辞世の一句

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文亀二年(1502)、二年ほど滞在した越後から、宗祇と弟子の宗長は「富士をもいま一度見侍(はべ)らん」と美濃をめざして帰途につく。八十二歳の宗祇、五十四歳の宗長とも病身で、途中草津や伊香保で養生しながらの旅。掲句は鎌倉あたりでの千句の連歌の一部で、宗長が「思へば今際(いまは)のとぢめ(辞世)の句にもや」と宗祇終焉記に記したもの。
文月の晦日(三十日)、箱根湯本で宗祇は湯漬けを食い、話をしてまどろんでいたので、駿河からの迎えの者と宗長は安心して寝たところ、夜中に宗祇が苦しげな様子で「ただ今定家卿に会ひたてまつりし」などと言い、また千句の中の前句「ながむる月にたちぞうかるる」という句を「沈吟」し、「我は付(つけ)がたし。皆々付侍れ」などと「たはぶれに言ひつつ、灯(ともし)火の消ゆるようにして息も絶えぬ」
応仁、文明の乱からの戦国時代、旅に明け旅に暮れ、行く先々で連歌に興じ、芭蕉をして「世の中はさらに宗祇の宿りかな」と慕われた。六十九歳のとき、平泉に最後の旅をした西行も驚きであるが、八十にして越後に旅をした宗祇。まさに戦国の老法師である。弟子の宗長も負けずに八十五の長寿を全うする。

「宗祇終焉記」に宗長は慈円の歌を引用して

旅の世に又旅寝して草枕夢のうちにも夢をみる哉


文政十年(1827)年閏六月一日、柏原の大火で十五年前弟仙六と和解して得た家を失い、門弟の家を転々とした後、一茶は土蔵暮らしを強いられる。その年の十一月九日おそらくその土蔵で病没。五十八歳のとき、中風を発し、六十二歳の時再発しているから、三度発作が起きたのかもしれない。享年六十五。

したがって芭蕉や蕪村のように、辞世句はない。掲句には「耕(たがやさ)ずして喰(くら)ひ織(おら)ずして着る体(てい)たらく、今まで罰のあたらぬもふしぎ也」と前書がある。弟の仙六をはじめ故郷の農民に対して、一茶は生涯、劣等感をもっていたようだ。

一句の「花の影」は西行の「願はくは花の下にて春死なむ」を踏まえているといわれている。「寝まじ」から推察されるのである。うっかり花の下で寝てしまったら、そのまま死んでしまうのではないか。一茶には西行ほどの風流心はない。まして、三度目の結婚となる八尾の腹には新しい生命が宿っているのである。一茶はひたすら死を恐れ生に執着し、その挙句、発作で倒れたというのが現実であろうか。

同じ文政十年の句に、
送り火や今に我等(われら)もあの通り と達観したような一句をものにしているが、本心は妻八尾との生活を渇望してようにおもう。最初の妻、菊との間にできた長男、次男、三男、長女を失い、十年弱連れ添った妻とも死別。二度目の妻とは数ヶ月で別れ、前年八尾を手に入れたばかりなのである。

八尾は翌年、女児ヤタを産み、明治元年七十四歳で逝去。娘ヤタは明治六年没。享年四十六歳。

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梅でのむ茶屋もあるべし死出の山 子葉(大高源吾)

元禄十五年(1702)十二月十五日、亡君の仇、吉良上野介義央(よしひさ)の首を取った47士は、泉岳寺に引き揚げる。その後、子葉は大石主税(ちから)らともに、伊予の国城主松平定直に「お預け」となる。

辞世は切腹前に小紙に書いて、傍らの人に渡し、奥平次郎太夫が受け取って懐中に収めたというもの。享年三十二。若年にして、この諦観。武士のつとめを果たした満足感があり、死へのおそれなど微塵もない。

山をぬく力も折れて松の雪 子葉
(山を裂くちからも折れて松の雪)

討ち入りの日、師匠沾徳(せんとく)への書簡にある一句。末尾に師匠から借りた蒲団の処置が記されてのがおかしい。「さては拙者所存の筋黙止(もだし)ガタク、今暁存立ち申し候趣き御座候」と討ち入りをほのめかしている。一句は雪のつよさを詠んでいるのであろう。「沾徳随筆」では「ぬく」であるが、「裂く」の方がいい。
写真:吉良邸跡の義央像と首洗いの井戸

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しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり 蕪村

天明3年(1783)12月25日(陽暦1月28日)、夜半亭蕪村死去(68)。その年の九月、宇治田原に「杖を引」いてから、「腹痛老身を苦しめ」ることになる。

見舞いの弟子に、芭蕉のように「夢は枯野をかけ廻るなどといへる妙境、及ぶべしとは覚えず」などと冗談を言って、元気になったかと喜ばせたが、「12月半ばの日来(ひごろ)は病毒下痢」し

て、「後の事などいささかほのめかし」たりするようになる。22日、23日、蕪村は「おくのほそ道」のみちのくの旅の苦労、しかし今は「帝都」にあって、「医薬おろそかならず、人々のまこ

とを尽くし、残るかたなき介抱」に「本懐足ル事をを知れり」と一生を振り返る。24日の夜、弟子の月渓を近づけ、筆をとらして、「冬鶯むかし王維が垣根哉」「うぐいすや何ごそつかす薮の

霜」の二句を告げてから、「猶工案のやうすなり。しばらくありて又、しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり こは初春と題を置くべしとぞ」と言い、「此三句を生涯語の限りとし、睡れるご

と臨時正念して、めでたき往生をとげたまひけり。」と高弟である几董は伝える。画俳一如の見事な生涯であった。芭蕉の死も食中毒らしく、蕪村もって冥すべしか。1月25日再葬式、同27日

金福寺に埋骨。自ら造った芭蕉庵の隣り、「我も死して碑にほとりせん枯尾花」の本懐をとげたのである。

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ちるものと定(さだま)る秋の柳かな 種彦

19世紀初頭、文化、文政、天保の江戸文化爛熟期、旗本(小普請組)にして戯作家の柳亭種彦(高屋彦四郎)の辞世句。

中七「定る」に、武士としての覚悟がみられる。「秋の柳」もちろん種彦本人のことである。
この句は同じ旗本の荻野梅塢(ばいう)が書き残した。梅塢(ばいう)は天主番で仏教学者(天台宗)。ほぼ種彦と同年で、種彦の死(天保十三年七月十九日死去)の翌年あとを追うように死去。種彦の三十代の日記に登場する。

梅塢の一文によると、大病を患い、「命終」を知り、みずから筆をとって辞世句を書いたという。
さらに「源氏の人々のうせ給ひしはおおかた秋なり、とありて、我が秋六十帖の名残かな よろこばしげにありし」と続く。

種彦大往生の一文であるが、この年、足かけ十四年のベストセラー「偽紫田舎源氏」(大奥でも読まれた)による筆禍で、譴責処分を受けたらしい。時は水野忠邦の天保改革がはじまり、渡辺崋山自殺、為永春水手鎖など改革?の嵐。(したがって種彦は武士らしく切腹したとする説もある)

真相はともかく、種彦は自らの業績に満足し、思い残すことなく生涯を終えたと思いたい。それにしても旗本という高級公務員(しかも世襲)は、太平の江戸にあって暇をもてあそび、思いがけない文化遺産をのこしたもの。明治に入って、江戸文化は鏡花、荷風に引き継がれる。(参考:吉川弘文館発行「柳亭種彦 伊狩 章著」)

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