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祭りの日は、この数年、青梅勝沼の煙草屋の土間で 酒と煮しめを頂きながら、山車の行来を見、 祭半纏の友人の顔を見るのが恒例となっている。 この煙草屋の女主人Iさんは、中学の同級生、同窓の友である。 この日は立川の友人と東青梅から歩いて、休憩中の 山車を見物しながら、訪ねてみた。途中、地元の 信用金庫で、樽酒「澤ノ井」の振る舞い、さすが銀行と 感心しながら二杯ほど。友人は一杯。 煙草屋には先客一人、やはり祭半纏、股引草履姿。 Iさん出て来て、早速ビール。早めの客ということもあり、 煮しめはきれいに盛られたまま。 「口開けははじめて、うまそう」といって、好きなコンニャクを 一口。友はお赤飯をすすめられて、「これはこれは」と賞味。 お囃子の音をききながら、雑談をしていると、同級生が二人、 加わり、むかし話。そろそろ休憩が終わり、山車が動き出す。 と、やはり祭半纏、股引の男が一人加わった。 「あれ、Hさんじゃないの。」と私。 「石屋さんか」とHさん。 Hさんの高校は当時、高校野球都予選のベスト8に入り、 Hさんはキャッチャー。その影響もあり、 近所に住む私も同じ高校に進学したのである。 「先輩だからね。Hさんは」、放って置かれる友人に 断りを入れてしばし身の上談義。Hさんは卒業後、 大手自動車会社に野球を見込まれて入社、勤め上げたらしい。 現在は、自治会のまとめ役で世話を焼いているとのこと。 あとから来た友人が 「Hさん知ってんの。自治会では一番エライ人」という。 四、五十年ぶりにHさんを見て、日焼けしたその顔は 変わらない。その空白の期間が信じられないほどである。 そのうちゆっくりと再会を約して、Hさんは動き出した 山車を追う。Iさんの娘は、Hさんのもとで手足になって 働いているという。 祭見や酒に煮しめのあり難き 同窓生二人を残して、私は友人と席を立った。 「また来年」とIさんに言いながら。 写真 5/3AM9:00、山車出発前の記念写真。
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続・わが青梅秘話
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トク叔母さんの本業である助産婦の実績は、 助産婦歴50年として、取り上げた数は2千人を越えるのではないだろうか。 お産婆さんは取り上げるだけでなく、湯の使い方の実地指導などアフターもあり、 多忙であった。ラビットという単車を駆使して、青梅中を東奔西走していた。 中学から高校にかけて、私は留守番(電話当番)を頼まれ、二階で読書に耽った。 静かな環境で、留守番は私にとって有り難い仕事であった。 ともかくじっとしていられない性分で、保健所での仕事、青梅マラソンの救護、 俳句会、祭りになると、山車の側を離れない。 (一度、山車に巻き込まれことがある) ビールと巨人戦が楽しみで、気軽に後楽園に行ったりもした。 後年は民生委員になり、あちこち世話を焼き、勲章さえもらった。 トク叔母さんに世話になった青梅人は数知れないとおもう(かくいう私もその一人)。 私は五月の祭りは、欠かさずトク叔母さんの家を訪ね、 ここをベースにして祭りを楽しんだものだ(花火大会もこの二階から見た)。 しかし、死は突然襲った。ある小説家が「死は前から来ない、うしろから来る」 といっていたが、1993(平成5)年11月6日、 トク叔母さんは入浴中発作を起こし、亡くなった。享年73。 写真 4/4の春の嵐で、大嶽山、御嶽山が雪山に。j エベレストではなく雪の大嶽山
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ある助産婦の話 父の妹、助産婦のトクちゃんは平成5(1993)年七十三才で亡くなったから、 大正九(1920)年生まれであったろうか。末妹であるトク叔母さんは父とは九才ちがい。 祖父が健在であったから、大正、昭和と戦争時をのぞき順調な生活環境にあったとおもう。 終戦時が25才。私が物心ついた頃、わが家の表六畳間に居たような記憶がある。 その後、トクちゃんは踏切に近い、山車小屋の隣り、広場に面した二階家を借り、 「助産婦」の看板を出した。 一方で、トク叔母さんは青年団活動に積極的に関わっていたようだ。 青梅市立一中に十年史(昭和三十三年三月発行)があるのだが、当時の 青梅のお歴々(及川校長、後の榎本市長、小学校校長だった森田教育課長の名もある) にまじり、中学校創設時の逸話を話している。 