいったいどんな細工がなされているのか、だれだって興味をそそられてしまう。始皇帝は皇帝に即位した15歳の時から墓造りを手掛け、その完成は５０歳の時である。&lt;br /&gt;
前漢の史家、司馬遷の〈史記〉では、「地下宮殿は地下深く穴を掘り、銅を敷き詰め、柩を納められるようにした。また、珍宝が墓室を満たし、盗掘を防ぐため様々な仕掛けが設けられた。天井には太陽や月など天文図が描かれ、底には水銀で川や海を造り、魚類の油を使った燭台で墓室内を照らした」ということが記述されている。&lt;br /&gt;
この原稿を書いている、ちょうど今（2005年1月）、兵馬俑の数体が上野の森美術館に出張して来ている。その紹介を兼ねて、NHKのニュースでもかなり詳しく、この時代についての説明がなされていた。その中で、陵墓と兵馬俑との関連については、現在調査中ではあるが、最新のコンピューター技術を駆使して地表から調査した結果によれば、陵墓は、司馬遷の史記とほぼ同じ構造になっていることが判明しているとのことであった。しかし、全貌が明らかにされるのには、少なくとも後１００年はかかる見込みらしい。&lt;br /&gt;
陵墓は裾広がりの小高い山になっている。そのてっぺんに登ると、まだ熟す前の緑色のざくろがたわわにぶら下がった段々畑が、一望に広がっている様子を見ることができる。春、花の咲く頃、今においても始皇帝の力の強さを見せ付けるように、この辺り一帯オレンジ色に包まれた輝くような景色に一変するのであろう。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/no_bu_yo_ko/2698178.html</link>
			<pubDate>Wed, 20 Feb 2008 07:13:34 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>兵馬俑の壮大なスケールに感動して…</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-f1-65/no_bu_yo_ko/folder/356875/80/2593580/img_0?1203286963&quot; width=&quot;225&quot;&gt;&lt;br /&gt;
西安と聞いて、まず最初に思い起こすのは、頭上の中心より少しずれたところにちょこんと髪を結い、膝より長めの着物を着た上に鎧をまとい、手には何やら武器を持っていた後もみられるような姿で、深さ５メートル位の坑にずらっと整列した兵士たち、兵馬俑である。その数は、８，０００体もあり、現在でも発掘は続けられている。広大な敷地の中に、この博物館は1号棟から3号棟まである。&lt;br /&gt;
ここは、今から30年前、自分の畑に井戸を掘っていた農民により偶然発見された。発見者である楊氏は以前よくここに来て観光客の相手になっていたというが、今は、ほとんど顔を出さなくなってしまったそうだ。&lt;br /&gt;
一農民の人生まで変えてしまった兵馬俑は、紀元前220年頃から制作され始め、今では素焼きの状態となっているが、制作当時は色付けがされていた。下半身には安定性を保つため、表面と同じ土が詰め込まれているので重さは、一体が１００ｋｇもある。&lt;br /&gt;
兵士の身長は１８０ｃｍ位、顔立ちはそれぞれ異なり、年齢は髭があるのでずいぶん老けて見えるが、20代後半から40代位と思われる。戦国七雄（　韓＝かん、魏＝ぎ、斉＝せい、趙＝ちょう、燕＝えん、楚＝そ、秦＝しん　）の西端に位置していた秦へ、敵が攻めてくるとしたら東方面からであったため、全員東向きに整列し敵から皇帝をお守りしている任務に就いている様子を醸し出している。&lt;br /&gt;
兵士と共に、4頭並んだ馬も数ヶ所にいるが、それらに鞍はない。なぜなら、戦車をひいていた馬なので背中に鞍を置く必要がなかつたのだそうだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらを坑の中に整列させた後、両脇の土の上に隙間ができないように丸木を渡し、その上にムシロを敷き詰め、さらにその上に土を覆って地下の様子をすっかり隠してしまったのである。博物館にはこのとき使用した、みごとなまでに真っ黒に石化した丸木が展示されていた。&lt;br /&gt;
どのくらいの人々が、どのような働きをして、どのような方法でこの重量ある兵士や馬を順序よく並べていったのか、本物を目の前にしてその想像はつきない。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/no_bu_yo_ko/2593580.html</link>
