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永山グラウンド、かってこの方向に山があった。 昭和二十四年に「緊急失業対策法」というのができて、「失体事業」'を 兼ねた工事であった。 そこで働く人は日給240円に定められていたので、「ニコヨン」と呼ばれた。 朝、滝の上町の坂の途中にあった「青梅職安」に、坂に沿って失業者が並んだ。 山を崩すには、「発破」(ダイナマイト)が使われた。 その日は、旧青梅の大イベントで、町民は(固唾を呑んで)点火を待つ。 私の見物席は、青梅駅ビルの屋上で、永山を真正面に見る一等席であった。 その日だけ、屋上が開放されたのだ。 「発破」は成功し、、大音響とともに山を爆破した。大歓声が上がった。 「発破作業」のその後を始末するのが、労務者の仕事で、 その一人にM雄さんがいた。 M雄さんは「焼芋屋」でわが家の前住んでいた。 二軒つづきの長屋で、片方がSさんという近くの医院の女中さん親子 (旦那さんはいなかったようだ)。 M雄さんには、奥さんがいたが、母の話では発狂し、長屋の屋根を はしりまわったという。 その屋根は茅葺きで、葺き直されていないので、ペンペン草が生えていた。 私はこの屋根を見上げるごとに、はしりまわったら、 屋根を踏み抜くにちがいないとおもった。 M雄さんの家の暗い土間には、大きな竈(かまど)があり、 中に小石が詰まっていた。薩摩芋を蒸し焼きするのである。 母に言われて、私は焼芋を買いにいったが、 子供のいないM雄さんは、私を気に入り、暗い土間で遊んでくれた・・・ その内、長屋は取り壊され、空地になり、近所の子供たちの遊び場となった。 相撲をとるには格好の場所であった。 ある日、疎遠になっていたM雄さんを私は、失業者の列の中に発見した。 M雄さんは永山で働いていたのであった。 私の記憶では、脳卒中で左手がマヒしていたようだ。あの体で肉体労働が よく勤まったものだと今にしておもう。 「発破」で爆破された土砂をツルハシとスコップでトロッコに積み、 谷まで運ぶのが仕事。その作業はいつ果てるともしれない労働 で、子供たちは永山公園に行くと、時間を忘れて見物したものである。 日曜日になると、子供たちはトロッコ遊びをした(もちろん私も)。 はしり終えたトロッコを元に戻すのは、子供の手に負えなかったので、 そのままにして帰った記憶(罪悪寒が今でものこっている)。 一方、口の悪い町の人は、「一時間働いて三十分休憩する」と労務者の怠惰を 非難していたようだ 永山公園は昭和34(1959)年、整地完了、37年にグラウンドが竣工された。 今は春は桜、秋は紅葉の名所。 傍らに、青梅に住み、歌誌「川波」を主宰した歌人高田浪吉の歌 「たたなつく 山見よ 姿しつまりて 町はうるほふ 青梅やまかひ」の歌碑。 たまに永山公園にでかけると、つい私はM雄さんの方に思いがいってしまうようだ。
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にこよんが 当時の物価で安かったのか 高かったのかわからないですが 1時間働いて30分休んででは 一日の収入は たいしたことなかったのでしょうね 子供のころにかかわった人というのは 記憶に深く刻まれますね
2007/3/13(火) 午前 6:44 [ - ]
懐かしい昭和の言葉の数々!
幼かったあの頃にはたくさんの遊び場や自然が残っていましたよね!
わたしは学校の裏山で滑って沢でタニシを取って遊んでいました!焼き芋屋のMさんの悲しい人生の中にもどこかに幸せがあつたのでしようと思いたい🌈
2018/9/3(月) 午前 0:43 [ 出渕澄子 ]