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朝の歌 天井に朱(あか)きいろいで 戸の隙を 洩れ入る光、 鄙(ひな)びたる 軍楽の憶(おも)ひ 手にてなす なにごともなし。 小鳥らの うたはきこえず 空は今日 はなだ色らし、 倦(う)んじてし 人のこころを
諫(いさ)めする なにものもなし。
樹脂(じゅし)の香に 朝は悩まし
うしないし さまざまのゆめ、
森並は 風に鳴るかな ひろごりて たひらかの空、 土手づたひ きえてゆくかな うつくしき さまざまの夢。 汚れちまつた悲しみに…… 汚れつちまつた悲しみに 今日も小雪の降りかかる 汚れつちまつた悲しみに 今日も風さへ吹きすぎる 汚れつちまつた悲しみは たとへば狐の革裘(かはごろも) 汚れつちまつた悲しみは 小雪のかかつてちぢこまる 汚れつちまつた悲しみは なにのぞむなくねがふなく 汚れちまつた悲しみは 懈怠(けだい)のうちに死を夢む 汚れつちまつた悲しみに いたいたしくも怖気(おぢけ)づき 汚れちまつた悲しみに なすところもなく日は暮れる…… (以上「山羊の歌」より) 一つのメルヘン 秋の夜は、はるかな彼方(かなた)に、 小石ばかりの、河原があつて、 それに陽(ひ)は、さらさらと さらさらと射してゐるのでありました。 陽といつても、まるで硅石(けいせき)か何かのやうで、 非常な個体の粉末のやうで、 さればこそ、さらさらと かすかな音を立ててもゐるのでした。 さて小石の上に、今しも一つの蝶(てふ)がとまり、 淡い、それでゐてくつきりとした 影を落としてゐるのでした。 やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、 今迄流れてゐなかつた川床に、水は さらさらと、さらさらと流れているのでありました…… 冬の長門峡 長門峡に、水は流れてありにけり。 寒い寒い日なりき。 われは料亭にありぬ。 酒酌(く)みてありぬ。 われのほか別に、 客とてもなかりけり。 水は、恰(あたかも)も魂あるものの如く 流れ流れてありにけり。 やがても蜜柑(みかん)の如き夕陽(ゆふひ)、 欄干(らんかん)にこぼれたり。 あゝ! ―― そのやうな時もありき、 寒い寒い 日なりき。 (以上「在りしの歌」より)
【編者注】
「朝の歌」は大正十五年・昭和元年(一九二六)中原中也二十歳の頃の作。昭和三年音楽グループ「スルヤ発表会」で諸井三郎作曲により歌われた。 「汚れちまつた悲しみに ……」は 昭和五年四月同人雑誌「白痴群」に発表。 中也は、十八歳で年上の女優、長谷川泰子と京都で同棲、十九歳で上京する。 その年、長谷川泰子は中也の友人、小林秀雄と同居、中也と別れたが、中也とのつきあい はその後も続いた。 「山羊の歌」は昭和九年十二月、二十八歳のとき刊行され、生前唯一の詩集とな
った。
壇一雄の「太宰と中原」(河出書房新社発行「文芸読本・中原中也」)によれば、雪の夜、中也と壇一雄は、中也に絡まれて逃げ帰った太宰治の家に押しかけ、'''「太宰
の枕元をおびやかした」'''が、起きないので、「中也の狂態」がつのり、止める壇に
「一つのメルヘン」は昭和十一年十一月、二十九歳のとき発表された。中也は雪の道に「引き擦りおろ」され、「放り投げ」られる。その後、川崎の「娼 家」で一晩過ごし、明け方、「夜中の雨でまだらになっ」た雪道を'''「汚れちまった悲 しみに/今日も小雪の降りかかる」'''と「低吟して歩」いたという。昭和九年の秋から冬 にかけてのエピソードらしい。
中也は昭和八年、遠縁の上野孝子と結婚、翌年長男が産まれるも、十一年十一月
その年の秋に、山口への帰郷を計画していたが、十月二十二日、急性脳膜炎にて永急死。中也は神経を病み、翌年一月、千葉の療養所に入院。退院後、鎌倉扇ガ谷寿福 寺裏に住む。 「冬の長門峡」は退院後の作で、昭和十二年四月に発表された。 眠。享年三十一歳。 第二詩集「在りし日の歌」の原稿は死の前月に小林秀雄に託されていた (刊行は翌年の四月)。 【付記】 掲出詩は比較的入手容易な左記の文庫本に依った。編注は文中に出典を明示した。 岩波文庫 蕪村俳句集 尾形 仂校注 藤村詩抄 島崎藤村自選 萩原朔太郎詩集 三好達治選 室生犀星詩集 室生犀星著 春夫詩抄 佐藤春夫著 宮沢賢治詩集 谷川徹三編 三好達治詩集 桑原武夫・ 大槻鉄男編 新潮文庫 北原白秋詩集 神西 清編 角川文庫 中原中也詩集 河上徹太郎編 中公文庫 日本の詩歌5石川啄木 (その他、各全集とりわけ新潮社の昭和四十二年発行「日本詩人全集」を参考にした。) 写真は青梅の古刹金剛寺の梅、青梅の名前の由来となった。