			<pubDate>Mon, 18 Feb 2008 07:22:43 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>中国の壮大な歴史を作り出した都市「西安」への旅</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-f1-65/no_bu_yo_ko/folder/356875/98/2412398/img_0?1203027398&quot; width=&quot;209&quot;&gt;&lt;br /&gt;
オリンピック開催まであと4年の頃…　（2003年8月）&lt;br /&gt;
　　　中国の壮大な歴史を作り出した都市「西安」への旅&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その昔、長安と呼ばれた省都「西安」とは…&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
北京空港午前９：３０出発の国内線に乗り込み、昼前には西安に到着する予定でいたところ、飛行後20分位の時、西安が大雨の為、飛行機が着陸できないので北京空港に引き返す旨のアナウンスがあり、私たちは振り出しに戻されてしまった。&lt;br /&gt;
北京の国内線ロビーで待つこと二時間…….それでも西安行きの飛行機が出発できた事にひとまずホッとした。&lt;br /&gt;
西安空港に到着すると機外はカラッとしており「飛行機が降りられないほどの大雨は、どこに降ったのかしら？」とつい文句も言いたくなってしまう。それでも、よく見ると空港敷地内の施工の悪いコンクリートの窪みに水が溜まっていた。市内に入っても大雨の降った様子は見当たらず、それどころか空気がかなり乾燥しているのか喉の奥の方に痛みを感じてきた。&lt;br /&gt;
ホテルへ向かうタクシーの中から見える街中の様子はといえば、人の活気はここでも中国独特のものを感じるが、風景はどこかひなびている。築後何年も経っていないようなアパートが林立しているのだが、その道路側に面している窓ガラスの汚れが異様に目立っているのも気になる。この様子では、『掃除などしていないな』と、疑ってしまう。&lt;br /&gt;
しかし、松本清張の「眩人」という唐の時代の長安を舞台にした小説の冒頭で、こんなことが書かれている。寒さが緩むころになると長安の都市全体が黄色い霞に包まれる。一年中で一番難儀な季節である。一般の民家の女たちは、北からの風が黄塵を運ぶのを止めるまで掃除の地獄に陥る。二月にはいると決まって紅色とも、黄色ともつかない砂塵が東北から天をおおってやって来る」と。このことからすると、現在においても砂塵が容赦なく吹いてきて街なかを汚しまくっているものと想像する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「陝西省の省都である西安は、その昔長安と呼ばれた。日本との交流も古く、隋、唐の時代には、遣隋使や遣唐使が日本から派遣され、日本文化に大きな影響を与えた。阿倍仲麻呂や空海もそのうちの一人である。そこには、紀元前11世紀から10世紀の初頭までおよそ２，０００年の間、西周、前漢、唐など多くの王朝によって都がおかれ、秦の始皇帝、劉邦、武帝、唐の太宗、武則天、玄宗と楊貴妃など歴史上の英雄やヒロイン、そして多くの物語を輩出した。また、西安は、シルクロードの起点であり、天竺まで仏教の経典を求める旅に出た玄奘（三蔵法師）も、この地を出発して再び舞い戻った。茶や磁器などは中央アジアを通ってヨーロッパに伝わり、中国にも西方の物産や文化が伝わった。」といったような事が、ガイドブックでは紹介されている。&lt;br /&gt;
たしかに、世界史上に多大な影響を与えた西安に残る史跡は、数多い。今回は、紀元前まで遡らなければならない中国史の重圧に耐えながらの、旅になりそうだ。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/no_bu_yo_ko/2412398.html</link>
			<pubDate>Fri, 15 Feb 2008 07:16:38 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>晋祠には、いまでもこんこんと湧き出る泉があった。</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-f1-65/no_bu_yo_ko/folder/356875/15/2367515/img_0?1202941448&quot; width=&quot;117&quot;&gt;&lt;br /&gt;
内モンゴルのフフホト行きの切符を手にしている私たちの国内線出発時間は夕方のため、太原滞在最後のこの日、その待ち時間を利用して晋祠という寺院をまわってから空港へ向かうことにした。&lt;br /&gt;
