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国指定史跡 慧日寺跡 は、 徳一大師によって建立され、平安期を通して興隆を極めた慧日寺の遺構です。 本寺地区、戒壇地区、観音寺地区の三地区に分かれています。 図らずも、前回は雪に埋もれた戒壇地区を徘徊していたことが判明しました。(笑) 今回、訪れたのは本寺地区です。 その遺構の多くは礎石です。 建造物は江戸時代以降のものが数棟あるのみです。 現在、中心部の伽藍周辺は木が伐採され、調査が進められています。 それ以外の広い範囲は、深い木立に覆い隠されるようにひっそりと佇み、 一歩入り込むと、 遺構とおぼしき石垣や礎石が、 まだ丈の低い春の野草に覆い隠されるように足元にころがっています。 「絹本着色慧日寺絵図(けんぽんちゃくしょくえにちじえず)」は、 南北朝から室町時代初期に製作されたと推測され、 仏堂・社殿が46棟、礎石26箇所、鳥居15基、石塔5基、橋4基などが描かれています。 中心部の伽藍は、南から、仁王門・中門・舞台・金堂・根本堂などが南北一線に描かれており、 規模・名称は相異がありますが、発掘調査により確認された遺構と類似しています。 慧日寺資料館に展示されています。 徳一大師は、奈良に於いて法相宗を学び、若くして東国に下り、 807年、磐梯山の西麓に慧日寺を創建して、会津の布教活動を展開しました。 842年、慧日寺の徳一大師の没後、弟子の今与(金耀)が後を継ぎ、 この頃、慧日寺寺僧三百、僧兵数千、寺領十八万石、子院三千八百と伝えられ、 興隆を極めたといわれています。 また、 1172年、越後の城太郎助永が越後東蒲原郡小川の荘75ヶ村を衆徒頭乗丹坊に寄付した という記録があり、慧日寺の勢力は東蒲原にも及んでいたようです。 1181年、乗丹坊が、衆徒を引き連れ信濃横田ヶ原に出陣し、木曽義仲に敗れたことから、 慧日寺は経済的に疲弊していったそうです。 1589年、伊達・芦名氏の戦いに於いて、火が放たれ、慧日寺はそのほとんどを消失 江戸時代、会津藩の命によって再建されたものの、その後も何度かの火災に見舞われ、 明治維新の廃仏毀釈により、いったん廃寺となり、 その後大正2年、磐梯山恵日寺が同じ地に復興されています。 仁王門は、江戸後期に慧日寺の仁王門として建立され、 その後、三度移築されており、建立時の位置は不明。 仁王像は、江戸中期の作とされ、ものすごくゴツイ感じがしました。 仁王門の奥に薬師堂があります。 慧日寺の本尊であった薬師如来は、会津五薬師のひとつ「東方薬師」でもあった。 薬師堂は、明治維新の廃寺後、磐梯神社の仮殿として使われたが、 明治5年火災により消失。 現在の薬師堂は明治32年に住民の寄付によって再興されたものです。 慧日寺創建の頃から、会津に於いて修験道が広まり、 この不動院龍宝寺不動堂は、約180年前の再建と伝えられ、 現在は磐梯山修験の祈祷所となっているそうです。 徳一大師の墓と伝えられる平安時代の石塔です。 五重の石塔で、二重目の塔身に納められた土師器の甕(かめ)が発見されました。 また修復作業の折、石塔の下から、130個余りの江戸時代の経石が発見され、 経石は、資料館に展示されています。 現在は、徳一廟に収められて、格子の隙間から覗き見ることができます。 今与供養塔。 徳一没後、慧日寺を継いだ今与(金耀)の時代に、 慧日寺は隆盛を極めたといわれています。 乗丹坊供養塔。 この美しい宝篋印塔(ほうきょういんとう)は中世後期に建てられたもので、 の乗丹坊の墓と伝えれています。 木ざし桜(種蒔き桜)と呼ばれる、エドヒガンザクラの古木は、 乗丹坊が刺した桜と伝えられています。 この桜が咲くと、種を撒く時期ということから、種蒔き桜とも呼ばれているそうです。 幹は、傷んだ部分にコンクリートの覆いがありましたが、 花は、色も濃く、枝の張りも申し分なく、勢いがあり、見事な古木でした。 到着時にはまだ一分咲き程度でしたが、 春の日に照らされて、一気に咲き始めていました。 慧日寺の敷地に入って、進むと、
杉木立に囲まれて、そこだけが光り輝いているようでした。 この木に出会えただけでも、満足できるというような、素晴らしい桜でした。 |
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へ〜仁王門って建立時の位置は不明なんですね!火災や移築なんかで、歴史が失われたり、変わったりするんですもんねぇ。でもそれはそれで一つの歴史なのでしょうが^^お墓が「かわいい」なんて言うと不謹慎ですが、何だか愛嬌のあるお墓ですね^^
2006/5/1(月) 午後 7:02
のびパンチさんは、歴史にすごく詳しいのですね。虎の絵、良く根付の、昔の下絵に似たものがあります。すごく、古いお寺様なのですね。 初めて知りました。お墓、真ん中左のお墓、実に曲線が美しいですね。 昔の、石工の技術の高さが偲ばれます。桜は、本当に、色、枝張りとも素晴らしい桜ですね。
2006/5/1(月) 午後 11:06
はーみーさん、戦国時代の山城などでは廃墟と化している場合が結構多いけど、ここまで栄えた寺院が廃墟と化してしまうなんて、余程のことだったんでしょうね。。。徳一大師の墓は、石を削って薬にしたために、余計に減ってしまったらしいです。効き目があったんでしょうか。。。
2006/5/2(火) 午前 0:08
フクロージさん、徳一大師と史跡・慧日寺は、あまりポピュラーではないようなので、頑張って調べました(笑)。この怖い動物は、磐梯山猫魔山と書いてあって、お寺のお札だそうです。福島県は化け猫の伝説も多いそうです。
2006/5/2(火) 午前 0:14
あの、図鑑を読んでいるような感覚で拝見しました。構成力が凄いですね。私はブロガーの初心者なので、ちょくちょく勉強させてもらいます〜〜。北の方で活躍された僧侶の方々は西の方では知名度、認識度が低いのでとても勉強になります。感謝感謝!!
2006/5/3(水) 午後 6:31 [ ttj*16* ]
ttip169さん、説明が多すぎて判りにくかったでしょう(笑) 徳一大師のことは知らない人がほとんどだと思いますが、時々このブログで触れていく心算なので、思い切ってまとめてしまいました。こんな記事は滅多にないので。。。これからも、よろしくお付き合いくださいね。
2006/5/3(水) 午後 9:13
詳細な記事〜♪すごいですね〜♪
深い歴史がある場所だとよくわかりました〜♪
やはり真言宗系修験者の系統ですね!
桜の可憐で楚々とした魅力が
すばらしいですね〜♪ ラブラブ(( (*--) ̄(エ) ̄)♪
ぽち★
2008/12/17(水) 午後 3:56 [ - ]
やまたろうさん、集落はあまり大きくなく、繁栄を極めた寺院は、木立の中に、その礎石が残っているだけです。桜の見事さだけが際立っていました。ぽち、ありがとうございます。
2008/12/19(金) 午前 7:54