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写真は青梅・裏宿町、七兵衛公園の「裏宿七兵衛供養碑」1960(昭和三十五年建立)。 私の生家の隣りは、水道局の課長さんの家で、敷地は青梅線の線路まで 細長く伸びていた。課長さんには奥さんと高校生くらいの息子さんがいた。 早起きの家で、でっぷり肥った、禿頭の課長さんは毎朝、路上で乾布摩擦し、 朝日を拝んだ。課長さんは近所つきあいはなく、裏庭にある温室で、 蘭の栽培をやっていたが、人に見せることはなかった。 息子さんは秀才タイプの一人息子で、こちらも近所つきあいはなかった (私は課長さんが不在の昼間、一度だけ二階にある息子さんの部屋に招かれたことがある)。 息子さんはお隣の上町にある九兵衛稲荷に毎朝お詣りしていた。 私の睡眠は息子さんの下駄の音で破られた。息子さんは受験合格を祈願したのであろうか (おそらく課長さんの厳命だったのであろう)。 その後、私の家は上町に引っ越したのだが、ある日、その息子さんが亡くなったと 母から聞いた。母と課長さんの奥さんとは親しかった。 その後、課長さんは町の東外れに家を新築、引っ越したそうだが、 ほどなくその課長さんも亡くなった。 ほどなく課長さんの奥さんもあとを追い、一家は絶えたという。 隣りの課長さんの敷地は、裏宿七兵衛の畑だったと誰かから聞いたが、 それが母であるか誰であるか分からない。 七兵衛通りに面したその土地は現在駐車場になっている。 この話は四十年も前の話で、今青梅で裏宿七兵衛の「祟り」をうんぬんする人はあるまい。
(この項おわり) |
わが青梅秘話
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写真は江戸時代の坂上旅館(宇津木啓太郎さんの先祖が営む)、表情が明るく、 個性的で往事の繁栄がしのばれる(「御嶽菅笠」より)。 老舗坂上旅館は、私の子供の頃は青梅・西分町で営業していたが、現在はない。 「夏雲に憶う」では、七兵衛地蔵尊祭礼での、青梅第一小学校の校長さんの挨拶を 紹介している。 当時の宿谷校長が 「毎夏、千葉の海岸で臨海学校を開いているが、初めの日にこの地蔵尊のお神酒を 注いで安全を祈ってから児童を海に入れますが、以来お陰で何の事故もありません。 又この前の踏切りでも登下校時に事故はありません」と祝辞を述べたと書いている。 臨海学校は、千葉外房の鵜原海岸で行われた。 小学五年の時か、私も行った思い出がある。記念写真の私は苦虫をかみつぶしたような表情 をしているが、これは下痢で苦しんでいたからである。しかし、水難事故はなかった。 また啓太郎さんは、「七兵衛通り」という名称について、 市道に愛称をつける委員会の委員長になり、 裏宿七兵衛を「偲ぶよすが」として命名したと語っている。 地名といえば、変遷があるようだ。 裏宿町は戦後、梅園町という風流な名称だったのが、ふたたび裏宿町に戻っている。 (一時、「裏」のイメージが住民に嫌われたのであろう。元に戻ったのは、 七兵衛さんの功績でしょうか)。 ついでながら、青梅線日向和田の、多摩川をはさんだ対岸に、
「日陰和田」という地域があったが、これは単に「和田」と変わった。 これは今後とも戻ることはあるまい。 |
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写真は七兵衛の事件より約100年後、御嶽山参詣のための道中記 「御嶽菅笠」に描かれた青梅宿。1834(天保5年)神官により出版されたという。 七兵衛地蔵尊の「由来」説明によると。七兵衛は、飢饉に苦しむ村人の救済に 「自分の財産」をもって「奔走」し、ついには「甲斐・相模・秩父」方面に盗みにでかけ、 盗品を「村内貧者の軒先に」置き去ったという。 処刑されるに及び、七兵衛は「自分は甘んじて、これを受けるが、 妻子にまで及ぶなら怨霊となって永久に地元に災いする」と言い残したという。 昭和七年「地蔵尊」を奉祀すると、西多摩郡役所はもとより、 「この付近、町内にも何等不吉事」が起こらなくなったと説明する。 