肩書きは「当時の青年団副団長」。 その席でトクちゃんは 「あの当時整地をというお話が来たのですが、二十三年、 まだ混沌としておりまして、食糧事情も悪く、かなりの労働も要ることですから、 やるか、やらないか、団でもいろいろ議論が出ましたが、自分たちの弟や妹が学ぶのだからやった方がいいだろうということでお引受したのです。 最初は各支部に、全部出るように申したのですが、結局は自由意志にまかせました。 延千二、三百人は出たでしょうか。網に土を載っけてかつぐのですよ。 モンペをはいてね。三日目、四日目になって苦情が出てきました。 これではいつになっても運び切れないというわけです。 校舎の西の方が高くて東にそれを移すんですけど。当時Aさんが団長をしておりまして、 これじゃ大変だというので、線路とトロッコををどっから持って来て・・・」と話している。 この時、トク叔母さんは38才位。 この話に出てくるAさんは、土建会社を経営し、市会議員でもあった。 トク叔母さんは、選挙の時、自宅前の広場でミカン箱にのり、応援演説をした。 同志愛というのであろうか。二人が炬燵でビールを呑み、くつろいでいるところに、 訪ねて行き、学生の私もビールを勧められたこともあった。 Aさんは深夜、トク叔母さんの帰りを待っている時、電車に轢かれて亡くなった。 泥酔していたのであろう。1970(昭和50)年のことであった。享年50。 写真はAさんが亡くなった踏切、梅岩寺の桜が見える
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マサ坊のこと 石屋の長男はマサ坊と呼ばれた。隣家の私はヨシ坊で、一つ下であった。 いまは「坊」という呼び方はまれで、「ちゃん」が主流だろうが、 「坊」と「ちゃん」は、呼びやすい、呼びにくいの違いなのだろうか。 いい歳になって「坊」と呼ばれるのはかなわないものだ。 マサ坊は小学四年の時、立川病院に黄疸で入院した。 祖父の実家があったせいか、立川へのこだわりがあったようだ。 伯父は職業病の珪肺で亡くなったが、やはり立川病院であった。 一度マサ坊を基地に近い病院に見舞いに行った覚えがある。 顔が真っ黄色なのに驚いた。マサ坊は家に帰りたがっていた。 マサ坊は伯父と祖父に似、二重瞼のギロッとした目付きをしていたようとおもう。 いかにも石屋の跡取りに相応しい風貌であった。 伯父の弟である私の父は一重瞼で、私も弟妹も一重。 祖父の職人の血を継いでいるとはとうていおもえない。 私はあまりマサ坊と遊んだ記憶はない。今は青梅の大病院の院長である、 Tさんが同級で、兄弟のように仲がよかった。 疎開者の子にも、同級生がいたがこれとは仲が悪かったようだ。 入院中、その同級生の憎んでいたらしい。事情はわからない。 どのくらい入院したのか、マサ坊は亡くなった。 亡くなった夜、隣りの水道局の小母さんは、風呂に入っているとき、 マサ坊の顔を見たと言った。 私も夢にマサ坊が出てきて「ヨシ坊、ヨシ坊」と呼ばれたような記憶がある。 あとからつくられた記憶かもしれないが。あの当時、 死んでも魂は戻ってくると信じられていたようだ。 マサ坊の弟のツネオさん(誰もツネ坊とは呼ばなかった)が 石屋を継いだのであるが、腎不全で障害者の身の上であった。 週三回、血液透析をするのである。 ツネオさんは伯父や祖父に似て二重瞼であった。
ツネオさんは2001(平成13)年1月54才で死去。 |
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Uさんが来た Uさんは、寝間着のような着物着て、手にノコギリ、草履履き、 月に一度ほど「七兵衛通り」(写真)にやってきた。 「Uさんが来た」二本洟のガキは大あわて、家に逃げ帰る。 逃げ遅れた子供は、「オラッ」の一声に縮上がり、悪い事をしたように、 そろりそろりと後退り。 坊主刈りの日焼け顔、年齢不詳、Uさんが現れると、通りは急に閑かになる。 大人も刺激しないよう気をつかっていたようだ。 Uさんは「石屋」の薪割りに来たのである。電気炊飯器のない時代、 ご飯はカマドで薪で炊く。石屋は墓をつくり、Uさんは薪をつくる。 二三時間すると、仕事が終わり、お茶の時間、「石屋」のおばさんとUさんとの奇妙な対話。 おばさんが一方的にしゃべり、Uさんの声はない。 隣家で、本読むふりして少年は耳をすます。その二三時間の長いこと。 Uさんが帰ると、通りは何事もなかったように、賑わいを取り戻した。 青梅の西の果て、新町の物置の中で、Uさんが死んでいたと噂が立った。
以来、Uさんは「七兵衛通り」に姿を見せなかった。 |