ここには、アメリカのクリントン大統領も訪れたという。大統領訪問前は、大規模な大掃除が行われ、大変な騒ぎだったらしい。確かに、同じ素材を料理するのに、『調味料をちょっと加えただけで一味違う』というのと同じで、ゴミのない観光地はその美しさが一段と引き立つ。特に中国についてはそれを感じてしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
晋祠は周の武王の次男を祀るため北魏代に創建され、彼の母を祀る為の聖母殿は北宋代に建立された。この聖母殿の左側に水が年中休むことなく湧き出る泉があるとのことなので、まずそこに向かおうとした。けれど、森の奥深くに建物が位置しているとみえ、入口の門をとっくに通過しているにもかかわらず、なかなか目的地へ到達することができない。あの紫禁城より奥行きはありそうだ。それでも、どんどん徒歩を速めて奥へ進んでいくと、だんだん緑の木々が多くなり、それらの枝が空を覆っている為、辺りは薄暗くなりはじめ、ひんやりした空気さえ肌に感じてきた。途中、人が４～5人手をつながないと幹を囲めないほどの太さの槐（えんじゅ）の樹があった。遠い昔が近づいているような気配に、普段は私が後から小走りしないと追いつけないほど速足で歩く夫の歩き方も鈍くなってきている。&lt;br /&gt;
いよいよ本殿に入ったのか、人に触られ過ぎてピカピカに光った１ｍ位の鉄人の像が何気なく外に据え置かれている。この像は、両足を広げ、右手を顔のところまで引き上げ、左手を腰のあたりで折り曲げ、いつ敵が襲ってきても『私はいつでも戦う準備ができていますよ』といったようなポーズで構えている。顔はいかめしい。口を真一文字に結び、鼻は顔の中央にどっしり据わり、左右の太い眉毛はくっつき、目は大きく見開かれている。服装は布のようなものをまとっているのだが、腰紐でウエストをギュッと結び、足にかかる布もひっかからないように膝のところで結んでいる。中国人の子供がまるで自分の玩具道具のようにこの鉄人の腕にぶら下がって遊んでいたのが印象的だった。&lt;br /&gt;
ふと目を移すと、8本の殿柱に木彫りの龍が躍動感たっぷりに絡まっている。私の、今は成人して数年たっている長男、もうすぐ成人を迎える次男が、幼い頃これらに出会っていたとしたら、この姿の恐ろしさに大声をあげて泣き出していたに違いない。そのくせ、この二人、こういうものが大好きなのである。もし、これらとの出会いが会ったら、生涯忘れ得ぬ光景として彼らの心の中に刻みつけられていただろうに。&lt;br /&gt;
８体の龍をじっくり観察してみると、頭は勇ましく天に向かい、その眼はまっすぐ空を仰ぎ見ている。その姿に未来が感じられた。&lt;br /&gt;
聖母殿の向かって左側に水がこんこんと湧き出ている泉はあった。この泉にはこんな言い伝えがある。「病気の母親の為に、娘が毎日、毎日山から里へ水を汲みに行ったのを見ていた仙人が親孝行の娘の為に、いつでも水が湧き出ているこの泉をプレゼントした」という話である。泉の大きさは、東西に１５．５ｍ、南北に１９．５ｍである。この上に十字形の石造りの橋を渡してある。流れ出てくる水に手をかざしてみたが、その感触はなまぬるかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後日、この祠についての資料を見てわかったことは、ここに存在しているほとんどすべてのものが１，０００年以上も昔のものであるということである。あの槐（えんじゅ）の樹は２，０００年前、柱に絡みついた龍は１，０００年前、子供の玩具となっていた鉄人ですら９００年前のものだった。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/no_bu_yo_ko/2367515.html</link>
			<pubDate>Thu, 14 Feb 2008 07:24:08 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>魔法のような輪タクにのって世界遺産の街を一巡り</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-f1-65/no_bu_yo_ko/folder/356875/07/2298607/img_0?1202808337&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
太原駅近くのバスターミナルから、バスに揺られて一時間半後、世界遺産指定都市「平遥」に到着する。旅行前の日本での旅行書をパラパラとめくっていた私を印象づけたのは、その本のグラビアで紹介されていた平遥の町並みだった。&lt;br /&gt;