しかし、七兵衛の祟りについての迷信はそう簡単になくなりはしない。 青梅の名士で都議会議員であった宇津木啓太郎さんは自伝「夏雲に憶う」のなかで、 「義人裏宿七兵衛さん」を著している(中学生の私にとっては、 柔道会の会長としての啓太郎さんの方がピンとくる)。 啓太郎さんは都バス乗り入れを公約し、「昭和二十五年に遂に荻窪ー青梅間の都バス 開通が実現した」のであるが (青梅の花火大会はこれを記念して同年八月初めて催されたそうである)、 その車庫として当初考えられたのが、裏宿の七兵衛さん屋敷跡であった。 ところが、啓太郎さんの父(終戦前後の町長)に
「お前は七兵衛さんの屋敷跡を都バスの車庫にするそうだが、とんでもない話だ。 お前は七兵衛さんと言う人がどんなに恐い人か知らないからそんなことを考えるんだ。 あそこは絶対に駄目だ」といわれ、すでに記したような不吉な実例を示したという。 こうして森下の熊野神社脇に車庫が造られたのだそうだ。(つづく) |

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写真は七兵衛の敷地の一つといわれた西多摩郡役所の土地(現青梅中央図書館) 「祟り」の七兵衛像にいちはやく反応したのが、大正四年(一九一五) 移転新築された西多摩郡役所。 この土地は七兵衛の所有地で、 明治になってここに文房具屋を開いた人が亡くなり、 郡役所工事中も怪我人が出たり、 前の踏切で課長さんが轢かれたり、 不吉なことがつづく(これは逆に不吉なことがつづくので、 七兵衛の所有地ではないかと疑い、ついで所有地ということになったのか。) 他にも七兵衛所有の飛地というのがあり、やはり不吉なことが起きたといわれる。 敷地の傍らに七兵衛地蔵尊が奉祀されるのが昭和七年五月三日(一九三二)、 「大菩薩峠」が全国紙で連載されている時期で、その影響が見てとれる。 地蔵尊の本体は役所史員の吉沢義忠さんの木彫りで、 仕事の合間にこつこつ制作したらしい (「吉沢」と「忠」とから、裏宿の外祖父の姻戚のようにも推定できる。 亡くなった伯父は忠一といった)。 地蔵尊の由来説明に「彼(七兵衛)は又稀に見る健脚で、 一反(一○米)のサラシ木綿を地につけずに風のように走り、 一夜のうちに五十里(二百キロ)往復するほどでした」とある。 「大菩薩峠」では檜張りの笠を胸に当てて歩いても胸から落ちなかったというのが、
ここではサラシ木綿に変わっている。 一夜に五十里は同じである。サラシ木綿が伝説にあったのか、 由来を書いた人の創作なのか分からないが、 青梅縞の産地の人からはサラシ木綿の方がわかりやすいし、すでにふれたように 後方にサラシ木綿が流れる栞の絵にはスピード感がある。 伝説は変わるようである。 |
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写真は青梅街道沿い七兵衛公園入口の庚申塔 さらに「青梅の町の坂下というところに「七兵衛地蔵」というのがあった。 それは七兵衛は盗んで来た金を、夜な夜なそこへ埋めて置いた。 七兵衛が斬られて後、掘り出され、その後へ石のお地蔵様を立てて 「七兵衛地蔵と名づけられる」といい、 「この地蔵は足腰の病によく信心がきくと伝えられた、 それから勝負事をするものにも信仰された」と当時七兵衛が信仰の対象であったという。 ついで七兵衛の屋敷跡に話がうつり、「今現に「七兵衛屋敷」 と唱えて青梅の裏宿に桑畑が残っているが、この「七兵衛屋敷」には さまざまの祟りがあると言い触らされている。最初にそれを買った人は、 手入れをする早々、眩暈がするとて、引っ込んでその晩頓死した。 二度目に、安くそれを引き受けた人は、ブラブラ病にかかって、 三月目ほどで死んでしまった。」といい、 三度目に買った「剛情な男」は 「桑の枯枝を結えてあった藁がプッツリと切れて、その枝が眼を撥ねた、 家へ帰ってくる間に、その眼がつぶれてしまった」と書く。 健脚七兵衛に加え、ここでは祟りの七兵衛像が提示される。
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