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抒情詩篇「珠玉」
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乳母車 母よ 淡くかなしきもののふるなり 紫陽花(あぢさゐ)いろのもののふるなり はてしなき並樹のかげを そうそうと風のふくなり 時はたそがれ 母よ 私の乳母車(うばぐるま)を押せ 泣きぬれる夕陽にむかつて 轔々(りんりん)と私の乳母車を押せ 赤い総(ふさ)ある天鵞(びろおど)絨の帽子を つめたき額(ひたひ)にかむらせよ 旅いそぐ鳥の列にも 季節は空を渡るなり 淡くかなしくもののふる 紫陽花いろのもののふる道 母よ 私は知つている この道は遠く遠くはてしない道 雪 太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。 甃のうへ あはれ花びらながれ をみなごに花びらながれ をみなごしめやかに語らひあゆみ うららかの跫音(あしおと)空にながれ をりふしに瞳(ひとみ)をあげて 翳(かげ)りなきみ寺の春をすぎゆくなり み寺の甍(いらか)みどりにうるほひ 廂(ひさし)々に 風鐸(ふうたく)のすがたしずかなれば ひとりなる わが身の影をあゆまする甃(いし)のうへ (以上「測量船」より) 「乳母車」は、大正十五年・昭和元年(一九二六)三好達治二十六歳のとき、同 人雑誌「青空」発表された。「甃(いし)のうへ」、「雪」も「青空」に発表され、初 期の代表作となる。処女詩集「測量船」は三十歳のとき、「今日の詩人叢書」第二巻 として刊行された。 三好達治は昭和二十八年に書いた「自伝(自分のこと)の中で「・・・その前後、 大正十二、三年頃から数年はやたらに新刊旧刊の詩集を耽読し漫読した。萩原朔太郎 の「月に吠える」「青猫」その他は最も愛読した。 当人の(三好達治のこと)の例の 模倣癖はむろん活溌に触手を動かしたが、 この際はどうにも始末が悪くかつかう(格 好)がつかないのに苦しんだ。 萩原さんのはあれは学んで学びやうがない、学び甲斐 のない骨法なのが 最初からうすうす解ってゐたが、諦めのつくまでには時間がかかった。 同時に室生犀星の初期の詩風にも模倣癖は本然的に働きかけた。「測量船」の初 期の詩風にいくらかその跡をとどめてゐるのをいつぞや萩原さんから指摘をうけた。 指摘をうけるまでもなく当人にその自覚があったから赤面し、閉口した」と 犀星詩の 影響を隠していない。 直接的には掲出の「甃のうへ」が犀星の「うつくしきみ寺なり/ み寺のさくられうらんたれば」ではじまる「春の寺」の本歌取りであり、 大岡信氏は「日本詩人全集 三好達治」(新潮社)の解説で、 最終行の「わが身の影をあゆませる甃のうへ」にいたって「危機一髪の地点で、 達治以外の何ものでない作品となり得ている」といっている。 「乳母車」には、生母から離れて、一時養子になったり、祖父母に預けられたりした 少年時のさびしさ、かなしさが感じられる。犀星もまた一歳で貰い子に出され、 生涯生母に会うことはなかったという。 「雪」一編はシンプルの極みにして、たとえば谷内六郎の表紙絵のような情景が見え、 降る雪の音なき音が聞こえてくる。中原中也がこの詩に嫉妬したとどこかに書いてあった。 写真は東京・青梅の古刹、梅岩寺の枝垂れ桜。
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永訣の朝 けふのうちに とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ (あめゆぢゆとてちてけんじや)※1 うすあかくいつそう陰惨(いんざん)な雲から みぞれはびちよびちよふつてくる (あめゆぢゆとてちてけんじや) 青い蓴菜(じゅんさい)のもやうのついた これらふたつのかけた陶椀(たうわん)に おまへがたべるあめゆきをとらうとして わたくしはまがつたてつぽうだまのやうに このくらいみぞれのなかに飛びだした (あめゆぢゆとてちてけんじや) 蒼鉛(さうえん)色の暗い雲から みぞれはびちよびちよ沈んでくる ああとし子 死ぬといふいまごろになつて わたくしをいつしやうあかるくするために こんなさつぱりした雪のひとわんを おまへはわたくしにたのんだのだ ありがたうわたくしのけなげないもうとよ わたくしもまつすぐにすすんでいくから (あめゆぢゆとてちてけんじや) はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから おまへはわたくしにたのんだのだ 銀河や太陽 気圏(きけん)などとよばれたせかいの そらからおちた雪のさいごのひとわんを…… ……ふたきれのみかげせきざいに さびしくたまつたみぞれである わたくしはそのうえにあぶなくたち 雪と水とのまつしろな二相系(にさうけい)をたもち すきとほるつめたい雫にみちた このつややかな松のえだから わたくしのやさしいいもうとの さいごのたべものをもらつていかう わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ みなれたこのちやわんのこの藍(あゐ)のもやうにも もうけふおまへはわかれてしまふ (Ora Orade Shitori egumo)※2 ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ あああのとざされた病室の くらいびやうぶやかやのなかに やさしくあをじろく燃えてゐる わたくしのけなげないもうとよ この雪はどこをえらばうにも あんまりどこもまつしろなのだ あんなおそろしいみだれたそらから このうつくしい雪がきたのだ (うまれでくるたて こんだはこたにわりやのごとばかりで くるしまなあよにうまれてくる)※3 おまへがたべるこのふたわんのゆきに わたくしはいまこころからいのる どうかこれが兜卒(とそつ)の天の食に變って やがてはおまへとみんなとに 聖(たふと)い資糧(しりやう)をもたらすことを わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ (「春と修羅」第一集より) ※1 (あめゆきをとってきてください) ※2 (あたしはあたしでひとりでいきます) ※3 (またひとにうまれてくるときはこんなにじぶんのことばかりで くるしまないやうにうまれてきます) 掲出詩の「永訣の朝」は、賢治の二歳年下の妹トシ(とし子)。 花巻高等女学校を出て、日本女子大学校を卒業、母校花巻高女の教諭に。才女であ た。 賢治と同じ(法華経)を信仰し(両親は浄土真宗)、賢治の短歌七百六十二首 を筆写した(宮沢清六編・年譜)。 トシは女子大在学中に、発病(結核の初期であろうか)、教諭になった直後に喀血、その 後自宅の近くの家や別荘で療養するも大正十一年(一九二二)十一月二七日本宅で逝 去(享年二十四歳)。その間、賢治は妹トシの病床にあり、看護につとめた。 第一詩集「春と修羅」は賢治生前に刊行された唯一の詩集で、「永訣の朝」のほ か、「松の針」「無声慟哭」があり、また翌年の青森、北海道、樺太旅行から産まれ た詩にも妹の影が濃厚である。 写真はベランダからの雪景色
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秋刀魚の歌 あはれ 秋かぜよ 情(こころ)あらば傳へてよ
――男ありて
夕餉(ゆふげ)に ひとりさんまを食(くら)らひて 思ひにふける と。 さんま、さんま、 そが上に青き蜜柑の酸(す)をしたたらせて さんまを食ふはその男がふる里(さと)のならひなり。 そのならひをあやしみなつかしみて 女は いくたびか青き蜜柑をもぎ来て夕餉(ゆふげ)にむかひけむ。 あはれ、人に棄てられんとする人妻と 妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、 愛うすき父を有(も)ちし女の兒は 小さき箸(はし)をあやつりなやみつつ 父ならぬ男にさんまの腸(わた)をくれむと言ふにあらずや。 あはれ 秋かぜよ 汝(なれ)こそは見つらめ 世のつねならぬかの團欒(まとゐ)を。 いかに 秋かぜよ いとせめて證(あかし)せよ、 かのひとときの團欒(まとゐ)ゆめに非ず と。 あはれ 秋かぜよ 情(こころ)あらば傳(つた)へてよ、 夫(おっと)に去らざりし妻と 父を失はざりし幼児(をさなご)とに 傳へてよ ――男ありて 夕餉(ゆふげ)に ひとり さんまを食らひて 涙をながす と。 さんま、さんま、 さんま苦いか鹽(しよ)つぱいか。 そが上に熱き涙をしたたらせて さんまを食ふはいづこの里(さと)のならひぞや。 あはれ げにそは問はまほしくをかし。 