明代に建築されながら現存している民家の数々、城壁の門を毎日通り抜けながら、羊飼い達が放牧のため羊を追う姿…..古めかしい街を色で例えるなら、沈んだ灰色といった感じ。だけれど、なんだか暖かさが体に伝わってくる感触は何なんだろう。所詮は旅行書なのだから、いいところばかり写しているのだと皮肉を込めて見ていても『行ってみたい！』という意志が強まってくる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 平遥バスターミナルの周りには個人タクシーならぬ個人持ち輪タクに、お客を乗せて一商売しようというおじさん達でごった返していた。私達は最初から利用する気がなかったので彼らの誘いを無視し続けていた。ともかく最初の場所では、周りの景色をぐるりと見渡した後でないと第一歩は踏み出せないので、そのためにしばし立ち止まっていた時、その内の４０歳代くらいの「人のよさそうな」一人がお客をゲットしたい一心で私達に詰めよってきた。それでも断り続けていたが、その熱意にとうとう負けてしまい数時間付き合ってもらうことに話を決めた。『まったく、商売上手なんだから』&lt;br /&gt;
とりあえずは、あこがれの城壁からスタート。明代、この都市を囲んだ城壁は外界からの敵の侵入を防いでいた。敵を防ぐために、高さ１２ｍ、上部は何百人もの、ひょっとしたらそれ以上の兵士たちが当時のあらゆる戦法で敵に向かって攻撃できるように、幅が５ｍ位程もある道路のようなこの壁を築かねばならなかったのかも知れない。　周りの壁は、寸分たがわずレンガが積み重ねられている。灰色に感じた町並みは、このレンガのせいだったのだろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 ひとしきり城壁の散策を楽しんだ後、輪タクのおじさんは古民家へ私達を運んでくれた。明代から清代にかけて金融業が盛んだった平遥の商人達が競って建築した民家は、山西省独特の造りとなっているのが特徴である。おごそかに表門から足を踏み入れると、まず、中庭があり、いくつもの部屋がその両脇に連なり、その奥にどっかり構えた大きな部屋が横に並んでいる。その上に二階があり、さらに屋上まである。屋上に出ると屋根から突き出たオンドルの煙突をみることができる。財を抱えた家とはいえ、この当時から暖房設備が整っていたということは、いかにこの地方の冬が厳しいものであるか物語っているようだった。しかし、この自然環境は、山西人の勤勉さ、堅実さ、つつしみ深さ、団結力の源を作り出したのである。山西商人と呼ばれる人たちが、商売をする上で粘り強さを持ち備えた巧みな交渉術を行使できたのは、幼い頃から自然と身に付いた、これらの根本的要素があったからであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 一階は、商売や接客のために使用されていたほか、主人夫婦そして男たちの住居でもあったとのことである。二階は女たちの住まいとなっており、ここで育った娘たちは、この二階が唯一の世界であった。そのため、嫁入りまで表に出されることはほとんどなかったという。まさに「箱入り娘」である。部屋の内装は、贅を尽くしており、柱、梁そして窓枠にはレース模様に似た彫刻が施されている。柱一本の細工のために数年も費やしたものもあるらしい。それというのも、懸命に働いて得た富をレンガや瓦、豪華な彫刻に費やすことが山西商人たちの文化スタイルだったからだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 見学したうちの一軒の民家には、今でもここで生活している家族があった。私達の案内人を勤めてくれた、この家の２０歳になる息子さんの話しによれば、彼らは以前からここで生活をしているのではなく、数年前にこの家を買い取ったという。彼はこんな台詞を私達に提供してくれた。『当時の人たちは、商売もうまく行き、繁栄したが為にこのような立派な家々を造ることができました。あるときから稼業が衰退し、古いものばかりが取り残されてしまい、それを建てかえる力も無くなってしまったのです。けれど、それが今またその古さ故に世界中から注目され、また繁栄し始めました』と。&lt;br /&gt;
彼の家族の生活の糧は、美術品の製作である。漆で塗り込められた厚さ３ｃｍ位の黒板に中国の美人画や童、そして龍などの絵を色とりどりの絵の具のような、ペンキのような素材のもので描き、それを壁掛けや屏風に仕上げている。黒塗りした板があまりにもピカピカ光っているので、それはどうしてかと聞くと馬の油で磨くとこのように美しい光沢が出るのだと教えてくれた。&lt;br /&gt;
むかしは、「良い家には良い家具が必要である。家と家具は代を経て継承されるもの」という、山西商人の考えに基づいて十分考慮された家具が作られた。今の時代でもこの考え方が息づいているから、このような工芸品を仕上げることができるのだろう。そして、イギリス人が物を大切にし、壊れたらまた修復して使うのと同じように物に対する愛着の気持ちを中国の人も持ち合わせているのだと思った。&lt;br /&gt;