望郷五月歌(抄) 塵(ちり)まみれなる街路樹(がいろじゆ)に 哀れなる五月(さつき)来にけり 石だたみ都大路(みやこおほぢ)を歩みつつ 戀しきや何(な)ぞわが古里(ふるさと) あさもよし木(き)の國の 牟婁(むろ)の海山(うみやま) 夏みかんたわわに實(みの)り 橘(たちばな)の花さくなべに とよもして啼(な)くほととぎす 心して、な散らしそかのよき花を 朝霧(あさぎり)か若かりし日の わが夢ぞ そこに狭霧(さぎ)らふ 朝雲(あさぐも)か望郷の わが心こそ そこにいさよへ 空青し山青し海青し 日はかがやかに 南國(なんごく)の五月晴れ(さつきばれ)こそゆたかなれ (以上「殉情詩集」より) 「秋刀魚の歌」は大正十年(一九一一)十一月雑誌「人間」に発表され、評判にな った。 この背景には、春夫と谷崎潤一郎夫人千代子をめぐる恋愛事件があり、この年 の三月に、谷崎潤一郎と交友を絶っている(のちに交友復活、昭和五年(一九三○) に春夫は前谷崎潤一郎夫人小林千代と結婚。「夫人譲渡事件」として新聞沙汰とな る)。 新潮日本文学アルバム「佐藤春夫」によると、昭和三十九年(一九六四)五月六 日、「一週間自叙伝」録音中、心筋梗塞のため、春夫は自邸にて急逝。 その一週間前、春夫は某大学の講師として「詩学」を講義した。そのとき、筆者は 大教室で、初めて佐藤春夫の謦咳に接した。 内容は忘れてしまったが、「アルバム」によると、 黒板に白墨で「学に非ず識に非ず詩は別才也」と書いたという。 先生はそのとき、突然講義を中断し、「小用」といって、壇を下りたと記憶する。 写真は鎌倉、天園近くからの風景
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小景異情 その一 白魚(しらうを)はさびしや その黒き瞳(め)はなんといふ なんといふしおらしぞよ そとにひる餉(げ)をしたたむる わがよそよそしさと かなしさと ききもなやな雀(すずめ)しば啼(な)けり その二 ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの よしや うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても 帰るところにあるまじや ひとり都のゆふぐれに ふるさとおもひ涙ぐむ そのこころもて 遠きみやこにかへらばや 遠きみやこにかへらばや その三 銀のとけいをうしなへる こころかなしや ちよろちよろ川の橋の上 欄(てすり)にもたれて唏(な)いてをり その四 わが霊(たましひ)のなかより 緑もえいで なにごとしなけれど 懺悔(ざんげ)の涙せきあぐる しづかに土を掘りいでて ざんげの涙せきあぐる その五 なににこがれて書くうたぞ 一時にひらくうめすもも すももの蒼(あを)さ身にあびて 田舎(ゐなか)暮らしのやすらかさ けふも母ぢゃに叱られて すももの下に身をよせぬ その六 あんずよ 花着(つ)け 地ぞ早に輝やけ あんずよ花着け あんずよ燃えよ ああ あんずよ花着け (「抒情小曲集」より) 老いたるえびのうた(遺作) けふはえびのやうに悲しい 角(つの)やらひげやら とげやら一杯生(は)やしてゐるが どれが悲しがつてゐるのか判(わか)らない。 ひげにたづねて見れば おれではないといふ。 尖(とが)つたとげに聞いて見たら わしでもないといふ。 それでは一体誰が悲しがつてゐるのか 誰に聞いてみても さつぱり判らない。 生きてたたみを這うてゐるえせえび一疋(ひき)。 からだじうが悲しいのだ。
【編注】
第二詩集「抒情小曲集」は、大正五年 (一九一六)、犀星二十七歳のとき発表され、大正七年に自費出版された。 小景異情のその二について、萩原朔太郎 は「室生犀星の詩」の中で、「この詩は人 口に膾炙(かいしゃ)し、或る意味で犀星の代表作とも見られて居る。詩の各行を通じ 一語の形容もなく比喩(ひゆ)もなく、思ひ迫った心の真情と高潮感が、そのまま言葉 の張り切つた音楽節奏(せっそう)となつて、極めて素朴率直に歌はれてる。かうし た詩は、万人の胸に深く普遍的に触れる、 或るペーソスの強い共鳴線を持つて居る が、特に郷里の地方を出で、都会に放浪してゐる青年の男女にとつては、哀傷魂を傷 (やぶ)る思ひを感ずるだろう。」と言い、また、異論のある「そのこころもて」以下につ いては「故郷はただ夢の中にのみ存在する。ひとり都の夕暮に、天涯孤独の身を嘆いて、 悲しい故郷の空を眺めて居る。」と解釈している。 犀星は昭和三十六年(一九六一)三月二十六日、肺癌のため逝去(七十三歳)す るが、「老いたるえびのうた」は前月二十五日に書かれた絶筆である。おのれを戯画 化した、技巧でない技巧の老練を見る。 写真は横浜・みなとみらい地区遠景。
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