生活の為の必需品である自転車についても同じようなことが言える。中国の道路には自動車の量をはるかに凌ぐ自転車であふれかえっている。特に朝の出勤時間帯には、道一杯に広がった自転車群が波のように押し寄せてくる様子を見ることができる。大きな街の通りには、自転車の部品屋さんが何軒も並んでいるので、必要な時にいつでも修理できるような仕組みになっている。そこには、椅子カバーの取替え用まで置いてある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 私達の乗った輪タクも修理に修理を重ねているようなものだった。運転手のおじさんが、いかにこの商売道具の輪タクに愛情を注いでいるか見てとれる。中国で走っている輪タクのほとんどは、日本の３０年位前のごつごつした感じの自転車の後ろに人力車のような二人乗りの椅子が取り付けられている。それの繋ぎ目のところはトレーラートラックのようなピンで止めてあるため、直角の曲がり角でも運転席と乗車席がうまい具合に折れ曲がり、スイスイ通ることができる。だから、高い塀で囲まれている上に、人が三人並んだら通れなくなってしまうような小路が複雑に続いている、古民家が並ぶ辺りでも平気で走り抜けることができるのだ。このおじさんのさらなる工夫はペダルをこぐ労力を少しでも省こうとして、独自のモーターを取り付けていることだ。燃料を入れるタンクはペットボトルである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 古民家の見学も終え、これで平遥の観光も終わりかなという時、おじさんは次の提案を持ち出してきた。「双林寺」へ行かないかと言うのだ。そこへ行くには車がビュンビュン走る道路を１０ｋｍも走らなければいけないのに。しかし、私達はまたおじさんの提案に応じてしまうのである。輪タクに乗って、いとも簡単に「双林寺」へ到着した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 この寺は、５７１年に創建された仏教寺院である。元、明、清時代に作られた２，０００体以上の彩色塑像が納められている。塑像とは、その中心をなす心棒の回りに縄などを巻きつけ、よりしっかりした軸を作り、そこに粘土を貼り付け像の形に仕上げたもののことをいう。ちなみに、唐の国から日本へ渡ってきた鑑真和尚が、僧になる為の戒律を定める場所として使用した建物、戒壇院が奈良東大寺の隣にある。その中に、納められている１，３００年前の４体の四天王もこれと同じ工法で製作されている。今は、粘土の色がむき出しになってはいるが製作当初は、赤、緑、金の色で塗られていた。国宝となっているこれらは、日本最古の塑像とのことである。&lt;br /&gt;
 女性らしき塑像は、お顔立ちも柔和で全体のバランスもしなやかで、それをずっと見続けていると、中国の茶館に入って茉莉花茶を一杯頂いた後のように私の気持ちもしっとり落ち着いてきてしまう。男性らしき塑像は、写実的で躍動感があり、その前に立つと吸い込まれてしまうようであった。&lt;br /&gt;
しかし、特別の像と思われるものはガラスケースの中で保護されているが、ほとんどのものがガランとした寺院の中に置かれただけで、それの塵を払うことも無いと見えて、埃が像の肩や胸元あたりまで積もっていた。それがかえって素朴さと身近さが感じられ、私の心はそれらに惹き付けられてしまう。北京や東北地方の仏像は、文化大革命でずいぶん犠牲になったと聞いたが、首都周辺から離れた地に納められたこれらの仏像たちは幸運にも、毛沢東のこの革命から逃れることができたのだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 双林寺の門の前でおじさんは私達をずっと待っていてくれた。寺院からバスステーションへ向かう、真っ直ぐに伸びた道の両脇には、幹が白樺のように白くて、高さはそれよりももっと高い樹木が植えられている。その並木道を時速２０ｋｍ位の輪タクに乗って進むと、うちわで扇いだくらいの風が体全体にそよいで来る為、心地よい。道の両側で農家のおばさん達が出店している山のように積まれた、桃からほんのり甘い香りまで漂って来るのがわかるようだ。太原駅ももう目前…。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/no_bu_yo_ko/2298607.html</link>
			<pubDate>Tue, 12 Feb 2008 18:25:37 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
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